隠語(第2話)
女性はそれほど興味があるわけでもないのか、その隠語についてそれ以上訊いてくることはなかった。
田代は気を取り直して前方に集中する。
ちらちらと横目でメーターを確認する。大丈夫だ。法定速度はしっかりと守っている。
一か月前に、昼寝をしようと路肩にタクシーを駐車して、寝ていると、警察に窓をコンコンと叩かれたことがあった。何事かと思って窓を開けると、
「ここは、駐車禁止エリアだから」
その中年の男性警察官は、事務的な口調で田代に告げた。
結局、違反切符を切られてしまい、その時はタクシー会社から1週間の乗務停止ペナルティーを受けてしまった。その分の収入も減らされることになったし、また、その交通違反の罰金も実費で支払わなければならなかった。田代にとって二重に打撃だった。
その時の嫌な記憶が蘇る。
田代はますます慎重に、周りに気を配りながら運転を続けた。
深夜のO街道は、車もまばらだった。
田代は二車線ある道路の左車線を慎重に走らせる。走っている車も少ないということで、時々、右車線をすごいスピードで走り去る車もあった。田代は、そのような車を見るたびに、心の中で、“御愁傷様”とつぶやいた。
ふと、田代は自分の耳に、何かの音が聞こえることに気づいた。
それまでは運転することに集中していたので気づかなかったのだが、その音は小さく、断続的に聞こえているようだった。シューシューというような、それでいて、フーフーというような、ひどく耳障りな音だった。
何だろうと思い、耳を澄ます。
その音は、田代の背後から聞こえてきていた。
バックミラーに視線を送る。後部座席には先ほど乗せた若い女性が、少し俯きながら座っていた。長い髪に隠されていて、その目は見えない。ただ、その髪の隙間から彼女の口だけが見えた。その口はだらしなく半分開いている。小さく、そして荒い息をその口から吐き出していた。どうやら、先ほどの音は彼女の口から出ているようだった。
そして田代の目に、彼女が着ているコートが目に入る。
この時期にしては季節外れの、厚手のベージュのコート。そのコートの手前が、何かおかしいことに気づいた。手前だけ明らかに色が違っていた。先ほど女性をタクシーに乗せた時は暗くて気づかなかった。だけど、窓から差し込む微かな街灯の光の中で、そのコートは手前だけ赤黒く変色していた。そして時々街灯の光を反射するように鈍く光った。
何かで、濡れている?
まさか、怪我をしているのだろうか。
田代は少し心配になって、自分の後ろに向かって、
「お客さん、大丈夫ですか。怪我でもされているんですか」
と声をかける。
少しの間があった後に、女性は先ほど聞いた低い声で、「どうして?」と答えた。
「あ、いや。そのコートの赤い染み。もしかしたら、血ではないかと思ったので」
女性は何も答えなかった。
その口元に不気味な笑みを浮かべたまま黙っていた。
息の詰まるような沈黙が、突然、タクシーの中を覆う。
田代は視線を前方に戻した。だけど、先ほど目にした光景がどうしてもその視界から離れなかった。
女性は特に、痛がっているとか、苦しがっているというような様子は見せていない。では、そのコートの赤黒い染みは何なのか。何かで汚れただけだろうか。でももしそうだとしたら、先ほどの田代の問いかけに、
「先ほど料理をしている時に、ケチャップをこぼしてしまったんですよ。タクシーは汚さないようにするので、気にしないでください」
とでも答えそうなものだ。
だけど彼女は何も答えなかった。ただ薄気味悪く笑うだけだった。
もしかしたら、先ほど田代が口にしたように、その赤黒い染みは本当に血によるものなのではないのか。そして、その血が彼女のものでないのだとしたら……。
タクシーの中は、依然として、沈黙が充満していた。
田代はハンドルの横に設置されている無線機に左手を伸ばした。
「こちら十二号車。カバンの忘れ物あり。カバンの忘れ物あり」
左手でつかんだ無線機に向かって言葉を出す。その声は小さく震えていた。その震えを何とかして止めようとしたのだけど、どうしても止めることができなかった。
「カバンの忘れ物って、どういう意味ですか?」
田代は思わず「あっ」と声をあげそうになった。それでも必死になって言葉を口の中に押し戻し、バックミラーに視線を移す。女性がその黒い髪の隙間から、感情のない目でこちらを見ていた。
「その言葉通りの意味ですよ。前の客が忘れていきましてね」
「どこに? 助手席にも何も置かれていないようですけど」
田代は必死になって言い訳を考える。“カバンの忘れ物”も、タクシー業界の中だけで通用する隠語の一つだった。そしてその隠語の意味を彼女に言うわけにはいかなかった。
「あ、ああ、お客さんの邪魔になると思って、今、トランクに入れているんですよ」
「まさか、何かの隠語じゃないでしょうね」
「……」
「たとえば、乗客が人殺しとか」
「……何を言っているんですか、お客さん。冗談はやめてくださいよ」
田代は引き攣った笑いを浮かべた。