【ミュージアムグッズ愛好家の頭の中】私の中の小さな声を抱きしめて
ミュージアムグッズ愛好家として活動をしていると、多少なりとも違和感を感じたりすることがある。
現場の皆さんが一生懸命作ったグッズを、作り手の思いとともに丁寧に紹介しようと思っても、結局SNSで拡散力のあるアカウントの短文ときれいな写真の方が多くの人に届く。
インフルエンサーに限らず、私の仕事を水で薄めて再生産したような記事を量産するメディアに出会うと、批判はしないが疲れる。在野の愛好家として活動してきた自分の無力さを突きつけられることばかりだ。
伸るか反るかのゲーム
「悔しかったら自分ももっと影響力を高めればいいじゃん」と言われるけど、そのゲームに積極的に加担することに限界を感じているのも事実だ。不毛だと思う。
もっと言えば、そのゲームのプレイヤーになろうと思うと、北海道在住の自分は地の利の時点ですでに不利なのだ。首都圏で開催される、大型の企画展で作られるミュージアムグッズをフォローし続けることもできないし、速さや量の面では東京に敵わない。
ミュージアムグッズは資本主義の中でミュージアムが生き延びるための栄養剤であることは間違いないだろう。一方で、消費を促す劇薬になりうる。ミュージアムグッズの作り手の中にもその危険性を指摘する声はあり、株式会社Eastの開さんと下記の対談でも話題になった。
そのアラートを上げ続けるために、私は北海道にいなくてはならないと思う。詳細な理由は後述する。ちんけなプライドなのかもしれない。「地方」の人間の、吹けば飛ぶような小さな蝋燭の火だ。
とはいえ、私は「消費」自体やミュージアムグッズそのものを否定してるわけではない…というのは下記のツイートにある通り。
日々、アカデミックとマーケットを行ったり来たり、ミュージアム業界の中と外を行ったり来たりすることは性に合っているとは思う。
ただ、5月に新刊『ミュージアムと生きていく』を出版するが、その企画のきっかけの背景にこのような個人的な「違和感」「疲れ」があったことを認めざるを得ない。
大きなゲームに乗れない、乗らないやり方で、ミュージアムに関わり続ける人たちの声を聞きたかったという思いが少なからずあるのだ。
そんな中、塩谷舞さんの新刊エッセイ『小さな声の向こうに』を読んだ。
上述の「疲れ」は、東京国立近代美術館にて開催された、柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」のミュージアムグッズに対し、塩谷さんが指摘した内容にも通ずるものだ。本書にも再構成した論考が掲載されているので、ぜひ手に取ってみてほしい。
「小さな声」へのエール
エッセイというジャンルは好きで私も色々読んでいるのだが、このジャンルは「身体に入ってくる文体」でないと上手く読みこなせないと思っている。
その点で塩谷さんの静謐な言葉は、引き込まれる場面もあれば、自分との違いを明確に感じる場面もあり、すごく私と相性がいいと考えている。この文章の中に浸ると、私の心の細胞膜が適切に浸透圧調節を果たしていると感じる。
西荻窪の雑貨店「FALL」を運営している三品輝起さんの文章と内容にも近いものを感じていて、物に対する向き合い方も通ずるものがあるのではないかと思う。いつか塩谷さんと三品さんと私でトークイベントをやるのが勝手な夢だ。
三品さんの本はどれもおすすめだが、私はこの『雑貨の終わり』の流麗な文章が好き。折に触れて読み返している。
塩谷さんの『小さな声の向こうに』は本文内で都度引用される論文も多く、気になるテーマへのリサーチを怠らない誠実な姿勢も好きだ。
そして何より、上述した私の「疲れ」をタイトルにもある「小さな声」として認め、コツコツ紡いでいこうというエールを送られた気持ちになっている。勝手に。
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