【語源】日本釈名 (12) 地名(唐・夷・任那・吾嬬・蒙古高句麗・紀伊)
大唐
唐の代に、日本にもろ/\の物をこし来りし故、かくいへり。
※ 「もろ/\」は、諸々。
唐
「から」とは「高麗」なり。略語也。「かうらい」を「から」と云よりして、「唐」をも「から」と云なり。今、「つくし」の俗、高麗人を唐人といふに似たり。
夷
蝦夷の人は、其ひげ長くして、ゑびの如し。故に「ゑみじ」と云。「ひ」と「み」と通ず。「し」の字は、やすめ字なるべし。「ゑみじ」を轉じて、夷狄をすべて「ゑびす」と云。「み」と「ひ」と通じ、「し」と「す」と通ず。「ゑぞ」と云も、「ゑみじ」の略語なるべし。「し」と「そ」と通ず。
※ 「を轉じて」は、転じて。
任那
『垂仁天皇紀』曰、御間城天皇の世、額につの有人、一舩に乗て越の国にとまる故、其所を「角鹿」と云。其来りし人の本国の名を改めて、御間城天皇の御名をとりて「任那」を「みまき」と号す。(『釈日本紀』 角鹿は越前の敦賀なり)
※ 「垂仁天皇紀」は、『日本書紀』の巻第六垂仁天皇紀。
※ 「御間城天皇」は、崇神天皇のこと。
※ 「釈日本紀」は、鎌倉時代に編纂された『日本書紀』の注釈書。
※ 参考:『万葉集略解 第1篇(角鹿津)』
吾嬬
日本武ノ尊、東征し給ふ時、相模の海を舟にて渡り給ひしに、風波はなはだあらくして、御舟しづまんとせしを、其妾 弟橘媛、海神の心ならんとて、尊の命にかはりて海にしづめり。尊、後に上野国碓日が嶺に上り給ひし時、東南の方を望みて、弟橘媛の死せるをかなしみ、「吾嬬者耶」とのたまひしより、山東の諸国をすべて吾嬬国と云。『日本書紀 第七巻』に見えたり。
※ 「碓日が嶺」は、碓氷峠。
蒙古高句麗
御宇多院 弘安四年、もろこしより日本をせめしが、其時もろこしの王は、蒙古国の人●●中華をきりとられし故、其兵を蒙古といふ。
「もうく」と「むく」と通ず也。「り」の字は下の「こくり」に對したる助字なり。又、其折ふし、高句麗の王も、もろこしに出仕せられしが、日本へ兵をつかはされば、蒙古に加勢せんとて、兵舩を日本にわたせり。
高句麗は、高麗の本名なり。「かうこうらい」とよむべきを、通音なれば「こくり」と云。此事『康富記』に出たり。
蒙古より日本を勢めし時、高麗より加勢せし事は、『元史』及『続通鑑』『元文類』等の書に見えたり。此時、夷国の兵舩、筑前の博多によせ来り。日本人と戦ひしが、大風にあひて、舩やぶれくつがへりて、水におぼれ死する者多し。
※ 「對したる」は、対したる。
※「康富記」は、室町時代に中原康富が書いた日記。参考:『康富御記』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「元史」は、元の歴史書。参考: 『元史』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「続通鑑」は、北宋の歴史書『続資治通鑑』のことと思われます。参考:『続資治通鑑』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※ 「元文類」は、元の詩文選集。参考:『元文類』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
肥前松浦郡鷹嶋と云所にて、敵の大将 藩文虎など云し者は、よき舟をえらびのりて、からへにげ帰る。残る兵は、粮つき、舩やぶれて、かへるべき根なかりしを、日本の兵、少弐三郎左衛門を大将とし、よせてたゝかひかち、生どりて、筑前那珂川のはたにて、二万人のくびをきる。高麗人のくびをば、同国怡土郡高磯山の下にうづめ、其所に寺をたて、高麗寺と名づく。
今は寺なし。寺のあとはあり。今に村の名を高麗寺村と云。くびづかもあり。此事『八幡愚童記』にも見えたり。鷹嶋は博多西十里、からの書には五龍山とかけり。
※ 「藩文虎」は、元の武将。弘安四年(1281年)江南軍十余万人を率いて日本に攻め込み(弘安の役)、日本沿海で台風にあって敗退しました。
※ 「かへるべき根」の「根」は、誤読しているかもしれません。
※ 「少弐三郎左衛門」は、鎌倉時代の武将、少弐景資のこと。
※ 「よせてたゝかひかち」は、よせて戦い勝ち。
※ 「八幡愚童記」は、鎌倉時代に編纂された石清水八幡宮の霊験記。参考:『八幡宮愚童記』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
※「からの書」は、唐の書。
紀伊
『日本紀神代上巻』に、そさのおの尊の御子の三神、よく木だねをまきほどこし給ふ。すなはち紀伊国に渡し奉るといへり。三神木たねをまきたまへる国なるゆへに「きのくに」といふ。「きい」とはよまず「き」とよむ。
筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。
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