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monogatari9
2024年7月11日 06:46
エピローグ 深夜の街を、一人の男が歩いている。 仕事帰りのサラリーマンの姿もすでに路上には見えず、街はひどく閑散としていた。 彼は、会社を辞める後輩の送別会に行った帰りだった。 本当は一次会で帰る予定だったが、その後輩に、「先輩もぜひ二次会に来てください。相談したいことがあるんですよ」 とせがまれて、仕方なく二次会に参加した。だけど相談といっても何のことはない。後輩が今まで勤めていた
2024年7月10日 06:34
もし田代が嘘をついているのだとしたら、田代は5月10日の深夜に、居もしない乗客を乗せてタクシーを賃走にしたことになる。そして、後部座席に誰もいないタクシーの中で、タクシー本部に、「カバンの忘れ物あり」 という無線連絡をしたことになる。 石川はその光景を想像して、薄ら寒い思いがした。とても常人の沙汰とは思えなかった。 柳刃包丁の柄から検出された田代の指紋。これだけの物証が出ていれば逮捕は時
2024年7月9日 07:08
田代がK町派出所に姿を見せたのは、深夜の1時12分だった。 その時、K町派出所には松永巡査長と藤田巡査がいた。同じくK町派出所に勤務する片岡巡査は、N交通からの110番通報を受けて見回りに出ていた。 松永巡査長の証言では、その時の田代は、何かをひどく恐れているかのように落ち着きがなく、幽霊のような白い顔をして、目も虚で、ただ、「女が……、女が……」 と呟いていたという。 それはちょうど
2024年7月8日 07:32
2 石川英二は、目の前のマジックミラーを覗き込む。 マジックミラーの向こう側に、小さな部屋が見えた。 6畳くらいの殺風景な部屋の中央に一つの机が置かれている。そしてその机の向こうには、こちらを向くようにして一人の男が座っていた。目の下には深いくまができており、虚な目で、何も置かれていない机の上を見つめている。口では何かをボソボソと呟いている。 石川は耳を澄ます。 その男は、低く震
2024年7月7日 07:30
田代は唖然としながら、先ほどの佐々木の言葉を繰り返していた。「何も、聞こえなかった……」 佐々木は確かにそう言った。 これほどの音が聞こえない訳がない。 ガンッ、ガンッ、ガンッ。 田代のすぐ横で、女は依然として包丁の柄を窓ガラスに打ちつけ続けていた。 ミシ。 窓ガラスのひびは、徐々に大きくなっていく。 田代は絶望的な思いで、その広がっていくひびを見つめる。頭の中では、先ほどの佐々
2024年7月6日 07:37
逃げなくては。 窓ガラスに執拗に包丁の柄を打ちつけ続ける女を見つめながら、茫然とした頭の中でそのことだけは認識することができた。 ここから、逃げなくては。 この女から、逃げなくては。 田代は震える指で、エンジン起動用のプッシュボタンを押す。だけど先ほどやった時と同じように、キュルキュルという情けない音を出すだけでエンジンはかかってはくれなかった。「お願いだから、かかってくれ」 窓から
2024年7月5日 10:01
女は再び右手を振り上げる。そして窓ガラスに包丁の柄を振り下ろした。先ほどと同じようなガンッという音が車内に響く。 田代は大きく目を見開いて、その女の様子を見つめていた。 自分の身に何が起きているのか分からなかった。ただ茫然となりながら、口を半分だらしなく開けていた。そして、髪を振り乱して包丁の柄を窓ガラスに叩きつけてくる女の不気味な笑い顔を見つめていた。 それは何度も続いた。 ガンッ。ガ
2024年7月4日 07:30
エンジンをかけようと、ハンドル横に設けられていたエンジン起動用のプッシュボタンを押す。だけど、車の前方からキュルキュルという音がするだけでエンジンは掛からなかった。何度か押してみる。やはりエンジンは掛からない。「くそっ」 田代はプッシュボタンから指を離した。 ルームライトをつけっぱなしで長時間放置したせいで、バッテリーが上がってしまったらしい。こうなってしまうとロードサービスを呼ぶしかなか
2024年7月3日 06:40
確かに、自分は早とちりをしてしまっていたのかもしれない。 佐々木の先ほどの言葉を思い出して、田代は急に不安になった。タクシーはキーを挿したままだ。誰かに乗り逃げされてしまったら、それこそ目もあてられない。それでタクシーを壊されでもしたら、費用を自分が支払うことを求められるかもしれない。 今、自分はどこにいるのだろう。 改めて周りに視線を巡らせる。だけど、そこには見知らぬ街がどこまでも広がる
2024年7月2日 06:59
田代は、夜の街を走った。 自分がどこに向かって走っているのかも分からなかった。ただ、タクシーから少しでも遠くに離れたかった。そしてあの女から少しでも遠くに離れたかった。あの女から逃げろ。田代の本能がそう命令していた。 バス通りから離れるように住宅街の中に入っていく。田代はひたすら走り続ける。 深夜零時を回ったK町はやけに静かだった。仕事帰りのサラリーマンの背中を見ることもなかった。人が絶え
2024年7月1日 06:52
再びタクシーの中を、沈黙が満たす。 依然として、背後からシューシューというような耳障りで気味悪い呼吸音だけは小さく聞こえ続けていた。 何なんだ。 この女は一体何なんだよ。 ハンドルを握りながら田代は必死になって考えていた。 コートの手前についているあの赤黒い汚れは何なのか。本当に誰かの血なのか。もしそうだとしたら、なぜコートの手前に血がべっとりとついているのか。女の血でないのだとしたら
2024年6月30日 06:50
女性はそれほど興味があるわけでもないのか、その隠語についてそれ以上訊いてくることはなかった。 田代は気を取り直して前方に集中する。 ちらちらと横目でメーターを確認する。大丈夫だ。法定速度はしっかりと守っている。 一か月前に、昼寝をしようと路肩にタクシーを駐車して、寝ていると、警察に窓をコンコンと叩かれたことがあった。何事かと思って窓を開けると、「ここは、駐車禁止エリアだから」 その中年
2024年6月29日 07:36
1 田代勇輝は、O街道をタクシーで走っていた。 時刻は午前零時を回っており、流石にO街道を走る車の量は減ってきている。道路の脇の歩道には、人通りは全く無くなっていた。 先ほど長距離の客をM駅で拾って三十分くらいの距離にあるW町まで乗せて行き、そしてまたM駅に戻る途中だった。 田代はタクシー運転手になってまだ日が浅い。 もともとはメーカーで営業をやっていたのだが、3か月前にタクシー運転