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【短編小説】子どもに、愛するひとに、仕事を誇れる自分でいたい。

 桜の花びらが新しい門出を祝う4月、私は学生を終え、社会人の一歩を踏み出した。

 就職活動をしている際、自身の胸が最もわくわくした営業職についた。いよいよ始まる新生活に、起こり得る山あり谷ありの全てを糧にしようと私は前を見据える。

 会場へと向かう中目黒の並木桜が風に吹かれ、わさわさと拍手を重ねる。

 その拍子に乗るように、私は踊るように軽い足取りで一歩を踏み出した。


■おもてなし

 「今日のゲストは君たちです。何もしないで、ただただ楽しんでいって欲しい。何か辛いことがあった時、今日を思い出して頑張ろうと思えるくらい、楽しんでいって下さい。」

 入社式まで日々お世話になっていた先輩方が、私たちに向かってそう述べるや否や美味しい食事が運ばれてくる。会長や社長とも会話をする貴重な機会を頂きながら、私たち新入社員は徐々に幸せな空気感へと包まれていく。

  「ここで僕たちからサプライズムービーをお届けします」
 

 突然暗くなった会場に映し出されるスクリーンに浮かび上がる文字。

~Message from your Family~

 知らない人たちの幸せそうな動画が、次から次へと流されてゆく。ざわめく会場。歓喜の声をあげる同期。微笑むチューター。


 同期全員分の家族からのメッセージ動画が流されている――、そう気づいた頃にはもう、私の目は涙で溢れていた。これまで散々迷惑をかけた、むしろ今朝でさえ両親のいってらっしゃい、に元気を貰った。そんな家族からの想像もしないメッセージ動画は執拗に私を泣かせ、誰かも分からぬ家族の動画にすら目頭が熱くなっていた。

 私は今も、この日を思い出すと前を向ける。大げさではなく、幸せな気持ちに包まれてしまう。たかが新入社員の私たちに対し、諸先輩方が仕事や睡眠時間を削ってまで作成された入社式の全ては、日々有り難味を増している。もしも逆の立場なら、今の私にそんな余裕があるだろうか――。そう考えるからこそ私は、今も、この日を思い出すと幸せな気持ちに包まれる。私はここで、先輩方のおもてなしや歓迎の心を学ぶことができた。

 私の感じる一番楽しい思い出はなんだろう。一番大切な思い出はなんだろう。思い出すだけでくすっと笑えるエピソード、幸せだった瞬間、好きな映画、感動で胸が熱くなる本・・・。

 この先私は、毎日のように大きな壁に当たるだろう。その辛さを乗り越える出来事は毎度必ずやってくるけれど、壁に当たっている時はそうは思えない。

 でも、だからこそ、それを乗り越えるための新しい思い出ができた。幼い頃家族と行ったドラえもんの映画、恋人と過ごしたクリスマス、友達と行ったディズニーランド、一人で見た海の朝焼け...

 大切な思い出が、この先きっと、私を救う。


■暗黙のルールは守るべき?

 そうして始まった4月は、滝の流れのように一瞬で過ぎ去っていった。さまざまな方からの講義を受け、会社とは何たるか、働くとは何たるかを学んだ怒涛の一ヶ月。本配属されたのも、花冷えのする本月である。

 憧れのオフィスに自分のデスクが用意されている――、就職面接の際何度も通った憧れのオフィスへ放たれたとき、自分の椅子に座ったとき、電話に出たとき、名刺交換をしたとき、営業同行へ行ったとき、はじめてのプレゼン...

 最初の一ヶ月に味わった“はじめて”を私は忘れたくない。あの時の新鮮できらきらとした心を、忘れない自分でいたい。―――とは言うものの、私が味わった“はじめて”は嬉しいことばかりではない。恥ずかしいことや驚くことも多く、社会人としてのマナーを教わったのはこの月が最も多かった。どちらにせよ、つまり大切な月である。

 営業女子の暗黙ルール。

 「当たり前だよね」、このフレーズ一つで済まされること一つ一つが分からなく注意を受け、ひどく落ち込んだこともある。罷り通る当たり前が分からない悲しみと驚き、そしてそんなことも分からぬ自身の情けなさは、それまで味わったことがないものだった。

 ・スーツのジャケットは、新入社員のうちは黒か紺しか着てはいけない。
 ・低すぎても高すぎてもいけないヒールの高さ。
 ・オープントゥーヒールは最初の月にはまだ早い。
 ・エナメルの靴は履いてはいけない。
 ・スカートの丈は、膝が隠れる程度に。
 ・腕全てが見える洋服はNG。
 ・ネイルはしっかりやっておこう!
 ・ネイルはしてはいけない。
 ・かっこよくお洒落な服を着こなせる自分でいよう!
 ・洋服を気にするのは、一人前になってからで良い。まだ早い。


 これは、先輩方から頂いたさまざまな言葉である。さまざまな人から、さまざまなアドバイスを受けた。間逆の意見も多く存在した。

 正直、戸惑った。

 これ以外にもさまざまな暗黙ルールを耳にしたが、これだけ大きな組織なら勿論、間逆の暗黙を持っている方々もいる。だからこそ、大切なのは自身の社会人としての感性を磨くことなのではないだろうか。

 土日が来るたび、洋服を買いに出かけていたのが懐かしい。5月分のお給料でスーツ代を支払ったとき、営業としての気持ちが引き締まる思いだった。今の私が当たり前を当たり前にこなせているかは分からない。しかし、気をつけることを身につけ、先輩社員に確認することを覚えたのも確かだ。人の言うことを聞くだけでは立派な社会人ではない。自分の物差しで以って考えて行動してこそ、真のおとなである。

 ーーーちなみに、私のパソコン画面の文字数は20ポイントである。

 最初のころはボロボロだったメールの誤字脱字を助けてくれたのが、この、20ポイントである。誤字脱字をしたり、添付ファイルを付け忘れたり、異なる名前の人に大切なメールを送信したり、「了解です」と打ってしまったり。
  
 そんな私を救った20ポイントは、他人にはかなり笑われている。
 しかし、笑われたとしても、これが私の、物差しである。

 大は小を兼ねるという言葉があるように、小さな文字数で多発していた私の誤字脱字メールは、これによって無くなった。

 当たり前をこなす自分であるために、20ポイントは欠かせない。社内にいても社外にいても胸を張れる自分でいるために、当たり前を当たり前にこなせる “かっこいい” 自分でいるために、 “かっこわるい” 裏面に自信を持てる自分でいたい。

 たしかに、上司から異なる意見を言われる度に、誰に従うべきか、どの意見が正しいのか悩まされた。地味に思える悩みだが、愚直な私にとっては意外と大きな悩み。

 でも、入社したばかりの私にはまだ、社会人としての物差しがなかった。だからこそ、自分の物差しを見つけるまでは、とにかく色々な上司の意見を聞いた。

 従うのではない。吸収する。

 吸収すればするほど、自分のありたい姿が明確になってくる。ありたい姿が明確になった時にはもう、悩んでいたことさえ忘れている。尊敬する上司を見つけること、「あっこの人のここを真似したい」と思えること、ありたい姿に近づけるように、自分の物差しをゆっくりと見つけていった。


■ゴールデンウィークと空回り

 そんな怒涛の4月が去り、夏の気配が近づいてきたうららかな5月早々。迎えたゴールデンウィーク。

「ゴールデンウィーク明けには、いままで以上の活躍をしないとね」

 口を揃えてそう語ったものであるが、その期待はすぐに打ちのめされることとなる。

 “はじめて”が楽しいばかりの4月とは異なり、少しのノウハウを覚え始めて精神的な不安が重なってきた5月。

 空振りと空回りが多かった。

 何に追われているのか分からないが、ずっと何かに追われている。今すぐにでも即戦力になりたいのに、まだ何もできない弱さ。いじれないシステム、考えられない企画書。覚えたいのになかなか覚え切れない資料。焦る気持ち、募る不安感、急かす成長したいという気持ち。

 自分は相当焦っているのにも拘わらず、焦れ、と言われたこともある。そういう時は、自分の物差しを忘れずに励んでいこうと前を向くよう努めた。人には誰にでも必ずや考え方の差があるものだ。

 皆がそれを理解し歩んでいけるなら、社会はもっと上手に回っていくだろう。

 そんな空回りの5月前半を終え、日付は早くも5月後半へと突入した。

 風が香りだしたと同じ頃、私も強みを見つけていた。少しづつ出来ることが増え、任されることも増えていった。だんだんと、地道な強みが出来始める。部署内での顔見知りも増え、飲み会に誘われることも増えた。通常関わりの無い部署の人と飲みに行くことは、私の生き抜きとなった。

 同じ会社なのに知らない世界、同じビルなのに見えない仕事。皆がそれぞれの場所で、それぞれのやり方を切磋琢磨で生き抜く姿に元気を貰った。

 悩みを吐き出すことや、社員とのコミュニケーション方法を覚えたことで、徐々に自信も取り戻せた。

 入社して三ヶ月を振り返ると、精神的に最も辛かったのが5月だと思う。しかし、会社は与えてはくれない。自分から、取りにいかねければいけない。社内でのコミュニケーションすらまだ上手く取れない時期は、聞きたいことがあっても、その担当が誰なのかすら分からないこともある。

 「その悩みは全員が持っているものだから、君だけではない。大丈夫だから。絶対に乗り越えられるから」

 ある朝先輩にかけられたこの言葉に、私の心は一気に軽くなった。


■お相手は会社ではなく、一人の人間。

 暑気日ごとに厳しさの増す6月。営業マンとしての私は少しづつ成長を重ねていた。色々な心情に襲われ複雑な感情に嘆いていた頃とは変わり、自分の出来ることが明確に増えていき、出来ないことが何なのかも明確になってきた。
 6月は、私の大きな分岐点である。

 しかし、広告代理店との関わり合い方や、広告代理店の考えることが汲み取れず悩むことも多かった月だ。一から全て一人で取り組み、もう少しで受注という文字が見える案件も、突然連絡が途絶え、連絡をしても流され、気が付いたら失注・・・ということもあった。あれだけ苦労したのに、あれだけお互い乗り気だったのに、あれだけ上手くいっていたのに。

 どうして?

 この言葉は常に私の頭の中に浮かんでいた。悔しい思いや息苦しい思いを山ほどし、達成感も味わえぬまま、次々と舞い込んでくる仕事や任されているプロジェクトにしっかりと向き合い続ける他なかった。自ら志願した仕事に追われ、なかなか帰れないこともあった。

 広告代理店やクライアントの考えていることを、分かる営業マンなどいるのだろうか。そもそも社会人が相対するクライアントは、星の数ほどいる。その人たちの考えは、一概に同じではない。

 それはつまり、あくまで、”対1人の人間”であるということ。

 1人の人間の気持ちをくみ取ることは難しい。家族ですら、友人ですら完全にくみ取ることは難しい。とすれば、仕事で出会った人間の気持ちを図るのは非常に困難だ。

 しかし、1つ言えることは、だからこそ、楽しいということである。分からないからこそ、分かろうとする。異なる人間が異なる考えを真剣にぶつけてくれるのは、莫大なお金が発生する仕事だからだ。

 私は仕事をする楽しさを、広告代理店との関わり合いから学んだ。

■君はカメレオン

 広告代理店がみな異なる人間と言っても、諸先輩方はうまくコミュニケーションを交わしながら受注を重ねている。では、諸先輩方はどうやって接しているのだろうか。

 デキる先輩の答えは、ただ1つの簡単な答えである。

「出てくる相手のタイプを一瞬で判断し、態度や口調、姿勢すら変えること」

 これは相手を騙すという意味ではない。出てくる相手に自分を変幻自在に変えることの出来るスキルであり、筋の通った、人との関わり方である。相手を見下すのでもなく、自分を卑下するのでもなく、相手と同等に接しあうからこそ成せる技である。

 私はまだ、カメレオンになれなかった。

 今もまだ出来ていないであろう。

 営業経験や社内経験を積み、色んな人と関わりあう中で見つけることができるだろうそれを探して、必死に模索を重ねている。自分だけのカメレオンを見つけた頃にはもう、恐らく一人前の営業マンとして社会を闊歩しているのではないだろうか――――――いや、そうなっていたい。


■7月が見た、涙


 私がはじめて会社で泣いた場所。
 8階のトイレ。手前から二つ目の個室。

 あの子がはじめて泣いた場所。
 オフィスの自席。二時間分の溜まったティッシュ。

 あっちの子もはじめて泣いた。
 皆に見られない場所。チューターの前。強い精神力。

 五月雨の7月が見たのは、営業部に配属された新卒全員の涙である。これまでは、どうにか家でしか泣いたことの無かったメンバーが、ついに会社で泣いた記念日である。

 「悔しい。悔しくてたまらない」

 出来ることと出来ないことが仕分けられるようになった今、皆それぞれの悔しさを抱えながら、憧れだった職業の道を、必死に歩き続けている。

 今はもう7月だ。

■親に、そして子どもに、胸をはれる仕事をしたい。

 13年前、こんな事件が新聞の見出しを埋めた。

「北京市の露店で、肉まんの材料に本来使われるひき肉とともに段ボールを混入させた『偽装肉まん』が発売されたということです。」

 使われなくなった段ボールを苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)に浸した水で脱色して紙をボロボロにし、それとひき肉を6:4の割合で混ぜ合わせたとされる。豚肉の香料を加えて、本物と見分けが付かないように製造されたと、各メディアが報じた。

 彼らは、自分の親や子どもたちに、胸を張って自分の仕事の説明ができたのだろうか。

 私は、親に、そしていつか生まれる子どもに、愛するひとに、胸をはって、笑顔で自分の仕事を説明できる自分でいたい。

 どんな職業につこうとも、どんな大人になろうとも、自分のした仕事で、どこかの誰かが幸せになってくれることを信じて、歩んでいきたい。

 つらいことがあったとしても、大きな壁にぶつかったとしても、雷が鳴ると、梅雨が明ける。

 そう信じて。

 だって、この職業は、私の誇りだから。

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