自己憐憫
言い換えれば悲劇のヒロイン。
私は自分のことを世界一苦しんできた可哀想な人だと思ってしまうところがある。
人の苦しみなんて簡単に比べられるものではない。しかし、物理的にはかなり恵まれている私が世界一不幸だというのはおかしい。
昔はそんな、自分が可哀想だなんて思わなかった。幼少期、比較対象になるのは数少ない小学校の同級生くらいしかいなかった。そこは、お互いの個性を当たり前のように受け入れている平和な環境だった。だからこそ同級生と比べて自分は劣っているだとかあまり考えたことがなかったし、逆に自分よりも要領の悪い子を見下そうとも思ったことがなかった。
しかし、不登校になるなど自分や他人と向き合う必要ができてしまったことをきっかけに、世の中には自分より恵まれている(ように見える)人がいっぱいいることなどに直面した。
逆に、私が当たり前のように持っているものが欲しくてたまらない人もいることも知った。
しかし残酷な話、私に直接関係があるのは前者である。よって、なんの疑問も抱かないまま隣の芝の青さに吸い寄せられていった。その結果、私は悲劇のヒロインになった。
noteでの私は自己憐憫(自分に対する憐れみの気持ち)に満ちている。そこには単純に鬱の病状も混ざっていると思うが、それでも我ながらなかなか気持ち悪いと思う。
フォロワーには共感の気持ちで読んでもらえているのかもしれないが、これが原因で私の文章を避ける人もいるんじゃないかなと思う。
もちろん人前でそんな側面をひけらかすようなことはしないけど、絶対隠しきれてはいない。表面的に綺麗になろうと頑張ろうとすると、愛想笑いのつもりはないのに不自然に笑ってしまう。裏を返せば、長所は正直なところだろうか。noteにはそんな、「着飾れない私」が詰まっている。
理想を追求することは大事だけど、私の場合それは「逃げ」とも言い換えられる。
色々経験してきて分かった。私はある意味、感覚が贅沢なんだと思う。自分に合う場所はどこかにあるはずだと探し回って何かを見つけ、無理をしてそれを手に入れて、うまくいかなかったことしかない。
だからこそ、与えられた環境で踏ん張れる人は強いと思う。
自然と自分に舞い込んでくるきっかけを無視して、無理をして理想を追求するような生き方には疲れてしまった。
(だからといって、通信に転校することが決まった時みたいに、選択肢が1つしかないという状況も受動的すぎて辛い。何事もバランス……)
どんな私も受け入れて、私の課題のひとつである精神的な幼さをも乗り越えられるようになりたい。
追記
同じような文章ばっかりな気がするけど、話の中心はそれぞれ若干違うから許してほしい