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『裸の聖書』46. トーラーがキリスト教徒の手に渡ったとき -2

こんにちは、もんぱちです❣
真実を知る手がかりの一助として、『裸の聖書』を翻訳し拡散しています。

唯一神は聖書に存在しない。
エロヒムを神と訳すのは不可能。
旧約聖書はある家族の物語である。

これらはビグリーノが確信している事柄ですが、
これがある時期に突如一神教徒の
文化的優位性が現れたこととどう関係するのでしょうか?

歴史の改ざんは支配者にしたら基本中の基本。
人は真実を見る目を養う必要がありそうです。

前回の記事はこちら↓↓↓

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トーラーがキリスト教徒の手に渡ったとき -2

もちろん、マウロ・ビグリーノは、ユダヤ教、そしてキリスト教の一神教の出現について自分なりの考えを持っている。彼はそれをあからさまな神秘化とみなしている。なぜなら、それは一神教の示唆すらないテキストに基づいていると主張しているからだ。
「せいぜい、数ある神々の中から1つの神が選ばれる一神教について語れるくらいだ。」
しかし、ここでもすべては用語の問題である。
「子羊の脂肪を焼いたり、さらにそれ以前は生まれたばかりの赤ん坊の脂肪を焼いていたような『神々』とは、いったいどんな存在だったというのか?」
そして、一神教の『発見者』だけが知的だったということはあり得るのだろうか?
「それは、シュメール人、エジプト人、フェニキア人、ギリシャ人、ローマ人がみな単純思考だったと言うようなものだ。彼らはメソポタミアと地中海を支配し、広大な大陸を征服し功績を残したが、それでも、愚かな彼らは役に立たない石像を崇拝して時間を浪費した。そんなことがあり得るだろうか?」
彼らが心ない愚か者の集団ではなかったと認めるのが理にかなっている。彼らは文字や建築の発明者であり、最初の法律、農業、宮殿や温泉、道路、軍艦、港、ビジネス、そして大帝国の発明者である。これらすべてが、馬鹿げた迷信に従って生きるほど無知な人々の仕事だったとは考えられない。
しかし、これこそが宗教的な俗説がわたしたちに伝えていることだ:ある時点で、卓越した一神教徒の文化的優位性が現れたのだ。
「彼が本当に存在する可能性を否定するつもりはないが」とビグリーノは説明する。「正直なところ、古代のテキストには彼の痕跡がまったくないと指摘せざるを得ない。」
翻訳者は断固として、彼が持つ数少ない確信のひとつにおいて揺るがない:唯一神は聖書に存在しない。
「わたしはもちろん疑問だらけで、『売る』ような確信は持ち合わせていない。慎重に論じたとはいえ、これらはわたしの仮説に過ぎない。しかし、『エロヒム』という用語を『神』と訳すことは不可能であり、その意味が何であろうと(それは誰にもわからないが)、それが複数形であることはわかっている。」

唯一神の地位を巡って争う神々のイメージ

問題は?
釈義と宗教は別のものだ。分析はわたしたちを検証へと導くが、信仰はわたしたちに信じるよう求める。
もちろん、これは正当なことである。
「正当以上なものだ」とビグリーノは主張する。「わたしは信仰を持つ人々を理解している。そして、彼らが幸せになるのであれば、それがどの信仰であれ、熱心に信仰に生きてほしいと願っている。それは本心だ。そして、もし彼らがわたしの著作に影響されることを許したら残念なことだ。繰り返すが:わたしは自分が神について議論することを許さない。決して。わたしは聖書に書かれていると思うことを話すだけだ。そしてはっきりさせておきたいのは、一神教の神はそれらの節には登場しないということだ。」
もっともな話だが、信者にそれを説明してみて欲しい。

「旧約聖書がキリスト教にとって重要な意味を持つようになったのは、福音書が書かれた後のことであり、とりわけタルソのパウロの活動の後である。
彼はキリストを旧約聖書を彷彿とさせる人物像として提示したが、その解釈は再考されるべきものだった。」
これはビグリーノにとって今でも根本的な論点であり続けている。それは聖書の節を解釈するレンズを変えた。その節は神学の柱となるべきものだったのだ。
これは明らかな誤訳である。
「旧約聖書は、実際にはユダヤ人、もっと言えばヤコブ=イスラエル一族についてのみ書かれたテキストだ。もし旧約聖書と新約聖書が分離される日が来るとすれば、旧約聖書は以前の姿に戻り、そのまま存続するはずだった姿に戻るだろう。」
その意味は?
「旧約聖書は、ある家族の物語であり、彼らの支配者との関係を綴った書物だ。そしてそれは人類とは何の関係もない。ただし、イスラエルがやがて向き合うべき個人や民族の集合体であるとみなすなら、支配者としてか、あるいは救世主として全人類の救済を担うということだ。」
これは、キリスト教とユダヤ教を隔てる溝を説明している。
「イエスがユダヤ人に救世主として認識されず、イエスのイメージが普遍主義的なバージョンで、普遍主義的な機能をもって再創造されたのは偶然ではない。ユダヤ人は救世主の到来を待ち続けており、事実、彼らもまたこの未来像を再度推敲し、場合によっては自らを普遍的な救世主と見なしている。」
『歴史を変えた』と言われる福音書の主人公に、ユダヤ人が『救世主』を見ることなどあり得るだろうか。
キリスト教徒にとって、イエスは人類の救世主である。神の子であり、人として生まれ、人として死ぬ:人間の状態からの救済が依存する残酷な犠牲であり、永遠の命という報酬をもたらすのだ。
歴史的な資料はあるのか?
ここでも同様に、それらはまったく存在しない。正典とその他の福音書だけがこれらの出来事を扱っており、しかも非常に矛盾した方法である。
唯一確かなことは、現時点で、キリストの歴史的存在は証明できないということだ。
もちろん手がかりはあるが、証拠はない。しかし、この物語の導入は非常に強力で、人類はキリストの誕生の『前』と『後』の年数を数えるという、自らの年表の再計算を受け入れるに至った。キリストは存在すらしなかったかもしれない人物である。
「わたしは、福音書が語る人物は実際に存在したと考える者の一人だ。そこには当然、彼が実際にはどんな人物であったのかを理解するという問題がある。」
では、彼は何者だったのか?
「ユダヤ教の救世主ラビの一人で、当時は大勢いた。」
正確には、彼の名はイエシュア・ベン・ユセフ。文字通り、ヨセフの息子ヨシュアである。
「ヨシュアという名前は当時とても一般的だった。有名な『ヨセフの息子』、あるいはマリアの息子は、他にいる無数のヨシュアと区別するために、イエスと改名された。」
奇妙なことは彼の誕生から始まる。
「わたしたちはみな知っているように、これはマリアに直接働きかけた『ガブリエル』の介入によって引き起こされたという点で、異例なようだ。」
ビグリーノはここでヤコブの原福音書から引用している。このテキストには、出張から戻ったヨセフがマリアの妊娠を発見し、激怒する様子が語られている。

身に覚えがないのに妻が妊娠してたら怒るどころじゃないよね

「ヨセフはまた、自分の運命を案じている。マリアは処女として彼に託された、したがって彼女はそうあるべきだと言っている。誰かが彼女を誘惑したのだろうか?ヨセフは、彼女を誘惑したのは、『使者』を装った誰かではないかとさえ推測している。そしてこれが、この出来事の具体的な現実を理解するのに役立つ。」
言い換えれば、大工のヨセフは、ノアのような他の『驚異的な』誕生において、エロヒム自身ではないにせよ、『天使』が果たした可能性のある役割について、かなり明確に理解していたに違いない。
イエスの公の歴史をたどることは可能なのか?
「彼の使命は何年も続いたと推測することができる。その中には、故郷に戻った時の長い沈黙の期間も含まれている。それはおそらくナザレではなく、ガマラだ。」
ガマラ?
「彼の家族もそこに住んでいた。熱心党の一族だ。その最も重要なメンバーの一人が熱心党のユダだ。」
ビグリーノは彼の著書『神々と半神々』の中で、イエスの出身地をガマラではなくナザレに置き換えたのは、当時、熱心党に代表される反ローマ抵抗の政治的中心地からイエスを遠ざける目的があったのではないかという一部の学者の仮説を報告している。
そのエッセイからは、福音書の膨大なテキストにしっかりと根ざした推論に基づく、かなり不穏な人物像が浮かび上がってくる。
ちなみに、イエシュア・ベン・ユセフはカルト教団を設立しようなどとは夢にも思っていなかった。
結局、彼は十字架にかけられたのか?
かけられたが、ただし扇動罪のためだ。しかも彼は33歳ではなく、40歳をはるかに超えていた(おそらく43年前に生まれたのだろう)。
彼は人類を救いたかったのか?
「まったく違う。彼は自国民を帝国の支配から解放することだけに関心があったが、事態は悪化した。」
死と復活?
「いや。彼はおそらくヒポクラテスが勧めたようにマンドレイクで意識を失ったのだろう。意識を失う直前に喉の渇きを癒すために使った『眠りを誘うスポンジ』は、すでに初期の外科医が麻酔として使っていたその特別な薬に浸していたに違いない。こうして、折れば命を失いかねない足を折ることなく、彼は十字架から降ろされた。」
その後、彼はその墓と言われる場所で、45キロにも及ぶ大量の薬物を処方された。非常に強力なアロエとミルラをベースにした混合物は、死者ではなく、戦いで負傷した者に使われたものだ。

巨大な岩を動かす天使は本当は強面の男かな

数時間後(3日後ではない)、彼は2人の人物によって洞窟の外に連れ出されたが、2人は彼に近づくために入り口を塞いでいた重い石を動かさなければならなかった。まだ傷ついたまま、謎の2人の救助者に支えられながら、彼は英雄プロメテウスやロムルス(ローマの創始者、マルスと普通の人間レア・シルビアの息子)と同じように、光の『雲』の中に姿を消した。古代の他のすべての半神たちと同じように、光り輝く雲に『拉致』されたのだろうか?
そして最後に、なぜ彼はあの墓から出るために、あのような巨大な岩を動かす必要があったのか?霊的に復活したのではなかったのか?





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宗教のイエスとユダヤ人の救済を望んだイエス -1へ続く**********************************************************


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