『EATER on note』 遠藤ミチロウVol.1
取材・文・写真◎地引雄一
遠藤ミチロウ 「ミチロウ」を語る
―インタビュー集成―
遠藤ミチロウがもし今も生きていたら、何を語りどんな行動をとっただろうか。
常に時代と闘い、現場に身を置き続けた遠藤ミチロウ。彼の言葉に今一度耳を傾けたい。
手元には遠藤ミチロウの5本のインタビューテープがある。2本は90年代に『イーター』という雑誌のために行ったインタビュー。1本は東日本大震災の後で刊行した『イーター2014』に掲載したインタビュー。あとの2本は未発表のもので、2015年が最後のインタビューとなった。
これらのインタビューから、掲載時には割愛した部分もあらたに加えて、ミチロウの走り抜けてきた生涯を、時代を追って彼自身の言葉でたどってみたい。
編集・写真 地引雄一
第1回 ヒッピーと学生運動の時代、そして東南アジア放浪
1950年(昭和25年)に福島県二本松市に生まれた遠藤道郎は、1969年(昭和44年)県立福島高校から国立山形大学に進学する。時代は学園紛争やヒッピームーブメント、アングラカルチャーの全盛期。ミチロウはその只中で様々な体験をしてゆく。後の彼の活動の原点がこの時代に作られたと言えるだろう。
<ロック喫茶とヒッピー・コミューン>
───山形大学生時代、大学でアングラ・フォークのイベントやってたっていう話を聞いたことあるけど。
ミチロウ うん。自分は歌う方よりもコンサート開いて、それで地元のアマチュアのヤツとか、あと友部(正人)さんやエンケン(遠藤賢司)さんを東京から呼んでコンサートやったりとか、そういうイベンター的なことをやってた、学生時代は。
―――その頃に聴いてたのはサイケデリックだったんだ?
ミチロウ 聴いてるのはサイケデリックと、あと日本の言葉に関してはURC系のアンダーグラウンドのやつを聴いてて、あとはっぴいえんどとか。音として聴いてたのはドアーズとかヴェルベッツとか。だから外国のボブ・ディラン以外の弾き語りってほとんど聴いてないんだよ、俺。70年代前半にシンガー・ソングライター・ブームがあったでしょ、ジェームズ・テイラーとかいろいろ。あれはあんまり好きじゃなかった。どうもカリフォルニアの匂いがするもの、ダメなんだよね(笑)。
01 友部正人 MASATO TOMOBE - 一本道
遠藤賢司 カレーライス
The Doors - People Are Strange (Official Audio)
The Velvet Underground - I’m Waiting For The Man (Live At The Matrix)
Bob Dylan - Wallflower (Studio Outtake - 1971 - Official Audio)
───スターリンを最初に観た時、日本の土着的なパンクって感じたものね。どこかドロドロした…。
ミチロウ そうだろうね。言葉は三上寛の影響受けてるしね(笑)。言葉だけは、パンクとか昔のフォークとか、そういう区別なく自分の中でもう出来上がってたから。詩を書いたとしても、それをどういうふうに歌うかでパンクになったりフォークになったりしただけで。歌詞に関しては別に誰の影響も、…まあ三上寛の影響は受けてるけど、実際自分が歌をつくり出してからは、完全にそれは自分の言葉で。ずっと高校の頃から詩を書いていたから、詩に関してはあんまり極端な人の影響って受けてない。
結構、言葉を書くキャリアは長いんだよね。現代詩はもうダメだ…全然自分にとってつまんなくなってきて、それで歌の世界にいったっていう感じがあるから。そのきっかけになったのが、やっぱジャックスを聴いて。それは学生の時だけど。歌詞だけ見たら、ちょっと現代詩を書いてる感覚からすると幼稚じゃないんだけど、分かりすぎる位分かりやすい言葉だったから、こんなのでいいのかなって思って。でも歌になって聴くとすごいその奥の深さがブワッと出てくる言葉だったんで、それで歌の持ってる魔力っていうかな、それを感じて。で、やっぱり歌にしよっかなっていう。
───じゃあ、もう山形大学にいた学生時代に。
ミチロウ 山形にいる時から。
―――東京に出てくる前から歌はやってたんだ。
ミチロウ いやでも、ちゃんと歌つくり出して歌い出したのは、東京に出て来る1年前くらいから。26(歳)くらいから。それまでは詩はぽつぽつと書いてたけど、実際、歌として作り出したのは26くらいから。
三上寛 | 前橋COOL FOOL 20周年ライブ vol.4 | 2022.07.31 | ダイジェスト
ジャックス マリアンヌ
―――じゃあ、学生時代はもっぱらイベントやったりとか?
ミチロウ そうそう。あの頃ロック喫茶っていうのがワーッて全国にできだして、東北には二軒くらいしかなかった。俺が山形でやってた「ジェスロ・タル」ってお店と、仙台に今でもある「ピーターパン」ってお店があって、その2軒しかなかったの。
───えっ、店やってたの!?
ミチロウ やってたよ、学生の時。経営者だもん。おれの店だもん。だからヒッピー連中がみんな来るんだよね。旅をしながら。お店に「泊めてくれぇ」とか言ってね、泊まってって。おれもその時ヒッピーだったから(笑)、自分が旅したかったから、お店やってると旅できないから嫌になって、1年で辞めちゃったけど。21(歳)の時かな。それやりながらコンサートやったりとかしてた。
今でもほら、地方に行くとよく、そういうお店をやって、たまにコンサートを主催するような人いるじゃないですか、マスターで。そういう人だったんだよ、おれ、学生の時(笑)。順番逆なんだよね。普通はミュージシャンやってた人が辞めて、お店を作って、イベントやったりする立場になる。おれは逆だよね(笑)。最初そういうことをやってて、逆に歌う立場になった。
───じゃあ、今全国まわっても、そういう人達の立場がよくわかるんだ。
ミチロウ わかるわかる、すっごいわかる。
あの頃は、向こうのヒッピームーブメントにしても、やっぱりクスリ関係というのは切り離せないじゃないですか。特にマリファナなんてものは。あの頃は大らかだったからね。ちょっと山に行ってみるとあるんだよね。それでヒッピー連中が来るんだよ。「この辺は匂いがするなあ」とか言いながら。「見つけてきた」とか言って、山から採ってきたりすんだよね。
───そのころに日本を旅してまわってたんだ。
ミチロウ いやその前からね、旅行好きだったから、ヒッピーやる前から、大学の18の時に、夏休みに旅行に行こうと思ってヒッチハイク始めてみたら面白くて(笑)。それで山形から九州までずーっと旅行したの、ヒッチハイクで。それで病みつきになって旅行してるうちに、ヒッピー関係の方にハマるようになってって、そのまま延長で、ずーっと。
全国をヒッチハイクしながら野宿して廻ってたのはもっと前から。まだヒッピーとか全然知らない頃から。
───ヒッピーのコミューンみたいなとこまわったりしてたとか。
ミチロウ 何か所かはね。金沢にずーっといたりとか。金沢はけっこうメッカだったから。金沢で「夕焼け祭り」とかあったでしょ(1970年代に石川県内で5回開催)。金沢って日本のカリフォルニアみたいなとこだったんだ、あそこは(笑)。すごかったんだから。「夕焼け祭り」って日本のウッドストックってイメージ…。
───コミューンに行っても、完全には入りきれなかったって言ってたけど。
ミチロウ そうなんだよ。コミューンとか作ってる連中がいてそこに入ったんだけど、なんかね、どうもなじめないんだよね。何がなじめないって言ったら、ファミリー感覚がダメだったんだよ。普通の家族ってあるじゃない。家族感覚って……。俺達ってニューファミリー世代っていわれるぐらいだったから、要するに、学生時代に同棲時代ってのがはやったりして、今までとは違う家族形態をつくろうっていうとこで始まった世代なのね。
ところが、俺は、新しかろうが古かろうが、家族っていう形態が嫌で、それがすごい苦手だったから。「独り」っていうイメージが強かったのね。だから旅行するっていうのも、コミューンを作ったりじゃなくて、ひとりで放浪っていうイメージがすごい強かったから。
そういうコミューンに行くと、新しい家族感覚を持った連中が集まって住んでいる、ひとつの大家族集団みたいな形になってたから。なんかねぇ、人間関係がすごいネチっこくて、やっぱ耐えられないんだよね、それがね。
それでやっぱりそういうとこには居着けなくて。どうも向かないなって感じで、だんだんそこから離れていっちゃったんだよね。音楽はそういう方はすごい楽しかったんだけど、人間関係になってくるとどうもなんかね。どっちかっていったら一回もう家族全部解体して、バラバラにしたかった方だったから。だってコミューンっていっても結局はね、昔の家族関係を引きずってんだよね、ものすごく。そこがダメで。
―――コミューンの中の秩序みたいな関係性みたいなのがあるわけ。
ミチロウ そうだね、決めごとがいっぱい細かくあるしね。みんなが楽しく暮らすためにはこういういとを守りましょうって、暗黙のうちにできてくるんだよね、集団で暮らしていると。みんな助け合うし、それがおれには居心地が悪かったね。旅してるのはいいんだけど、定住しちゃうとダメなんだよね。定住感覚がどうもダメだったな。
<学生運動とツェッペリン>
─── 政治的な学生運動には関わってなかったの。
ミチロウ 大学入って1年間は学生運動やってたけど……佐藤訪米阻止(1969年11月16,17日)とかいって羽田まで行ったんだけどねぇ。でも、いわゆるセクトに入ってないから、ノンセクトとして羽田に行ったから、烏合の衆だよね(笑)。とてもじゃないがそんな、ボロボロにやられるから逃げて帰ってきて。「ダーメだぁ、これじゃあ」と思って。セクトで行った連中もいっぱいいて。けっこうみんなメタクソにやられて帰って来たのに「大勝利」とか言って、「嘘つけ、ボロ負けじゃねぇかよ」とか思って(笑)。なんかそれが白々しくて。
佐藤首相訪米阻止闘争 1969年
ミチロウ あの頃は全共闘運動も下火っていうか、学園闘争よりはもう政治闘争になっちゃってて、大学解体とかよりは政治決戦みたいになってたから、だんだん疎遠になってったのね。どっちかって言ったら政治決戦よりは人間解放じゃないかみたいな方だったから。それからだんだんコンサートやったりとか、ハプニングやったりとか。
―――ハプニングやってたの?
ミチロウ やってたよ、ゼロ次元みたいなことやってたんだよ(笑)。ちょうど歩行者天国が出来はじめた時で「これはいい」とか言うんで、歩行者天国でハプニングやったりとかね。
――― 山形の?
ミチロウ 山形で。素っ裸にはなんなかったけど(笑)。ミニコミを作って、路上で歌ったりとかやってたんだけど。それもだんだん……。
───映研やってたっていうのはいつ。
ミチロウ それはもう1年の時から。学生運動やりながら、若松孝二の映画上映してたりしたの。考えてみたら若松孝二の映画ばっかり上映してたんだよ。あと足立正生とかその辺のいわゆる…なんてったっけ
――― 若松プロ……。
ミチロウ 若松プロだよね。若松プロから出てたんだよね、足立正生とかいろいろ。若松プロの映画ばっかり上映してて。あと『パルチザン前史』(監督:土本典昭/1969年)を上映して。自分等も黒ヘルだったから、滝田修がどうのこうのとかって世界だったんだけど。
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ミチロウ 70年安保で盛り上がるじゃないですか。でもそれは俺達の次の学年なんだよね。俺はもう2学年っていうか20歳になってたから、次の年に入学してきた連中が主役だったの。70年安保っていうのは名目だけで、実質はセクトに振りまわされた、けっこう形骸化した…、ストライキっていったって、大学を解体するためのストライキっていうよりは、政治的なストライキだったから、なんかあんまり興味なくて。ぶらーっと出ていくと、「おい、スト破り」とか、一緒にやってたヤツらから言われたりしてね(笑)。「やったってしょうがねぇーじゃないの」とか言いながら。ま、冗談半分なんだけどね。「歌ばっかり歌っててどうすんの」とか言われてたんだけどね。
学生運動でバリケードの中でみんな岡林(信康)とか聴いてるけど…『友よ』とか、なんかダセーなぁと思って。「それよりはツェッペリン」とか言って、俺達が入ったとこだけはツェッペリンかけたりしてたのね、バリケードの中で。その連中だけがだんだん離れていっちゃって。「もういいよ、政治運動はやめよう」とか言って。
Led Zeppelin - Immigrant Song (Official Audio)
<東南アジア放浪>
ミチロウは大学卒業後、単身東南アジアに向かい、一年間ネパールからインドネシアにかけて放浪の旅を続ける。そこには旅人ミチロウというもうひとつの顔が。
――― アジアを放浪したのは…
ミチロウ それはその後。学生やめてから。俺、大学卒業してんの。24で卒業して、そのまま外国行っちゃった。で、一年間、東南アジアぷらぷらしてた。
――― どの辺まわったの。
ミチロウ タイ、ネパール、ラオス、あとマレーシア、インドネシアかな。あの頃、バリ島なんか日本人いないものね。行っても誰もいない、日本人。もうその頃はヒッピームーブメントもこんなになってたから。
―――どういうとこに泊まって?
ミチロウ 1泊100円以下の安ホテル。
―――ずっとひとりで?
ミチロウ たまに知り合いになったヤツと何日間は一緒とかあるけど。あの頃ネパールとかインドってのは皆行くんだけど、東南アジアの方は意外と行かないんだよね。東南アジアもタイだけで、南の方に下ってマレーシアやバリ島の方って意外と日本人は行ってなくて。そっちの方もじつは、全世界のヒッピーのルートの中には入ってて。
そっち行ってみたくて南にずーっとヒッチハイクして下ってって。で、シンガポールまで下って、それから船に乗って、インドネシアに行って。また汽車に乗ったりヒッチハイクしたりしてバリ島まで行って。で、また戻って、今度スマトラに行って。そうすると、電気のないようなところにやっぱりヒッピーの世界があったりするんだよね。
───そんなとこにも居るんだ、ヒッピーが。
ミチロウ もう、メッカがあってねぇ。スマトラに大きい湖があるのね、レイク・トバっていうカルデラ湖なのね。真ん中が島になってるんだけど、その真ん中の島っていうのが、天国なんですよ(笑)。そこは電気も何もないの。でもちゃんと原住民がいるんだよ。そこもヒッピーのメッカでねぇ。その湖の近くに、インドネシア最大の大麻の産地があって、だからそこがそうなったと思うんだけど。みんな電気も何もない生活して、現地の人とヒッピーが一緒になって暮らしてるとこがあって。そこに1ヵ月ぐらいお世話になってて。けっこう、面白かったけどね。
あと、インドネシア一番好きだったから、ジャワ島の山の奥に行くと、ヒッピーも何もいない、現地の人しかいない世界に入っちゃって。そこでしばらく暮らしてみたりとか。初めて来た外人だとか言われて(笑)。おもしろかったですけどね。一年間があっと言う間でね、けっこう。
――― ビザとかはそんなにうるさくなかったんだ。
ミチロウ いや、取っていくよ。2ヶ月位のビザをとって、更新して、途中で。
―――僕は国内では放浪旅行みたいな感じであちこち歩いたから、そういう話を聞くと心底羨ましくて(笑)。
ミチロウ やっぱ20代じゃないとできない。30過ぎてからやろうと思っても、たぶん人生を投げるくらいの気持ちでやらないと。20代ならムチャできるからね。
バリ島に行っても、クタ・ビーチってあるんだけど、あそこがやっぱりヒッピーのメッカで、そこに最初居たんだけど、ちょっとつまんなくなって、反対側の北側に行くんだけどね。真ん中にある火山を越えて反対側に下っていくと、普通の村。あの頃外人もいなかったから、インドネシア人しかいない。そこがまたいいんだよね。村の人と一緒に混ざって生活するだけで。そういう所に行くと、外人が珍しいからすごい歓迎されて、一緒に寝泊りして、村の子供と一緒に遊んでたりとかそういう世界だけどね。
でなんかね、今日はインドネシアの独立記念日だからとかいって、村の式典あるじゃないですか。貴賓席に呼ばれて(笑)。あと、高校の授業に呼ばれて行って、日本の話してくれとか言われて、拙い英語で話したりとかね。
仮装行列があるとかいって見に行ったらね、日本軍が昔占領してたじゃない、インドネシアって。独立の時に日本軍が縄で縛られてね、竹槍みたいので突っつかれながら歩いてく仮装行列があるんだよ(笑)、インドネシアの山奥で。「うわーっ」とか思って。
おやっさんが出てきてね、おれ日本語知ってるとか言ってね、いきなり「バカヤロー!」とか言われて。向こうは意味知ってないんだよ。「テンノウヘイカ、バンザーイ!」とかやるんだよね。戦争中のアレがそのまま残ってたりするんだよね。
親父が戦争の時にインドネシアとかガダルカナルとかあの辺ずっと行ってたんで、親父からよく話し聞いてたの、インドネシアの話を。それで、インドネシアってこだわりがあって。
あとラオスが面白くて。俺行った時、ちょうどベトナム戦争が終わった年で(1975年)。終わった直後だったのかな。それでベトナムには入れなかったんだけど、ラオスはまだ入れたんだよね。ラオスは独立が終わってなくて、終わりかけ寸前だった。だから、行ったんだけど、首都のヴィエンチャン以外は危険だから出るなって言われて。2か月いたんだけどね、1か月目で完全に政権交代になって、独立して新しい共産政権に変わっちゃって、独立万歳のお祭りになって。あと1か月したらもう国外退去なの、外人全部。それで追い出されたんだけどねぇ。
August 23, 1975 New Communist Laos Documentary - UPITN
───へぇ、国の変わり目を見たんだ。
ミチロウ すごかったよ。最初ビザ取りに行った時には、旧政府の役人がいるから、賄賂渡さないとビザくんないのね。次行ったら、もうビザくれないの。その役人は変わってないんだよ。後ろに軍人が立ってるんだよね。「あなた達はもう出なさい」って言われて。その軍隊のヤツが席はずしたスキを狙って、賄賂やるんだよね。そうするとビザくれる。で、もう1か月いた(笑)。
もう貨幣の価値がどんどん変わってって。フランスの植民地だったからフランス式のレストランがあるんだけど、貨幣の価値によって出てくる肉の質が変わるんだよ。牛肉だったのがいきなり水牛の肉に変わったりとか。「何だ?今日の肉は」(笑)。闇の両替所に行くと札束の数が違うんだよね。これ位だったのが急にこれぐらいに増えたりとかね。その日を狙って行かないと。
最初行った時には、街に娼婦とかおねぇちゃん達がいっぱいウロウロしてて。一軒家のバンガローみたいな小屋を借りて住んでたんだけど、別に呼びもしないのに女が入り込んで来んだよね。勝手に女の子が来て「飯食わせてくれ」つって、一緒に飯食ってると、もうそのまま泊まり込んじゃって、一緒に住んでるの。ある日パッと見るといなくなっちゃって、別の小屋に行ってたりすんだよね。多分そっちの方が食事がいいんだろうね(笑)。
ある日を境にして、その女の人達が全部消えちゃったんだよね。「おかしいなぁ」って言って街を散歩してたら、なんかその辺でみんなね、道路掃除とかしてるの。政権変わっちゃったから娼婦が全部禁止になって、強制労働に駆り出されて。娼婦なんか一人もうろうろしてないんだよね。なんか、すごい面白かったけどね(笑)。
―――資金は用意していたの?
ミチロウ 東京~バンコクの往復チケットと30万円持って行ったんだけど、帰ってくる時にまだ5万くらい余ってたのかな。1年居て25万くらいしかかかってないんだよ。最低の生活してたけどね(笑)。食事も殆ど現地の一番貧乏人が食べるような生活してたから。ホテルっていっても南京虫が落ちてくるような汚いところで。シャワーもないような世界だったけど。
行く時にジーパンを何本か持ってって、あと時計を6個くらい持ってたの。それをネパールで売って暮らしてたから、ネパールに3か月いたんだけど、全然お金かかってないもん。市場みたいなとこに行って、「誰か、いらないか?」って言ったとたんにいきなり人がワーッて集まってきて、そこで競るのね。日本の質屋で買ってった1,000円の時計が5,000円くらいで売れて、向こうの価値観だと50,000円ぐらいになるから、それで1か月暮らした。時計3個で1か月って世界だよ。
―――病気にはならなかったの?
ミチロウ 一回バンコクで食中毒に当たって、下痢と吐き気でガリガリに瘦せちゃって、やばいってんで入院したら、保険も何にも利かないから入院費が1泊50ドル取られたんだよ。日銭で取られる。あの頃は1ドル=300円だったから15,000円。これはやばいと思って逃げ出してきて、バンコクでクーラー付きで一番安いホテルに泊まったの。
そうしたらネパールで知り合ったイラン人が同じホテルに泊まってて、「オマエ、どうしたんだ、そんなに痩せて」って言って。「こういう病気になっちゃって」って言ったら「良い薬がある」とか言ってくれたのが、小っちゃな何てことはないチョコレートだったの。ハシシでね(笑)。「これやりゃあ食欲もでるから」って。体がグダグダの時だったから一服しただけでクアーって効いちゃって。でも、さすがに食欲出てきたの。そしたらみるみる回復していっちゃって。ハハハ。
――― 体に良いんだ(笑)。
ミチロウ 食事取るようになったら、体力が回復して戻っちゃったから、やっぱり日本に帰るのやめようと思って、それから今度下ってバリ島に行ったんだよね。
インドネシアにズーッといて、スマトラに行ってまた戻ろうかなって思ったら、ちょうど日本赤軍がクアラルンプールでアメリカ大使館を占拠しちゃって(1975年8月)、日本人がマレーシアに入れなくなっちゃったの。マレーシアから出る航空チケットを持ってるやつ以外は、もう入れないっていう。
「「日本赤軍」仲間を奪還」No.1125_1 #中日ニュース
ミチロウ スマトラのメダンってとこからペナンに渡る船があったんだけど、乗っけてもらえなかったんだよ。それで旅行者向けの船じゃなくて、漁船みたいな貨物船みたいなのに乗っけてもらって、もう強制密入国。こっそりじゃなくて何人かの日本人と堂々と入ったんだけど、入ったとたんに逮捕されて。「ハイッ」とか言って税関に連れてかれて、ピストル持ってないかとか、赤軍じゃないかとか全部調べられて。
事情を話して、俺は帰りたいんだけどどうすりゃいいんだ、インドネシアのビザは切れてるから追い出されるし、こっちに入れてくれなかったら俺等行きようないじゃないかって。「俺はバンコックからのチケット持ってるから、東京に帰るつもりなんだから、とにかくビザくれ」って言ったら、それでやっとね、三日間のトランジットビザもらって、ペナンからそのまますぐタイに戻ったんだけどね。下手したらそこで逮捕されて、そのまま強制送還で日本に帰ってくる可能性もすごいあったんだけど、一か八かの賭けで(笑)。最悪そうなったらそうなったで、しょうがないと思ったんだけどね。
1997年8月6日 三鷹
次回、7月25日掲載予定 ミチロウが語るザ・スターリン結成
遠藤ミチロウ
1980年代、ザ・スターリンによって日本のパンクロックを牽引し、社会的センセーションを巻き起こす。第二期スターリン解散後は、ギター弾き語りを中心にエネルギッシュな活動を続け、全国をまわってその歌を届ける。2011年、生まれ故郷福島での原発事故を受けて、プロジェクトFUKUSHIMA!の結成を主導。独自の視点から福島の再生を目指す。その後も病と闘いながら、常に新たなテーマに挑み続けてきたが、2019年4月膵臓癌のため逝去。享年69歳。
地引雄一
1978年に始まる東京ロッカーズのムーブメントに、カメラマンやスタッフとしてかかわり、以後DRIVE to 80sなどのライブハウスイベントの開催、テレグラフレコードの設立など、初期のパンク、インディーズ・シーンの形成に尽力する。その時代を記録した書籍『ストリートキングダム』改訂版がK&Bパブリッシャーズより刊行されている。遠藤ミチロウとはザ・スターリン初期にライブイベントやツアーを共にし、スターリン解散以降も交流は続いた。プロジェクトFUKUSHIMA!にはカメラマンとして参加している。
STREET KINGDOM東京ロッカーズと80sインディーズシーンPV
『EATER』
90年代に地引雄一が発行していたインディーズ・マガジン。東京ロッカーズから続くパンク、ニューウェーブ、オルタナティブ系の音楽を中心に、映画や舞踏などサブカルチャー全体をインタビューを主体として扱う。遠藤ミチロウは1号と5号にインタビューを掲載。
2014年には東日本大震災以降の時代を背景に『EATER 2014』をK&Bパブリッシャーズより刊行。遠藤ミチロウのインタビューも掲載される。