隠語(第5話)
確かに、自分は早とちりをしてしまっていたのかもしれない。
佐々木の先ほどの言葉を思い出して、田代は急に不安になった。タクシーはキーを挿したままだ。誰かに乗り逃げされてしまったら、それこそ目もあてられない。それでタクシーを壊されでもしたら、費用を自分が支払うことを求められるかもしれない。
今、自分はどこにいるのだろう。
改めて周りに視線を巡らせる。だけど、そこには見知らぬ街がどこまでも広がるだけだった。無我夢中で走っている中で方向感覚は完全に失われていて、自分がいまどの辺りにいるのかも分からなかった。自分がどの方角から来たのか、それすらも全く分からなかった。
そうだ。
田代は右手に握ったままのスマホに視線を落とす。
そしてスマホの画面を表示させて、地図アプリを起動させた。自分の今いる位置が地図の上の青い丸で表示される。タクシーを乗り捨てたバス通りから一キロ近く離れた位置にその青い丸は点滅していた。
田代はその地図アプリで自分の位置を確認しながら、そのバス通りに戻る道を進んでいった。十字路やT字路のような角に差し掛かる度に、その角の先に隠れてあの女が立っているのではないかと、怖くて怖くてたまらなかった。角を曲がる時などは、慎重に片目だけを建物の影から外に出して、曲がった先の様子を確認してから曲がる。だけど、その角の先にあの女が立っていることはなかった。ただ、無人の道がその先に佇んでいるだけだった。そしてその道はその先のさらなる暗闇に続いていた。
そのようにして20分ほど深夜の街を歩き続け、その角を曲がるとようやくバス通りが見えてくる、そんな最後の角に差し掛かった。
同じように、田代はまず建物の影に隠れる。そしてゆっくりと片目だけ、その建物の外側に出していった。徐々に先ほどのバス通りが田代の視界に入っていった。
車の通りも絶えている深夜の道路。
その路肩に一台のタクシーが停まっているのが、街灯の薄明かりの中で見えた。先ほど田代が乗り捨ててしまったタクシーだった。運転席のドアは半分開いたままだ。ドアを開けたまま長い時間が経ったせいか、本来であれば点くはずのルームランプも消えていた。そして後部座席の中は、街灯からもちょうど影になっていて、田代が立っている位置からはよく見えなかった。
その時、一台の車が、そのタクシーの背後から走ってきた。
そしてタクシーを大きく避けるようにして追い越していく。その車のライトで一瞬、タクシーの後部座席の中が照らされた。後部座席には誰の姿も見えなかった。
よかった。タクシーを出て、どこかに行ってくれたようだ。
田代は、ようやくその建物の影から自分の体を押し出す。だけど、あの女がどこに隠れているか分からない。慎重にあたりの様子に気を配るのはやめなかった。ゆっくりとタクシーに近づく。バス通りには人気はなく、田代の足音だけがカツカツと小さく響いていた。
まず、田代の視界に、後部座席の中が映った。
やはり、あの女の姿は、その後部座席の中にはなかった。だけど、女が座っていたあたりが、何かで汚れているのが目に入った。
なんだろう。
田代は後部座席のドアを開け、半身を車の中に入れた。暗闇の中でその汚れを見つめる。暗くてよくは見えなかったのだが、何かで黒く濡れているようだ。右手の人差し指でそれに触れてみた。そして確認するために体をタクシーの外に出し、街灯の下にその人差し指をかざした。
「うわっ」
田代の口から、小さな悲鳴が零れる。
その人差し指は、真っ赤に染まっていた。
慌ててポケットからハンカチを出して、その赤い汚れを拭き取る。
やっぱり、あの女はおかしかったんだ。
その赤い汚れがその何よりの証拠だと思った。
そう考えると、この場所にぐずぐずしているわけにもいかない。田代は後部座席のドアを閉め、ドアが半分開いたままの運転席に向かう。そして運転席に乗り込むと、そのドアを閉めた。