藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』

 信仰と崇拝は別のことで、その区別はときどき難しい。信仰とは超越的なものとつながる場所を自分のなかに作ること、崇拝とは「推す」ことだと思う。様々な宗教という制度があって信仰と崇拝へのアプローチにも色々あるが、根っこの態度に大きな違いはないのではないか。そうして信仰の何であるかが忘れられやすく、そのために宗教改革が起こるということもいくつかの宗教においては共通しているはずだ。

 仏教も例外ではない。仏陀が悟り、それが広まり、大乗仏教が起こり、さらに禅が生まれた。仏教3.0とはその流れに連なり、もう一段階革新する、人が本当の意味で信仰をできるようにするための運動だ。その原理を分かる言葉にする…布教するために永井均の哲学が導入される。これはその永井均と仏教3.0を推し進める2人による鼎談本である。永井均は本当に導入されているだけなのだが、本人があとがきに書いているように、彼の仕事の入門書としても読めるようになっている。

 さて、仏教3.0というからには(便宜的な名称にすぎないらしいが)、2.0と1.0がある。1.0が日本の伝統仏教で2.0が欧米で人気噴出しているヴィパッサナー瞑想などを行うテーラワーダ系の仏教である。多分ざっくり過ぎるまとめ方になってしまうが、前者では至るべき状態があることだけを知らされ、それに至る道筋は明かされず、只管打坐を続けることになる。後者では目指されるビジョンが与えられないまま、組み立てられた精緻なメソッドに基づいて瞑想を行う。これがアメリカに輸入されてセラピー的なものになり、頑張ればある程度いけるけれども何か救われない、頭打ちになるということがある。この2つを統合し、目指すべきところをはっきりさせてから瞑想しようというのが3.0だ。

 その目指すべきところとは何かというのがこの鼎談で語られていることだ。山下良道の言葉で言うとそれは「青空としての私」、永井均の言い方では(山括弧つきの)「〈私〉」(※1)であり、それは老師内山興正の思想にも通じるものであるらしい。無心、だけど気づいている=マインドフルであること。自分を沢山の人々のなかの1人として、自分を含む世界を対象として捉えるのではなくて、視界や痛みを含むあらゆる感覚を共有することができず、何によっても定義されないが他の人と絶対に混同するはずがない自分、〈私〉として瞑想を行うということ。どの箇所での発言だったかメモし忘れてしまったが、藤田一照が「幕が上がる」といったような言い方をしていて、これはきっとキリスト教におけるエピファニーのことを意識しているのだろうと思った。

 これを突き詰めると、死はない、私は死なない、という認識にいたるらしい。どこまで同じ話なのか判断できないけど、アキレスと亀の話が出て来る。普通に考えたらアキレスは亀に追いついてしまうのだが、実はこの話では、アキレスと亀が等速運動をしているとは言われていない。あるいは地面が伸び縮みしないとも言われていない。だからアキレスと亀の速度がどんどん遅くなっていけばアキレスは本当に永遠に亀に追いつけないし、地面がどんどん伸びていけばアキレスは本当に亀に永遠に追いつけない(※2)。そのような意味で私は死なない、ということらしい。ハイデガーはめちゃくちゃ死を意識するけれどもオスカー・ベッカーという人は死がない、死ぬ余地がない、というようなことを言っているらしい。

 ここまでくると分かるような分かんないような話だけど、信仰の必要性のようなものを感じていたときにこれを読めたのはよかった。闇雲に呼吸に集中してみる、自分が何かを考えだしたらそれを観察する、といったどこにでも解説されているマインドフルネス瞑想のやり方ではどこにも行けない感じがしていた。それどころか、乖離というか離人というか、そういったより不安定な状態に落ち込みうるのではないかという危惧さえあった。それは出発点が不適切だったということだ。

 ハイデガーの意味で存在に目覚めて以来、死ぬのが怖い。怖いので頽落しながら生活している。人間関係が少しだけ上手く出来るようになって不安や劣等感を少しだけコントロール出来るようになって、それがもっと出来るようになったとしても、その筋で根源的な不安を解消することはできない。他者に開かれる…みたいな最近流行ってるような気がする倫理にしたって(悪いとも全然役に立たないとも言わないけど)似たようなものだ。

 信仰とは因果応報を信じたり封建的な道徳に従って行動することでもない。その意味で、ひょっとしたらこのアプローチなら、この瞑想なら、救いに至ることができるかもしれない。


※1 この山括弧の外についているカギ括弧は私が引用のために付したもので、永井の用語では〈私〉とカギ括弧の「私」が対置されるので書き方が難しい。
※2 これは永井均が出した例だが、植村恒一郎『時間の本性』、青山拓央『タイムトラベルの哲学』に大きく依拠しているらしい。


藤田一照・永井均・山下良道『<仏教3.0>を哲学する』春秋社、2016年。

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