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隠語(第9話)


 田代は唖然としながら、先ほどの佐々木の言葉を繰り返していた。
「何も、聞こえなかった……」
 佐々木は確かにそう言った。
 これほどの音が聞こえない訳がない。
 ガンッ、ガンッ、ガンッ。
 田代のすぐ横で、女は依然として包丁の柄を窓ガラスに打ちつけ続けていた。
 ミシ。
 窓ガラスのひびは、徐々に大きくなっていく。
 田代は絶望的な思いで、その広がっていくひびを見つめる。頭の中では、先ほどの佐々木の言葉の意味を考えていた。
 佐々木は嘘をついているに違いない。
 本当はこの音が聞こえたのに、聞こえないと言ったに違いない。
 田代には、そうとしか思えなかった。
 でも、どうして。
 どうして、そんなことをする必要がある。
 田代の頭の中に、一つの考えがむくむくと頭をもたげる。
 佐々木は自分を陥れようとしている。
 そして、自分を見殺しにしようとしている。
 田代の左手からスマホが滑り落ちる。スマホは座席の上で一度跳ね、そのまま座席の下に落ちていった。そのスマホから小さく、
「田代さん。おい、田代さん」
 という声が聞こえた気がしたが、田代にとってはもはやどうでもよかった。
 この男は信じられない。
 誰も助けてはくれない。
 自分は自分で救うしかない。
 自分の力で、何とかしてこの女から逃げるしかない。
 空っぽの心の中で、そのことだけを考えていた。
 田代は視線を右に向け、あらためて女を見る。
 女は相変わらず、暗くて深い穴のような無表情の目で田代を見ていた。そして口には不気味な笑いを微かに浮かべながら、狂ったように一心不乱に右手を振り下ろし続けていた。
 チャンスは一度きりしかない。
 田代は次に、視線を左側に向ける。
 ロックがかけられたままの助手席のドアがそこにはあった。
 これから助手席に移り、ドアのロックを解除し、ドアを開けて車の外に飛び出すのだ。もうそこにしか逃げ道はなかった。だけど、女が田代の行為に気づいて、助手席側に回り込んでくることも十分に考えられる。あとは、田代と女、どちらの方が早いか、時間との戦いになる。おそらくこちらの勝算は低いだろう。だけど、それでもそれに賭けるしかなかった。
 田代は、頭の中で脱出までの手順をシミュレートする。そして、自分が何も考えずとも体が動いてくれるように、その具体的な一挙手一投足の動きまでもイメージしていく。
「まず左足をあげて、助手席に移る。それと同時に左手でドアのロックを解除し、右手でドアノブを握る。そして……」
 あとは、その行動をいつスタートさせるか、そのタイミングだけだった。
 女が右手を振り下ろした直後の方が、その腕自体が女の視界の妨げになってくれるはず。それで一瞬でもいいから、女が田代の動きに気づくのが遅れるはずだ。
 ガンッ、ガンッ、ガンッ。
 田代はタイミングを合わせる。すでに窓ガラスのひびは窓全体に広がっていた。
 ガンッ。
 今だ。
 田代は左足を上げて、助手席に移った。そして事前にイメージした手順に沿って助手席の外に飛び出した。それにどれだけ時間がかかったのかは分からなかった。田代の行動に女がいつ気づいたのかも分からなかった。田代は無心で体を動かしていた。
 ただ、頭の中には、
“逃げろ”
 という誰かの声が、大きな音で響いていた。
 助手席から転がるようにして車の外に出た田代は、振り返ることもなく走り出した。バス通りと交差する小道を目指した。その小道に入った途端、あたりは暗闇に覆われる。バス通りとは違って、その小道に設けられた街灯の間隔は広く、その街灯だけでは暗闇の街を照らし切ることはできない。残されたのは、黒い世界に溶け込むような闇だけだった。それでも、田代はその闇の中に向かってひたすら走り続けた。
 どれくらい走り続けているのか。田代には全く分からなかった。
 田代の視界の中で、街の光景がぐにゃりと曲がっていくのが見えた。道路が、家が、電信柱が次々にぐにゃりと曲がっていく。
 街が大きく歪んでいく。
 そして、世界が大きく歪んでいく。
 田代は一度も振り返らなかった。後ろを振り返ることはできなかった。
 振り返ったら、自分のすぐ後ろに、あの女の不気味な笑い顔がある気がした。

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