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#読書

あわあわと、ゆらゆらと 『一場の夢と消え』

近松のおもしろさを教えてくれたのは 上方文化評論家を名乗るけったいな紳士だった。 学生時代に出会った講師なのだが いつも口元にゆらり皮肉っぽい艶っぽい笑みを浮かべていた。 年齢も性別も超越したようなそのひとの持つ空気に 皆ちょっと引き気味というか距離をとるようにして接していた。 はっきり言って、我々にとっては、 気味がわるかったというか、得体の知れぬ空気をまとっていたのだ。   そいつが担当する上方学と題される講義はなぜか朝イチにあって 「朝からこんなに何の役にも立たない話を

gem

『転がる石』という演歌がある。 旅芝居の舞踊ではテッパン曲、 つまりどこの劇団でも常に誰かが踊っているくらいの曲だ。 旅芝居特有の(股旅や任侠芝居のismから通ずる)ニヒリズムと自己陶酔、キメやアピールがしやすいええ感じのリズム、客席から掛け声をかけてもらえやすいええ感じの箇所、色々、「あー」なポイントだらけ。 せやから踊っていて気持ちよくなるんちゃうか。 観ていてもぽぉっとキャーとなれる曲なんちゃうか。 ぽぉっとはなれへん私は劇場でいつもへぇーっと観てきた。 私的初早乙女太

芝居小屋とうそとほんと 『万両役者の扇』

また偶然なのですが、 芝居小屋にまつわる本を読みました。 出版されたばかりの新作なのですが、ほんと、偶然。 んー? となって、手にとりました。   芝居をすることにとりつかれ「ほんととうそ」が曖昧になっていく人と、 その人に魅了されて(?)いく人びとの話。 簡単な言葉を使うとそれは常軌を逸した…… いや狂ってるんじゃなく冷静、 意外と冷静で、 いやいや、もう「ほんととうそ」「ほんとかうそか」 「自分ってなんなのか」が、 わからなくなっている、みたいなのかもしれない。 自分の“

Over there 『Q』(呉勝浩)神について

「お前は輝け。太陽が嫉妬するくらい」 イカロスは太陽に憧れて焼け死んだが、 「そのイカロス」は高く高く跳び笑い踊る。 イカロスとはギリシャ神話に登場する若い神だが、 「神」と言う言葉は現代の推し活シーンなどでもよく使われている。 「マジで神」「神ってる」「ファンサが神」 ひとりひとりが勝手に意味を付けて神になる。神にする。 自分が。自分たちが。 「神をつくる」   このところ仕事の合間に読んでいた700ページ位の長編を読み終えた。 呉勝浩の『Q』。 クライムサスペンスでバイオ

私労働小説 ブレイディみかこが「私たち」のクソみたいな仕事をロッキンに書ききった

クソみたいな仕事ってなに? それは「自分が自分でなくなってしまう」仕事。 クソみたいな仕事をしていたら自分が自分でなくなる。 自分が自分でなくなってしまうと自分ではない、それは、ない、 ありえない、あってはならない。のに。でも。 それでも。 クソみたいな仕事をしている主人公たち、 つまりそれは著者自身であり「私」である。 そんな「私」たちの〝私労働小説〟。 『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』   この本は、 出てすぐに買って、 勿体なすぎて1章1章読んだのだが、 毎回気持ち

1冊の本、ひとつの舞台 『歌舞伎座の怪紳士』はミステリーでもホラーでもなくハートフルなあなたの私の話

タイトル、ちょっと濃い。 〝歌舞伎座の怪紳士〟 勿論あのミュージカルをもじって付けられたのであろうことはわかる。 けれど、漢字ばかりが並ぶからかな、 怪と紳士が並ぶと圧が強いよなあ、そこが、それが、ミソやんなあ。 そんなタイトルに反して、内容は、とても、とてもやさしい。 あたたかくて、やさしい話だった。ヒネクレ者のわたしでも何度かホロリ。 劇場と、人と、人びと、物語と「私」の話だった。   多作で知られる近藤史恵さん。 最近はドラマ『シェフは名探偵』の原作者としてご存じの人も

焼き芋とドーナツ

間食(おやつ)。 それらは、命を繋ぐための「食事」ではなく、だけでなく、 楽しみや、気持ちを満たすためのものとしての意味もある。 お喋りもだ。 お腹の足しにはならないかもしれない。 けれど、楽しみや、気持ちを満たすものとしての意味や、 生きる上での指針や希望に繋がるということもある。 おやつ、女子会、雑貨店やお洒落、芝居や、劇場。 でも、食生活が状況や環境によって満足にゆき届いていない場合には、 おやつはご飯になる、せざるを得ない時もある。 女子会やお喋りも、楽しみのためじゃ

オマージュと真実と 『カササギ殺人事件』

突然だが、パクリが嫌いだ。 パクリや利用(する・される)が嫌だ。 でもパクリっていったい何だろう。どこからどこまでを言うのだろう。 パクリというときつい言葉だが、便利な言葉もたくさんある。 オマージュとかインスパイアとかパロディとかリスペクトとか二次創作とかなんだかかんだか。 これらの言葉で言い逃れ……言い逃れという言葉もきついが、 本心からそんな気持ちでこれらの気持ちで作られるものだってあるだろうし、それぞれがそれぞれに、でも、「ん?」もあるかもしれないし、ああ、難しい。

おだしやミックスジュースやお好み焼きやだしまき、そして、てっちり 田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』

かわいいという言葉に違和感を感じることやときがある。 かわいいという言葉に「対象物を下にみる」意味が時に含まれているような。 とは、ちいさきもの、みたいなところからの連想かもしれないが。 例えば「あのおじいちゃん、かわいー」とかに「ん?」ってなったりすることも少なくない。いや、悪い意味じゃなく褒め言葉やよね。でも。あ、言い方かな、それだけかな。せやな。 ほな「かわいげ」はどうだろう。 これも、上とか下とかが付いて回る? かもなあ。せやな。 なのに、なんでやろ、おせいさん、 田

そのタイトルに 『教誨』

ひとりだと、ひとり。でもそれが群れや集団となると、別だ。 集団は、時にとてもこわい。 〝個人のはっきりした言葉や意見よりも集団としての和〟 〝集団の中で波風を立たせずに生きることが美徳〟 〝空気を読め〟 そうして集団で「YES」となったことは時に絶対的に間違ったことであっても「YES」となることがある。 そうさせられてきたり、そうすることそのことを疑いもしなかったり、 いや、そうしないと排除されたりするから黙ること。 そんな暴走や暴力や沈黙が他者の尊厳や命さえ直接的にも間接的

場所と人々と彼女と、「ごちそうさま」 『今日もレストランの灯りに』

これまで知らなかった場所(世界)に ひょんなことから入り関わる事で見えてきた人間模様の泣き笑いを 著者自身の目と筆で書いたあったかくて人情味のあるエッセイ。 そんな読みものはたくさんありすぎるかもしれないこの世の中に。 でもそれらが読まれ、わたしもどれも読みたいと思うのは、 「実際に」「その場へ」そのひとが「中で」「関わる事で」ということと 「他でもないそのひとの「目」」だからだと思う。   尊敬するライターさんがSNSで紹介していたことで手に取った本作は、 読売新聞医療サイ

氷室冴子の『いっぱしの女』が嫌いな人はいないんじゃないか

大好きな作家の大好きなエッセイが2年前に「復刊」していたことを今更知った。 あ、いや、たぶん書店に並んでいるのは見ていた気がするのだけれど。 先日、移動中にとおった古書店で「あ。」と懐かしく手に取って移動中に読み終えた。 ああ、どの話もはっきり覚えてる、と、ページをめくった。 この本を語るに使い古されまくっているから言いたくないけれど 「時代をこえてもみずみずしい」「不朽」 まさにこれだったし、現代、現在だから、より響くものがある、みたいのも同意同感。 復刊し、あたらしく解説

舞台とリングと、人間と 『教養としてのプロレス』のこととか

突然ですが、 わたしはなにかを「絶対にそう」「絶対にこう」とかすること言うことがあまり好きではありません。 たいへんにこわいことであり危険なことではないかなと常々思っています。思うようにしています。 そういった風潮や群れることはなんだかどこか「こわいなぁ」となります。   例えば「なにかが絶対に悪」とか。   みんなが言っているから悪とか、 みんなで言ってみんなで悪にしちゃうってこともとても多くない? だから、どちらか一方に肩入れをし過ぎてしまうことはとても危険じゃないかなぁ

私はここに居る、釈迦はここに居る 『ハンチバック』

容れものと中身、身体と気持ち、 両のバランスがうまくとれている人って、世の中にどれくらいいるんだろう。 誰しもがいつもどちらかに傾いたりバランスをとれずにいたりするのではないか。 そのズレ故に自分自身や他者とのもやもやや苛々、摩擦や不調を感じているのではないか。 話題の芥川賞受賞作『ハンチバック』を読みました。 主人公は自由に(という言葉の意味もよく考えたらわからないけれど)体を動かすことが出来ない。 それこそ本屋にも行けないし、紙の本を読むたびに体が押し曲がるようだと言う