読書日記・2025年もゆるゆると
1月1日(水)
私は現在喪中らしいのだが、何にも気にせずに初詣へと向かった。犬を連れてお参りしている人を何人か見かけて、そのたびに「犬はよい」という気持ちになって犬にみとれてばかりいたら、自分が何をしに来たのか忘れて、お参りもせずに帰りそうになった。夫に「何をしに来たんだ」と言われ、「え? 犬を見に来たんじゃなかったっけ?」と真剣に思ってしまった自分がいて、私は2025年も独自の世界観で生きることになりそうだな、という確信を得る。
森博嗣さんの『つむじ風のスープ』の中に、「大人たちが支配されている観念」の話があった。
時代が変わり、次は働くことが偉いという価値観になる。
そして現在は「人の絆を重要視する時代になった」と、本には書かれている。人と人との関係が何よりも大切で、ネット上でもフォロワーが何人いるのか、「いいね」がどれだけもらえたかが重要視されている、との見解があった。
時代が変われば価値観も変わる。その時その時の流れがあって、その流れに乗れなければダメ人間の烙印を押される気がして、焦りのようなものまで生まれてしまう。けれど、自分が信じて乗ったはずの流れが永遠に続くわけじゃない。
世間とズレている自分をどうにかしたいと長年思い続けてきたけれど、世間の流れはいつ風向きが変わるのか分からない、不確かなものなんだと思ってみると、流れに乗れないこと、世間とズレていることも、何ら悪いことではないのかもしれないね。
1月2日(木)
今年こそは日記を書こうと決意していたはずが、すっかり忘れていたので日記は今年も書かないことに決めた。このnoteに書いているのは日記だけど、読んだ本の記録でもあるので日記とはまた別物。
朝起きて夜寝るまでの、日々の記録を残そうと毎年思うんだけど、その日記をいつ書けばいいのかが、私の中では毎年問題になる。当日に書くとするならば、夜寝る前に日記を書くのがベストだと思う。しかし夜って眠い。眠くて文章を書く気になれない。それじゃあ翌日の朝に書けばいいじゃん!と思ったんだけど、前日のことを覚えていられる頭を私は持ち合わせていないため、おそらく日記を書くことが向いてない。
今年も日記は書かないことに決めた。向いていないことは無理してしなくてもよし。それが今年の抱負ってことで(まるくおさめたつもり)。
1月3日(金)
佐野洋子さんの『死ぬ気まんまん』を読む。余命宣告をされた佐野さんの、死に対して恐怖心を抱いていない様子がとてもよかった。死んでしまう前にお金を使ってしまうところもよかった。
お金を持って死ぬことは出来ないから、生きてるうちに使ってしまうというのはとても潔い。私もそうなりたいけれど、余命宣告されたところで佐野さんのように高級車を買ったり出来るだろうか。そもそもそんな資金が手元にあるのか、老後の私よ。
『死ぬ気まんまん』を読んで思うのは、欲があればあるほどに生きることが辛いのかもしれないということだった。欲がなければ、案外あっさりと死を受け入れられるのかもしれない。欲があれば、人生を良きものにしようとしてもがいて苦しむのかもしれない。知らんけど。
欲深な自分をまずは何とかせねば、と思う2025年のはじまり。