不変ではいられない (月曜日の図書館194)
満を持して、カウンターのビニールカーテンが撤去された。ないのが普通だったのに、なんだか落ち着かない。「丸裸にされた気分」とY井さんが言う。彼女たちの世代は、入ってきたときからカーテンに覆われていたのだった、そういえば。
カウンターの上に掲示していた「貸出」「相談」という文字がやっと目立つようになった。3年前、館内の掲示を本格的に見直そうという気運が高まり、チームまで作って貼り替えていったのに、これで清々しい空間で働けると思った矢先、感染対策にみるみる乗っ取られてしまったのだった。
ころころと変わる対応に合わせて増えていく、フォントもテンションもバラバラな掲示物の海。命に関わることの前に、美しさは無力だ。
がんばったね、見やすくなったね、と誰からも誉められるひまもなかった。
おまけに余白があるとすぐ何かで埋めようとする人が多いため、時間が経過するにつれて、カーテンにもべたべたと注意書きが貼られはじめ、剥がれたり、テープの跡が残ったりしているうちに衛生的にも大変疑問に思うような様相を呈していった。
撤去されたカーテンは折りたたまれて廊下に放置されている。まるで満身創痍の妖怪のようだ。
よく見ると掲示の下の方もところどころ破れている。強引にカーテンを剥がしたからだろう。日の目を見る前に劣化し、チームも解散し、新しい後輩が入り、そしてわたしはもう掲示担当ではない。3年という月日は、確かに流れている。
おじいさんから電話がかかってきて、パソコンに出てきた(ネットで検索してヒットした)文章を頼りに、京都まで行って、化粧地蔵を探したのだけど見つからなくて、観光協会の人も現地の人も知らないって言うんですよ。
このまま旅行の顛末を延々と聞かされるのかな、勘弁してほしい、わたしは別に傾聴マシーンじゃないのだけど、と思ってそっと受話器を置こうとしたところ、そういう本は図書館にありますか、と言う。そういう、というのは化粧地蔵が載っている、という意味。
本を信じてまた京都までいきなり行かれたらまずいと思い、たとえ載っていたとしても、現に足を運んでなかったのなら、もうなくなったか移動したかもしれないし、本の情報はあまり当てにしない方がいいと思いますよと念押しするが頭に響いてない様子だ。お地蔵さんが数十年でなくなるなんてありえないから大丈夫、と言う。
おじいさんが見つけた「パソコンに出てきた文章」にもお地蔵さんの住所は載っている。こちらの記事の方が、図書館で持っている本よりずっと新しい。有名な旅行雑誌のサイトだから情報も正しいだろう。この場所に一度行ってなかったなら、つまり、ないのではないだろうか。
ということを言っても頑として受け付けない。おまけに京都だけでなく、いろんな各地の化粧地蔵が載っている方がいいと言い始めてどうにも要領を得ない。お探しの化粧地蔵のことではなくて、さまざまな化粧地蔵が紹介してあればいいということですかと聞くと、いや、やりたいのは、あの地蔵を実際に見ることだと言う。だから本の情報は(以下くりかえし)。
このおじいさんだけでなく、自分が何をほしいかをわかりやすく伝えるのが苦手な人は多い。年をとったからそうなったのではなく、伝えるトレーニングをしてこなかったからだ、と推測している。
しゃべるのが苦手だからしゃべらない、あるいは「ん」とか「めし」とかで察してくれる人がそばにいると、伝える筋肉がどんどん衰えていくのだろう。
そして本への揺るぎない信頼感。
仕方がないので何冊か探してページをめくってみたが、あいにくおじいさんが見たい化粧地蔵は載っていなかった。それを伝えたときの、おじいさんの万策尽きたような声。
もしも載っていて、その場所を伝えたら、おじいさんはまた京都へ出かけていくだろうか。数十年で変わらないとおじいさんは言ったけど、変わるよ。神仏の動きは人間に比べたらゆっくりかもしれない、それでもずっと同じではないだろう。たった3年で激変してしまうことだってあるのだと、わたしたちは身を持って知ったじゃないか。
おじいさんがあまりにもゲームオーバー感を漂わせるので、思わず京都の図書館に聞くと、何かわかることがあるかもしれない、と言う。地元の図書館なら一般流通していない資料を持っていることもあるから、たとえばそれで現在の場所がわかったりするかもしれない。
一縷の希望を授けて、電話を切った。
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