ウェイティングフォーバーバリアン(原作:夷狄を待ちながら:著:JMクッツェー)【やめるんだ。映画感想と言ったって程があるだろ。やっていいことと悪いことがあるぞ】
原作はクッツェー。
南アフリカの人。この人の本がノーベル賞か何かを取ったらしく。
そしてクッツェー先生はアパルトヘイト時代末期から現代に至る時期の人物であります。
内容もアパルトヘイト政策(ファシズム的統治時代)を暗に批判しているような内容です。
要するに敗戦文学ですよ。
クッツェー先生は南ア白人ですからね。
ですが内容は現実の南アではなく、なんとなくファンタジーな帝国。
雰囲気としてはフランス植民地時代のサハラみたいな場所です。
さて、今回紹介するのは映画版です。原作は読んだことありません。
帝国の辺境地帯に行政官として派遣された主人公は、帝国に属さない野蛮な民族との間に、一定の関係を築き上げることに成功していました。
そこへ本国から帝国主義の大佐が到着。
これ、なんとジョニデが演じてます。
ジョニデももうおじさんですね。
ジョニデ大佐は、早速に辺境の野蛮人を征服する作戦を考えるのですが。
主人公は反対です。
主人公も帝国の官僚であり、帝国こそが文明であって、野蛮人は野蛮なのだ、くらいに思っていましたが、
しかし相手を人間と見なさず征服することしか考えないというのは正気ではない。
そんなやり方は非現実的でうまく行くはずがない。
砂漠で戦うというのは本土の人間が考えているのとは全く違う。
そう反対するのですが。聞き入られません。
そも帝国政府の方針である以上は、公務員である以上は、公然とは逆らえません。
やがて開戦し、大佐が連れてきた捕虜の中に敵部族の美しい娘がいて、拷問のすえに足が使えなくなり放置されていた彼女を主人公は助けてしまいます。まあいわゆるひとつの惚れたんですね。
それでなんとか彼女を部族のところに返したりもするのですが。
そんなこんなが重なり、ついには解任されて牢獄にぶち込まれる主人公。
しかし肝心の大佐の征服戦争は敗北に終わり(思っていた通りの展開)
大佐の軍隊が逃げ去った後、迫りくる蛮族にたいして、主人公は誰もいなくなった牢獄の扉を勝手に開けて、残された人々のために、敗戦処理としての交渉を試みることになります。
ここで終わり。
交渉の結果については作品中では描かれません。(少なくとも映画では)
いずれにせよ屈辱的な条件を強要されたのでしょう。
もちろん主人公は、そもそもこの戦争にも反対していたのです。
彼は勇気をもって体制を批判したにも関わらず、
それでも体制側の人間としてその悪を糾弾される立場に立たされてしまう。
反対していた体制のつけを何故か肩代わりして支払わされる。
敗戦国である南ア白人リベラルの心境を、それとなく比喩するようになっています。
これは明らかに敗戦文学ですね。
日本の人には馴染みの文学スタイルかと思います。
比較してみるのも面白いかと。
あと邦題はもう少しどうにかしよう。やる気あるのか。
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