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おにぎりとスポットライトと「今」

年が明けてから
旅芝居・大衆演劇のことを書いていなかった。
観ていなかった訳ではない。
年がかわる前も明けてからもちょくちょくと芝居小屋に足を運んでいる。
 
気付けば今年で20年生?
2004年12月からだからそれくらいになる?
とはいえ、まだ20年生?
いや、歴なんて関係はない。誰もが1客席の者だ。
けれど、びっくりもする。
好き嫌いも性格もはっきりな者だからこそ。
いろいろな意味で卒業というか、
もう関わらない関わりたくないと思ったり言ったりしていても、まるでややこしいやつとの縁のように途切れない。
先のことはわからないし、わからないながらも。
 
フリーの書き屋のわたしが、
この気性と性格とキャラ(?)だから、だけど、
観て追ってきて、言えること書けることは「ある」と、いや、とも、思いもしている。
まだまだだけど、でも、自分のため(だけ)じゃなく。
日々、世や人、人間のいろいろに悩んだり言葉にできなかったり、できないのにしてはいても。
昨年、ある長い記事をアップしたところ、光栄すぎるお言葉もいただいた。
「清濁併せ呑んだ、「情(なさけ)」深い記事」
「生きている人間の声を語ってくれる」
昨年、業界の第一人者であり、たいへんよくして下さり、「追い、書き残すことで、
風俗としての旅芝居をひとつ上のランクのものとして世間に紹介した」ルポライターが亡くなられたことも、このようなことを考えさせられるきっかけとなった。
 
つい言ってはしまう。
「あの頃は」「●年前は」
そりゃあ観始めたときの方が新鮮だったし若かった。
いろいろ見えなかったし、見ようとしなかったし、
見えてもいなかったり、見ようともしなかったし、見えたらやめたりもしてきたから。
そして、あの頃に、私的に「これ!」「こういう舞台!」「これこそ!」に出会い、出会ってしまい、やっぱり、ええんがわるいんかわからんが、好きで、大事だから。
でもだから、だからでも、これからも言う、語る、笑う。
これに関しては必ずしも駄目なことだとは思ってはいない。
当時のことを当時を知るその頃やこと、
同じ時間や時代や空気をことを共有しているひとやひとたちと「今」話す話せるのは、
紛れもなく、積み重ねてきての、「今」だから。
 
でもね、その上で言い聞かせている、自分に、いつも。
 
大切なのは、いつも、いつだって、「今」だということ。

そして、これから。
 
旅芝居は、時代と共に、時代の人びとと共に、生きる生きている舞台だ。
いいことも、わるいことも。
常にある、「それ、どうなの? 」も。
そのさまや今やられていることが好きだろうと嫌いだろうと。
だから、「今」、今みて、今を感じ、考える。
考えたい。皆と、今と、そして出来ればこれからを、これからも。
 
自分の理想だけを押しつけようとすることは、必ずしも正しくはないとも思う。
理想だけを押しつけて(さらには自分の思う浄化や神聖化)をしてしまうことは、 
皆が「生きる」ことを思い、考えると、大変に傲慢かつ軽く狭すぎもしやしないか、と、わたしはいつも心に留めるようにもしている。
昔、「きれいなものだけを、見ます」と言って来た方がおられた。
それはそれで、それならそれで、間違いではないかもしれない。
だが、それはプロとしては、いろんな意味いろんな点では、どうだろう、さまざまの責任と共に。
なにかを好き嫌いだけで批判だけをすることや無視や排除をしようとすることは、危うい、大変に。難しい。
慎重にならないといけないことじゃないかな。
という自覚は常に持っておかねばいけない。
なかなか出来ない出来ていない自覚とたくさんの反省と共に。
 
と、考えたりするのは、出来るのも、
やはり、あの頃と今、あの頃からの今、
を、見、観ていて、なんやかんやで観続けて(も)来たからじゃないかな。それも、たぶん、あるよな。
 
旅芝居の舞台は、「日々」であり「仕事」だとわたしは思っている。
生きていくことだ。
夢と魔法の王国じゃない。
そうかもだけれど、そう見るのはええんかもやけど、けど、
夢じゃない、魔法じゃない、人間だ。
悪い意味じゃない。
悪いことだけじゃない。
人が生きること、生きていくこと、生きているそのさまだ。
 
だから生じる、いろんな、いろんなこと。

考える。

考えることをやめては、いけない。
 
旅役者たちは今生きている、今を生きている、私たちも、生きている。
 
旅芝居・大衆演劇はおにぎりやなあとも、いつからか肚の中で喩えるようになった。
この例えは何年かいや何年も前からふと頭に浮かぶようになった。
 
塩むすび。カラフルな変わりおにぎり。映える今時おにぎり、包装ラッピングだけ過剰なおにぎり。
いろいろある。
手でぎゅっとむすびにぎったものもあれば、
コンビニの均一化された隙のないでもハズレもないぱりぱりのものもある。
しわしわなものも、みちっともちっとしたものも、ジャンキーだがクセになるものも、職人の手によるものも。
どれも、日々食べていくもの、体と心になるもの。それぞれの好み、それぞれの味。
どれも、体に心に入れて、体に心にしてゆくもの、
どのようなかたちや味であろうとも、好みやけど、誰もの双方共の体にも心にもわるいものであっては、あかんよね。
 
昨年から思ってもみなかった得難くうれしい機会があり、
ちょくちょくと芝居小屋に足を運びもしている。
ひさしぶりにドキリ? ゾクリ? いや、アホ言いながらもいつも以上に真面目に観ている。
自称イケメン好きの友人とのほろ酔い観劇も続いている。
(彼女が居なかったらたぶんあまり自ら行かないような劇団には行っていないかも?
だから、これもすごいことで、ありがたいこと)
 
昨年、年内最後に訪れた劇場で、
座長が踊っていたのは、『世界中の誰よりきっと』だった。
「なんやねん」「なんでやねん」
友人とわたしはげらげら笑った。
踊りでもない。客席練り歩いて横揺れして手踊りしてるだけ。でもそれの何が悪い? 好きではないけど。
芝居小屋の中は、熱の中に居て、いいとか好きかとかは、わからないけれど、ふふふ、となった。
なんかしんどそやったけどいい顔してて、だから、皆、いい顔だった。

生きること。舞台。人間。芝居小屋。

芝居小屋は、世の縮図。
 
スポットライトは、すべてのひとを、いや、すべてのおにぎりを照らす。
 
生だ。リアルで、ライブで、てか、ライフ。

まぶしい。生きてる。しゃんとなる。

笑ったり怒ったり泣いたりやっぱり、笑ったり。



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構成作家/ライター/エッセイスト、
momoこと中村桃子(桃花舞台)と申します。
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momo|桃花舞台
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