隠語(第3話)
再びタクシーの中を、沈黙が満たす。
依然として、背後からシューシューというような耳障りで気味悪い呼吸音だけは小さく聞こえ続けていた。
何なんだ。
この女は一体何なんだよ。
ハンドルを握りながら田代は必死になって考えていた。
コートの手前についているあの赤黒い汚れは何なのか。本当に誰かの血なのか。もしそうだとしたら、なぜコートの手前に血がべっとりとついているのか。女の血でないのだとしたら、誰の血なのか。
何よりも田代の脳裏にこびりついて離れないのは、彼女が田代を見た時の、怖いくらいに感情のこもらない目だった。
普通の人間であれば、あのような目で人を見ることなんてないはず。少なくとも、田代はそのような視線を今まで受けたことは一度もない。
この女は、何かがおかしい。
「あ!」
目の前の信号が赤に変わったのに気づき、慌ててブレーキを踏む。考え事をしていて、前方の注意が疎かになっていた。タクシーは停止線を少し超えて急停車した。
「すみません」
背後の女に向かって反射的に謝る。だけど、背後からは何の言葉も、そして何の物音も聞こえなかった。
信号が青に変わると、田代はゆっくりとタクシーを発車させた。
何かがあっても大丈夫だ。
自分を鼓舞するように心の中で言い聞かせる。
先ほど無線機でタクシー本部に“カバンの忘れ物”と伝えている。“カバンの忘れ物”とは、彼女が言った通り、タクシー業界の中での隠語の一つだった。それはタクシー本部に対して、
「犯人らしき怪しい人物を乗せています」
と危険を知らせるものだった。その言葉を聞いたタクシー本部は警察に連絡をすることになっている。このタクシーはK町に向かっていることは、その前の無線で本部に伝えている。おそらくK町の交番に連絡がいっているはずだ。
頼むから、タクシーがK町に着くまで何も起こらないでくれ。
田代は祈るような気持ちで運転を続けていた。
タクシーはK町に到着した。
K町を縦断するバス通りに入るとウィンカーを出して、路肩に車を寄せる。歩道には相変わらず人の気配は見えない。
「お客さん、K町に到着しました」
声が震える。だけど、田代は自分の声の震えを隠そうとはしなかった。隠す余裕はもう無かった。メーターを確認して、
「料金は二千五十円です」
と後ろを振り返る。視線は女からは外して、後部座席の下を見ていた。女の顔はなるべく見ないようにした。
だけど、女は動くこともなく座席に座っていた。
「お客さん?」
「……ごめんなさい」
女の声に驚いて、視線を彼女の顔に上げる。
女は黒い髪の間から、感情を失ったビー玉のような目で田代を見ていた。
「目的地を変えてもいいですか?」
「え?」
「もう少し、このタクシーに乗っていたくて」
そう言いながら、女は肩から下げていたバッグを自分の手前側に引き寄せ、右手をその中に入れた。中を探るように手を動かしている。そして何かをその右手に掴むと、バッグから右手を引き抜こうとした。
まるで時間が止まったかのように、田代は指一本動かすこともできずにその女の様子を見ていた。
女は右手をバッグから引き抜いた。
その右手に細長く尖ったものを握っていた。
それは赤黒く汚れ、そして田代の目の前で鈍く光った。
殺される!
田代は運転席のドアを開けて外に飛び出していた。
「うわああ」
情けない叫び声をあげて、タクシーを乗り捨ててそのまま走り出した。