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しょうもないものを買うてしまった。 帯のキャッチコピーと裏表紙の文句と、 タイトルに釣られて引っかかった。 すこし前だが話題になったり本屋でも平積みされたりしていたので、 この強烈なタイトルに見覚えがある方も少なくないかもしれない。 わたしは、や、わたしも、ちょっと前に、 知らん土地のヴィレッジヴァンガード的な本屋で見つけてしまい、 私用の長い待ち時間の暇つぶしに読もうと手に取った。 せやけとあかん。笑いすぎたり、引きすぎたり、 病院やら電車で読む内容やない。 見開き1ペ
NHKドラマ『宙わたる教室』がいいなあと思っている。 主演が窪田正孝だからという不純な理由で観始めた。 「あきらかに今を意識してドラマ化したな」 「ベタやなあ」 と、初回を見始めながら思ってはいた。 でも観終えたときはちょっと違う気持ちになっていた。 学校をテーマにした話ということで、 なにかと照らし合わせたり伝えたり、 そのようなセリフを「押しつけがましい」と感じる人は居るかもしれない。 でも、そのバランスが、演技とも相まって、押しつけがましくない。 空気が、皆の演
ブレないことは、むずかしい。 いつも正しいことじゃないかもしれないし、 むしろ、正しいこと(だけ)じゃないかもしれない。 まわりからしたら、面倒臭かったり、 ややこしいこともたぶん少なくない。 その上で言うが、「ブレない人やものが好きやなあ」と思う。 思ってしまう? いや、思う。 人は皆変わる。変わってゆく。 ブレない人ブレられない人も含めて誰しもが。大なり小なりにも。 変わらなきゃもいけない(かもだ)し、 っていうかそもそも変わってもゆく。 でも変わっていっても変わらな
町田康が書いた『入門 山頭火』を読み終わった愛酒の日に。 ヤバいやつがヤバいやつを書いためっちゃヤバい。 静かにもどぉしようもなさが頭をぐるぐると回って一気にはいけない。 何ヶ月か前に買い読むもしばらく放っておいてまた手に取ったりまた放ったりしていたら今日になった偶然。 知ってはいたが山頭火はどぉしようもない。 どれだけ美化しようともほんとうにどぉしようもないと思わされた。 そのどぉしようもなさが人を惹きつけるんやろなとも思ってきたし思わされた。 同じく町田康が書いた『告
きちんと、丁寧。 大平一枝さんが聞き、書かれる人の話、いや人と話、 そして捉え方書き方にいつもじんわりじっくりと“人間”を感じさせられる。 「市井の生活者を描くルポルタージュ、失くしたくないもの・コト・価値観をテーマにしたエッセイを執筆」 改めて読んだプロフィールにもじんわりひたひたと込み上げてくるものがある。 人間は、苦しい。でも愛しい。愛しいのだ。 そう思いたいし思うのだ。思いにくいことばかりだからこそ。 きちんと、丁寧な筆に思わされる。 きちんと、丁寧な筆がおだやかに
また振り返りになってしまうのだけれど、貼っておきたくなった。 またまたドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』を思い出して、 仕事のBGMがわりに観たりもしているからかもしれない。 ジェーン・スーの言うことや書くことは時に「んー?」にはなったりもする。 (でも結構読んでる) ヒグチアイの歌はいいなと思いながらも時にクドいというかあざといなぁにもなる。 (でもこの曲はすげえと思うジワッとくる) オジサン役者好きなくせに國村準はなぜかあんまりそんなに刺さらず「んー?」が多い。 (で
『転がる石』という演歌がある。 旅芝居の舞踊ではテッパン曲、 つまりどこの劇団でも常に誰かが踊っているくらいの曲だ。 旅芝居特有の(股旅や任侠芝居のismから通ずる)ニヒリズムと自己陶酔、キメやアピールがしやすいええ感じのリズム、客席から掛け声をかけてもらえやすいええ感じの箇所、色々、「あー」なポイントだらけ。 せやから踊っていて気持ちよくなるんちゃうか。 観ていてもぽぉっとキャーとなれる曲なんちゃうか。 ぽぉっとはなれへん私は劇場でいつもへぇーっと観てきた。 私的初早乙女太
表紙と装丁の元となっているのは広重の「両国花火」。 でも花火も屋形船も切り落とされている。 ただ黒洞々たる夜の橋があるばかりだ。 と、羅生門の最後の一行なぞもじりたくなったのは、その内容故かもしれない。 手にするとずっしりと重く感じるのは、 タイトルと帯に書かれた宣伝文の力もきっとある。 『夜露がたり』(砂原浩太朗・新潮社) 目次をみると全8篇、 それぞれのタイトルからも滲みが漏れ、否が応でも期待は膨らむ。 「帰ってきた」「向こうがわ」「死んでくれ」「さざなみ」 「錆び刀」「
自分で自分の書いたものを改めて引用するなんて全然よくない。 でもふとそうしたくなったのは、 読み終えたとある1冊が、ほんとうによかったからだ。 読みながら何度もぐっときて、じぃんとして、 読み終えて、そうしたくなったからだ。 直木賞受賞作だし、人気作だし、 尊敬する劇作家たちも薦めていたから気になってはいた。 にもかかわらず、手に取るのが遅くなったのはすごくしょうもない理由だ。 「もう時代小説はええかなあ」 うんと若い頃一時期、ずっと時代小説を読んでいた。 心はずっと江戸
古典と世界史の授業が好きだった。 いい先生に巡り合えたからというのも大きい。 伊勢物語「あずさ弓」の現代語訳という宿題を びゃーっと書いて提出したところ、 年配の色っぽい先生が笑ってくれた。 卒業するまでずぅーっと言われた。 「『桃尻語訳 伊勢物語』のmomoさんね。うふふ」 今思うと橋本治というより田辺聖子気取り、というか、読んでいたから書いた書けたのだろうと思う。 でも、たくさんの真面目な回答の中、いきなり出てきたあんな訳を読まされたらそりゃびびるやろうな。 「江
箱(棚)貸書店コーナーの一部をシェアさせていただいている 東京・湯島のBookstore&Gallery「出発点」店長であり、 出版社「旅と思索社」代表によるご挨拶がHPにアップされています。 よろしければお読みいただき、 記載の営業時間&定休日をご確認の上、 是非、「本屋・桃花舞台」も含む、 素敵な箱主さんの本屋や、御店主セレクトの本、 いろんな作家さんによる雑貨などに出会いに遊びに来ていただければ嬉しいです。 これまで来て下さった方お買い上げいただいた方、本当に嬉しいで
人は誰しも「思い込み」を持っていると思う。 大きなものから小さなものまで、 言うなれば 「こう、と、されている、ことを疑いすらしないこと、かーらーの固定」だろうか。 その「かーらーのー固定と凝り固まり」が、 誰かをしんどくさせたり誰かにとっての暴力となりもしかねない。 と、考えたことはあるだろうか。 「こうであることが当たり前of当たり前すぎて疑いもしない」 その向こうには、「ではない」「そうなれない、出来ない」ことやものやひと、も、「ある」「いる」。 その絶望や苦しみを考え
ドラマ『不適切にもほどがある!』が、結構叩かれているみたい。 「せやろな」「せやな」と思った。 1話目を観たわたしはうれしかった。 笑ったり笑ったり、なつかしさを感じたりもしていたから。 時事ネタがではない。 「よく観ていた頃の小劇場」感、がちゃがちゃごちゃごちゃ生き生き感、ギャグやオフザケを散りばめながら「言いたいことを伝える」を感じてだ。 でも、かな、だから、かな。でも、かな。 2話目くらいから「ん?」を思い始めた、「ん?」と「んー?」だ。 「ああ、これは、叩きがいがある
それは表現ですか? 表現ですか。 そうですか。 その表現は誰かを傷つけていませんか? それは恋ですか? 恋だったのですか。 そうですか。 相手もそう思っていますか? 相手の身体や尊厳をおかしていませんか? それにすら気付かなかったり、 気付く気付かない以前に酔ったり思い込んだりして 気付こうともしてはいなかったりしませんか? 例えば、あなたがそうしたことやそう言ったこと、それは他者への想いからですか? 自分のためですか相手のためですか? 相手のことを思っての言