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元教師、適応障害うつ病患者が『自己肯定感』について考えてみる

適応障害になって教員を辞め、ベンチャー企業で社会復帰を果たすも半年でうつ病を再発させた36歳が、
近年なぜか人気の『自己肯定感』について考えてみる。

ちなみにまず最初にグーグル先生の自己肯定感の捉え方を載せておく。

Googleで自己肯定感を検索すると出てくるAIによる概要↓

自己肯定感とは、ありのままの自分を肯定し、好意的に受け止めることができる感覚です。他人と比較するのではなく、自分の能力や価値に対して自信を持ち、自己評価が高い状態を指します。
自己肯定感が高いと、次のようなメリットがあります。
何事もポジティブに捉えることができる
人生に満足度が高まる
新しいことに挑戦したり、物事を前進させたりする力が生まれる
家族や友人、職場の仲間などの人間関係全般、そして仕事においても喜びや成功の土台になる
自己肯定感を高めるには、次のような方法があります。
自分の考え方の癖をよく見つめ直し、別の考え方をしてみようと心がける
うれしかったできごとや不快なできごと、思っていることをひたすら書き出す
自分の成功や良いところに注目し、否定的な自己イメージをポジティブなものに変えていく
否定的な言葉を投げかけてくる人たちから距離を置く

google


『自己肯定感』という言葉とわたしの出会い〜教員としての捉え方〜

私が人生で初めて『自己肯定感』という言葉と出会ったのは
大学生の教員養成課程での授業であろう。

「生徒の自己肯定感を高めることが、生徒の自主的な活動(今でいうアクティブラーニングに近いものだろう)を促進する」的な内容の授業を受講していた。

教員採用試験においても、どの都道府県でも論述試験などで「自己肯定感」に関する課題が取り上げられていたような記憶がある。

私が教員として感じていた自己肯定感とは、

「できる」「できた」という『成功体験』を通して育まれるもの

だった。

教員という仕事柄、生徒に向き合う時に何を目的として自分(教師)が行動するかと言えば、

「生徒に『成功体験』をたくさんさせてあげる」

ことである。

特に私は保健体育科だったものだから、『成功体験』を通して、「できた!」という笑顔を見ることにたまらないエクスタシーを感じる部類の教員だったと思う。

生徒に対して自己肯定感を高めてあげたい、そう思うのは教師としての宿命であり、使命である。


そんな当の私自身の『自己肯定感』はどうだったのか?

うつ病患者の考える『自己肯定感』

教員として、生徒たちの自己肯定感を高めるため、
必死に勉強し、さまざまな施策を講じ、時には失敗し、時には共に涙を流す。
そんな日々を送っていた私だが、自分自身を『肯定』したことははっきり言って一度もない。

いわゆる自己肯定感の低い人間に属する。

勉強、スポーツ、社会人になってからの仕事でも、何をやっても中途半端。

そう感じていながら、職場ではさまざまな役職をあてがわれ、毎日記憶にないくらい「なんでも屋」として過ごしていた気がする。

担任、学年主任、教科主任、委員長、顧問、地区専門委員、国体、県協会、、、、

多方面から仕事を受けたし、どんな仕事も断らず受け取っていた。
正直、振られる仕事に対して、自分ができるかできないかの判断をしていなかったと思う。
周りからは、仕事を振りやすい人として扱われていただろうし、私は首を縦にしか振れない人間になっていた。
なっていた、というか、元々そういう人間である。

誰かのため、生徒のため、組織のため。

そう思って全ての仕事を何も考えず「やります」と言って請け負った。

しかし、それをやり遂げるだけのキャパシティは持ち合わせていなかったのだ。

だから、コップの水が溢れかえって、適応障害を発症した。

ここで私の『自己肯定感』は最底辺まで到達した。

元々自己肯定感の低い私はおそらく、たくさんの仕事を請け負うことで何か成し遂げたい、という野心があったのだろう。
こと、部活動においては心の底でくすぶる火種をずっと持ちながらも、大炎に変えられずにもがいていた。

適応障害を発症し休職を余儀なくされ、うつ症状がどんどん進み、毎日希死念慮と闘う日々。

生徒になってほしくない状態に、自分がなっていた。

自己肯定感は「0」の状態である。


なぜ今『自己肯定感』について考えることができているのか

自己肯定感「0」状態だった自分が、なぜ今この記事を書いているのか。

それは、「自己を肯定し始めたから」に他ならない。

私の教員としての自己肯定感の捉え方(「できる」こと、成功体験を積むこと)は違っていたのかもしれない。

私と同じように、”他人のためにだけ”生きている人たちは、おそらく同じもしくは近い考えの人もいるだろうから、この記事を書いているが、

今考える『自己肯定感』とは、やはりグーグル先生の言うとおり、
そしてバカボンのパパが言うとおり、

【これでいいのだ】

だ。

私は、「誰かのために尽くして、何か功績を残したい」そんな野心があったのだろう。
その野心こそが、私をイエスマンにし、次から次へと流れてくる全ての仕事を請け負わせ、私を崩壊させたのだろう。そう分析している。

自己肯定感とは、ありのままの自分を肯定し、好意的に受け止めることができる感覚です。他人と比較するのではなく、自分の能力や価値に対して自信を持ち、自己評価が高い状態を指します。

グーグル先生

ありのままの自分を肯定している。
太ってたっていいじゃない。髭が生えてたっていいじゃない。

ただ、グーグル先生の言うところの、
「自分の能力や価値に対して自信を持ち、自己評価が高い状態を指します。」
の部分は、私は関係がないと思っている。

自己の評価は、低くたっていいのだ。
人間は、人間関係なしには生きることはできないし、
そうするとどうやったって他人と自分を比べることになるじゃないか。
比較しない、なんてのはできはしないのだ。

でも、自分が他人と比べて、能力や価値が低くたっていいじゃないか。

そこで生きているんだから。

自分のやりたいと思うことができていれば、それでいいのだ。

他人のために生きたい、と強く思っている人ほど、
「まだまだこんな自分じゃダメだ」と思うだろうが、
少しでも「生きたい」自分像に沿った行動ができているなら、それでいいのだ。
おそらく、他人のために生きたい人は、その想いを持っている時点で行動に移せるから、すでに自分のために生きてるのだ。

成長なんかする必要はない。

自分がそこでちゃんと生きてさえいれば、誰かのためになっているのだ。

そして、もし自己肯定感が低くて、苦しんでいる人がいるならば、

ぜひ山に登ってみてほしい。

山は全てを受け入れてくれる。

「自分、それでいいんやで」

と言ってくれる。


なんかまとまらない文章になってしまったが、

正直、自己肯定感という言葉はあまり好きではない。

そんな概念があるから、自己を肯定しなくなる考えが生まれるのだ。

自己を否定してたっていいのだ。

死ななければそれでいい。

苦しいなら、逃げればいいのだ。

野心?プライド?いらないのだ。

謝罪もいらないのだ。人を裏切ったっていいのだ。

苦しんでいる人なら、他人を傷つけたりはしない。

生きていれば、それでいいのだ。


記事を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

締め方はこれでいいのかな?

まあ、

これでいいのだ。

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