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『裸の聖書』32. 大いなる詐欺 :ナンセンスな長い伝統 -2
こんにちは、もんぱちです❣
情報戦争につき、必要な情報をできる限りお届けするため『裸の聖書』を翻訳して拡散しています。
聖書を文字通りに読むのはかなり問題があるって
ようするに権力者にとって都合が悪いってことよね?
大体さ、出来事の後に書いたら預言は預言じゃなくない?
しかもあとから都合よく修正されちゃってるぽぃし。
神聖に見せるための脚色ってこと?
『ヤコブの夢』の”天国への道”とか”神に選ばれた民”も
なんだか辻褄合わなくなってくるよ?
前回の記事はこちら↓↓↓
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大いなる詐欺 :ナンセンスな長い伝統 -2
要するに、聖書を文字通りに読むのはかなり問題があるということだ。これらの聖句を深く掘り下げれば掘り下げるほど、そこから浮かび上がってくる物語全体が、神学が旧約聖書に言わせようとするものとは何の関係もないことを発見する危険性が高まる。
ビグリーノは明言している:「神学的な思索の正当性を全面的に否定するつもりは毛頭ない。神学は何をするのか?それは神についての概念を推敲することだ。これについてはわたしは非常に良いと思うが、しかし、キリスト教神学が聖書のテキストにその信念の根拠を求めるとき、問題が生じることも付け加えておきたい。それを実現する方法はただ一つ、旧約聖書を歪曲し、旧約聖書が語ったことのないことを語らせることだ。」
特に思い浮かぶセンセーショナルな事例はあるのか?
数ある中で、最も有名なキリスト関連の預言がある。
イザヤ書の7章に、イエスの誕生に関する有名な預言がある。
翻訳された節にはこうある:『見よ、おとめ(処女)がみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。』
これは、旧約聖書と新約聖書を結び付け、キリスト教の救世主の到来を予言する、完璧な一致のように思える。この解釈は約2000年前のものだが、今日でも認められている。
「しかし、誰もがそう思っているわけではない。2016年、ドイツ司教協議会はついにその特定の節の正しい翻訳を承認した。」
その正しい翻訳とは?
「実際、ヘブライ語では処女(おとめ)という言葉はなく、ただ若い女性、乙女(おとめ)を指す。処女を表わすヘブライ語は『ベトゥラ(betullah)』だが、イザヤ書で使われているヘブライ語は 『アルマ(almah)』で、『若い娘』という意味しかない。」
つまり、その聖書の一節は、将来のイエスの誕生とは何の関係もない。
それは確かなのか?
「もちろんだ。イザヤ書は聖母マリアについて語っておらず、列王記下や歴代誌下に書かれているように、アビヤという名の少女について語っているのだ。」
そのアビヤとは誰なのか?
「彼女はユダ王国のアハズ王の妻で、当時、身ごもっていた。彼女はユダ王国の将来の王ヒゼキヤを出産しようとしていた。」
何世紀にもわたって支配的だった『誤解』?
「誤解は、さまざまな仮定を裏付けるのにうってつけだった。まず、聖書の預言の恐るべき無謬性だ。そして何よりも、旧約聖書によって確認された、将来の救世主の使命の重要性だ。」
では、これはすべて間違いなのか?
そうだ。ドイツの司教たちでさえそう書いている。「彼らは、イザヤ書の詩の中で、そのテキストが書かれたとき、少女はすでに身ごもっていたことをはっきりと認めている。」
いつか遠い将来、人類の歴史を変える運命にある特別な息子を産むことになる『処女』はいない。
そのようなことは一切ないのだ:事実、イザヤ書が書かれたとき、幼いアビヤはすでに妊娠していた。彼女は身ごもっており、出産間近だった。
「ドイツ語版の聖書の脚注には、『アルマ(almah)』が『処女』ではなく、『若い女性』を意味することが明記されている」とビグリーノは満足そうに認める。
衝撃的?
聖書を朗読してもらうことに慣れている人にとっては、そうかもしれない。
しかし、マウロ・ビグリーノはまったく氣にしていない。
「これは、未来の予言として解釈されてきた、いわゆる聖書の預言の1つにすぎない。」
未来の予言ではない?
「違う、未来の予言などではない。『神聖な』歴史に正当性と古さを与えるために、神学によって練り上げられ後から脚色されたものだ。」
これはもう一つの例?いわゆる『ヤコブの夢』だ。
「創世記の第28章にそのことが書かれている。カランに向かう途中、ヤコブは一夜を過ごすため立ち止まり、横になる。その夜、彼は地面に梯子が立っており、その頂点は天に達し、この梯子の上を『天使たち』が上り下りするのを見るのだ。」
しかし、これらは後のキリスト教の図像学における翼のある天使ではない。これらはエロヒムの使者マラキムである。
「ヘブライ語のマラキムは『天使』と翻訳され、教義的、神学的伝統では常に彼らを霊的な存在として表現してきた。実際には、マラキムという用語は『メッセージをもたらす者』を意味する」とビグリーノは説明する。「実際、マラキムは使者、守護者、監視者、そしてエロヒムの命令の執行者として使われていた。」
ヤコブが夢で「見た」のは、天に届く梯子を上り下りする者たちだ。
『神の栄光』をもっと平凡な『ヤハウェのカヴォド』として見るレンズを通して見るなら、ヤコブの夜間の夢でさえ、まったく異なる現実を示唆しているかもしれないのだ。
「その梯子は、地上と上空にある何かとの間の何らかの輸送システム、または通信システムの存在を指しているようだ。いわゆる天使たちが使う輸送システムだ。彼らは霊的な存在などではまったくなく、その梯子を使って上り下りしていたんだ。」
ビグリーノは続けて、元の記述は「ユダヤ民族が外国の支配下にあったさまざまな時代に応じ、預言的な意味合いで人為的に解釈された」と付け加える。
後のユダヤの伝承では、天使によって歩数の数え方が異なるとされた。それぞれの歩数集団が正確な『預言的な』年代と一致するのである。
注意が必要だ。「この解釈は、出来事がすでに起こった後に書かれたものだ。様々な期間の長さは、それらの歴史的期間がずっと過ぎ去った後になってから書き留められたのだ。」
言い換えれば、あの梯子を上り下りする『天使たち』の動きを観察することによってヤコブが『受け取る』年代的指標は、確かに正確なのだ。しかし、言及された歴史的段階がすでに完了していたことを考えれば、そうでなかったはずがない。
そうだろう。一つを除いては。
「唯一欠けている年代的事実は、いわゆるローマ支配の期間に関するもので、執筆当時はまだ終わっていなかった。」
この場合、著者は『天使』に正確な段数を登らせることができなかった。
「このことから、この解釈の預言的価値はほとんどないと推測できる。」
またしても、ビグリーノの推論は完璧である。
「しかし、聖書の預言はすべて事後的に、つまり語られた事実がすでに起こった後に書かれたものであることを繰り返し述べなければならない。実際、ラビたちが書いているように、『預言』はしばしば時間の経過とともに修正され、さまざまな状況に適応することがよくあった。」
これは『ダニエルの490年』の預言の場合であり、とりわけローマ帝国によるエルサレムの占領を預言している。
「現実には、ダニエル書は最初、わずか70年間の待機期間について述べていた。その後、テキストが『預言的に』示した年月の中にある出来事を人為的に含めるために、『70週の年月』と変更されたのだ。」
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大いなる詐欺:ナンセンスな長い伝統 -3へ続く**********************************************************
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