自分の頭に振り回された話
こんにちは。百千鳥です。
今回は、自分の気質の一つである頭の回転の速さにとっても振り回された経験と学びを綴ります。自分の成仏記事になります。
同じように頭が勝手に回って扱いきれないという人にとって、気づきがある記事になるかと思います。
もくじ
1.これは気質らしい
2.言葉にできない
3.コントロール
4.頭の中の幽霊
5.舵を握るのは
1.これは気質らしい
家族に言わせると、感情表現がなく子どもらしさがない大人びた子だったそうだ。
正直、感情がなかったわけじゃない。自分としては豊かな方だった。けれど端からそう見えたのであれば、自分を認める安心した場所がないからこそ出さなくなったのだと思う。
園児の頃から自分で考え行動するのが常だった。大人びてるとかしっかりしてると褒められた。人を引っ張っていくリーダーのようだと言われた。
気づいて、自分にできるからやっていただけだ。それをやたら褒められた。誇りだといわれた。あまりに褒められるから気持ちが悪かった。
あまりに期待されるから、気持ちが悪かった。
リーダーなんて、別にやりたくはないし目立ちたくもない。
できることならひっそりと、日陰でお絵かきでもしてたいのだ。
それを、ほっといてくれなかった。
人といるとそこそこ疲れる。
なぜかはわからないけど、期待される人物がわかり、その通りにしてあげると喜ぶのだ。ふうん、とおもってやっていた。
観察していると彼らにとって都合がいいとほめるのがわかり滑稽に見えた。
それを正直に親に言うと
大人をバカにするんじゃない、まだ幼い子供に何がわかる、お前より大人は賢いものだ、と言われた。うろたえていたから、的を得ているのは把握できた。
けれど、なぜ本当のことを指摘されて怒るのか、理解できなかった。
そんな子どもだった。
けれど、自分でも疑問だった。なぜそう思ってしまうのか。わかってしまうのか。できてしまうのか。
たいしたことは、してないはずなんだ。
私の頭は別によくはない。勉強は中くらいだ。記憶力もあまり良くない。中高大と、成績もその時の内容によってムラがあった。
だけどやたら、頭の回転は速い。
そういう気質だとここ数年でやっと気づいた。
2.言葉にできない
人をバカにしてしまう態度を、自分で責めるときもあった。
彼らの言い分もわかるからだ。
敬うべきだ、尊重するべきだ、云々。
プライド、というのだろう。自尊心、というのだろう。
本で読んだ。
私は一等、人の気持ちや考えがわからないようだから、本をたくさん読んだ。
感覚でものを申しても対話にならない。だからこそ、言語で交換するべきだとなんとなくわかって、たくさん読んで、たくさん自分の中の違和感や感覚をイメージや言葉にするようになった。
頭でっかち!
癇癪を起した母に言われた。
生意気だ、お前に何がわかる。自立もできないお前にそんなことをいう権利はない。
言葉を選ばない、衝動的な母も正直どうかしていると思うが、学べば学ぶほど、処理すればするほど反発された。
読みは合っているはずだ。やらない理由はない。自分のためにするんだ。親の参考にならない意見などどうでもいい。そう思うようにした。
なんどもなんども繰り返した。
けど言葉になかなかならなかった。
自分がなぜそう思ったのか、そう気づいたのかまったく説明できなかった。
自分で何故なのかまったくわからなかった。
ふよふよと漂う色のついた霧を、手でつかもうとしているような気分だ。
形のない漠然としたわからないものを説明しようがなかった。
現実とのすり合わせに、本を読み仮説をたて体験して言語化する作業をよくした。すこしずつ、長い時間をかけてやっと一部出せるようになった。
大変効率がわるい。
そして、大学で言語を中心として物を提案し意見交換をする建築学科に進んだ。
だいぶ鍛えられた。
しかし、言語より、絵を褒められた。
言語では伝わらなかった。
それがだいぶ悔しかった。
3.コントロール
その人の立場になって考えろと耳にタコができるほど言うものだから、深く関わる人ほどどういう人間かの分析し理解する作業もした。それである程度把握し処理する思考回路を手に入れた。高校生の頃である。
ただ、同時に困っていた。
自分で何をどう処理したか把握してない。
結論が自分の口からすらすらでて、もう一度言ってと頼まれても自分でなんて言った?ということがよくある。白昼夢でも見ている気分だ。
私の頭で考えたのに、私が理解しきれてない。
それに長いこと振り回された。
見ただけで、その人の性格や生活の傾向の仮説が頭の中に出される。
電車に乗って人が視界に入っただけで勝手に頭が処理してしまう。見ないようにしても人の数だけ算出するから疲れてしまう。見たくないものもたくさん見た。眼鏡をはずして見えなくすることで止めてた。
声や息遣いから性格や習慣の仮説も頭が出した。音楽で音をかき消した。
そう努力しても、扱いきれなくて頭が勝手に動くことで疲れた。
いまだに、オンオフを自在にできず自分が意図してどこまでできるのかも、やっているのかも把握できてない。
頭が、勝手に回ってしまう。
4.頭の中の幽霊
いろんな本を読み、いろんな人と話すようになって頭は育っていった。
必要最低限のコミュニケーションが取れるくらいは言語化はもちろん、処理してきた事柄であれば言語による表現ができるようになっていた。
私は頭を尊重した。
頭がよく意見を言うようになっていた。
「この件はあの事例からこういうことが考えられる」
「すると、こういう方向にするべきだと考えられる」
「であれば、これらの選択肢が挙げられる」
「こういった状態であるから、その中でも可能性が高いのはこれだ」
「これをこなせば、こういった結果を得られるだろう」
「その過程ですべきことはこれとこれとあれだ。」
「期限はこのくらいまで。」
「それまでにするように。」
もはや無意識に処理していた。頭の回転は速いのだ。私の中で当たり前のこととして処理されていく。
今までのデータから、ある程度的確に算出されているようで下手な本より信用できる。だからこそ、重宝し、そのように動いていた。
しかし、後になって気づいた。
きっと考えているようで考えてなかった。
今の自分を把握し、それはできる、できないという判断をあまりしていなかった。
自分にできないことも、努力でした。合わないことも、努力でなんとかした。
ぎりぎりできてしまったというのもある。
ちょっとずつアレルギーが出たり、化粧すると肌荒れしてできなくなったりと体を壊していく。
けれど頭の意見…一番いい選択肢に従い、達成できるよう努力しつづけた。
しかし、この頭は情報の処理をし提案をしているだけで、一番大事な私の限界をまったく理解していなかった。
「なぜ、できない」
「これをすればこうなったのに」
「怠けたからでは?」
「できなかった理由を説明しろ」
「その程度だったということか?」
「ならしかたがない、お前でもこれくらいならできるだろう」
頭が発言権を握るようになっていったのは大学生から大学院生の頃だ。
課題や活動で生活が多忙で疲れていた。
だけど、休み方がわからなかった。
疲れているからこそ頭は回る。
自分で止められない。
そういった悪循環を重ね、体を壊した。
当たり前の結果だった。
勝手に回る頭に、人格をいつのまにか与えてしまっていた。
頭の中に正しい発言をするナニカを飼ってしまっていた。
これはその場の空気みたいなもので、幽霊みたいなもので、背後から自分を監視してああだこうだ言うのだ。
母のような口調で、祖母のような罵り方で、いつかの友人からの言葉で、だれかの、声で。
悪いものだけを詰め合わせたようなもので、病状に伏しているときは主に自分の中のこいつとの戦いだった。
端から見れば、日々睡眠をとり、何かしている生活をしていただけだが、なにしてもこいつが付いてきて、口を開ける。
なぜ、できない?
死ねば、いいのに
楽になったら?
居る価値なくない?
死に場所、探してみようか
どういう死に方ならできるかな
こういったものは避けようとすると追ってくる、というのは経験上知っていた。
だから気が済むまで考えることにした。
死に場所も、死に方も、在る価値がないという事も、老犬より歩いてない事実も、自分が存在しなくても回ることも、いかにこまらないかも。
そしたらすこしずつ、時間はかかったけれどそれでもいいやと思えた。すこしずつ、自分の意見を持てるようになった。
死に場所は、だれにも迷惑がかからない場所がいい。ひっそりと消えたい。だけどそんな場所、日本にはない。どこかの山も所有者がいて、いきなり消えれば警察の仕事が増える。
死に方も楽にねむるようにできる方法もあるけれど、人に迷惑をかけない死に場所という点からほぼない。安楽死を選べたらいいのに。それなら、どうしようか、どれくらい食べないで居たら自然死できるのか試してみようか
自分いない方がいいのはわかる、糞の方が役に立ってる。植物の栄養になってる。糞以下かあ…むしろ二酸化炭素だして食べて汚して誰かに扶養してもらわないといけないとかなんのメリットもないな…驚きだぜ
今日二回しか居間に移動してない…チャチャの方が歩いてる…12歳の老犬に負けてる…私のかわりに歩いてくれ…寿命分けれたらいいのに…云々
徹底的に自分の考えや意見を出したことで、自分を取り戻した気もする。
与えられた疑問を考えている最中であれば、頭はおとなしかった。
そして今の私はこう思うという意見がはっきりすれば、そうなんだと黙った。
それを繰り返していくうちに、だんだん声が少なくなっていった。
そんな時に、本と出合った。
『空気とは、幽霊のようなものである。』
職場の空気、いじめが生まれる空気とはどういうものか、を綴った新書をなんとなく読んでいた。
実体がなく、しっかり見ようとすると消えてしまう。
それが私の頭の声もそうなのではと思った。
やつは耳のうしろから、こそっとつぶやく。
死ねばいいのに。
なんでまだ生きてるの?
これらの答えが、私ははっきり言えなかった。
別にいじめられた経験も、そう人から言われた経験もない。
自分が、自分に言ってた。
けれど自我を取り戻してきた私は
「お前が消えろ。私にお前は必要ない。」と首に刃物を当てることができた。
それから、ふっと消えるように頻度が少なくなった。
自我を持つほど感情の起伏や幻聴が少なくなり、心の平穏が持てるようになっていった。
5.舵を握るのは
頭が暴走し必要以上に権利持ってしまった経験から、
私の決定権は私にあり、私の頭が考えたことでも、頭には決定権はない。意見を述べるだけにとどめる、と定めた。
自分の、自分のための法律である。
そしたらだいぶ落ち着いた。
この経験から学んだ大切なこと。
見たり聞いたりしただけで頭が勝手に情報を処理してしまうから気づくことができる。
気づくから、次にできることが見える。
全ての可能性をやっていると体も時間も足りないから、できることの中で、やりたいと思えることを選ぼう。
感受性が豊か+頭が回る という性質だからできること。
気づくことができ、あらゆる可能性を算出でき、提案することができる。
そしてその提案からどう行動するのかも情報を読み取り、導くことができる。
これは有能だ。
しかし、決定権は頭ではない。
有能な能力に、決定権はない。
舵を握るのは私。
なんもできない、言葉で説明しきれない、理解しきれない私。
分からないなりに、自分で選んでいくのがとっても大事なんだ。
そして、そういった特技があるなら、活かしてあげたい。
長年育ててきたのだから、使ってあげたい。
良いことに使ってあげたい。
誰かの役に立たせてあげたい。
私の一部だ。
一時、大っ嫌いだった。
消えてほしかった。
本気で殺そうと思うほど、嫌いで恨んでいた。そして自分の一部だからこそ死ぬまで離れられないと気づいて絶望した。
だけどいっか、と思えるくらい私は自我を持ちなおし回復できた。それなら、成仏がてら人の役にたって、自分の一部をいいじゃんって思いたい。
少しずつ、そうやって人と関わっていきたい。
そう思います。
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