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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第10話『ROCK前夜/鳥井賀句の音と思想的革命話』


取材・文◎カスヤトシアキ
※タイトル写真:80年代に自ら経営していたROCK BAR 『ブラック・プール』 にて

 

『鳥井賀句さんと新桜台のロック・バーで呑む』

 

 昨年(2023年)10月の終わりに鳥井賀句さんとお会いした。新桜台にできたばかりのロックバーを指定してきたので、(当然のことながら)どこまでもロック好きなんだなって、改めて思った。まぁ、僕としても子供の頃からの音楽好きで、なんでも聴きまくってきた人生なのだが、賀句さんみたいには、熱のこもったロック・マニアにはなれなかった。今でも特別に“これじゃなきゃ”っていうジャンルもないのだが、音楽そのものは、広く遠浅に楽しみ、生きていく中で最も必要な空気感なのだと思っている。

 賀句さんには、一番にそこら辺を聞いてみたかった。賀句さん自身、今でもリアルタイムにステージに立つミュージシャンであり、ロック評論家でもあり、音楽プロデューサーだったり、文筆家でもある変幻自在の活動の中で、アブナイ輩とジャンキー仲間のマネゴトまでしてきた破天荒な半生は、そんじょそこらの音楽評論家とは、何百倍もの面白味があると思うからだ。そして、勿論、青ちゃん(青木眞一)がやっていたバンド『SPEED』のマネージメントをやっていたという繋がりもある。

 遠い昔、そんな賀句さんを初めて意識したのは、やはり冨士夫との関わり合いによるものだった。冨士夫のマネージャーを買って出たのはいいが、左右を確認しないで大通りを渡ろうとするくらいにド素人だった僕は、当時、日本のバンドばかりを集めて一冊の本(ロッカーズ1983/日本のロッカー300バンド全カタログ/J I CC出版)の編集をしていた賀句さんにクレームをつけたのだった。

『ロッカーズ1983 日本のロッカー300バンド全カタログ』JICC出版

「俺たちを載せたのなら、掲載料をいただこう」

 と言う冨士夫の命を真正面から受けてのクレームだったのだが、それはチャンチャラ可笑しいクレームだったのだと思う。「キミは出版そのものをわかってないよね」みたいなことを言われて、パブリシティというものの説明をトントンと聞かされたのだ。その頃の僕は広告の仕事でブラックホールに深くに入り込んでおり、何でもかんでも金が取れるものだと思っていた。

 そんなわけで、クレームをつけるつもりが、逆に出版界の常識をレクチャーされ、“そうゆうことなのか“と、納得し、もともと素直で軽い性格なので、ひとつ勉強になった気分で冨士夫に報告をしたら、

「世間の常識は、俺にとっての非常識」

 みたいなヘンテコな標語を返されて唖然としたのを覚えている。

 そんな不条理な当時の出来事を思い出しながら、賀句さんがロック・バーに到着するのを待った。

新桜台の某所にある小さなロック・バー

 30分近く約束の時間が過ぎただろうか。バタバタと現れた賀句さんは、「午後から寝落ちしてしまったのだ」と明るく言い訳し、「悪いね、赤ワインにしようか」なんてカウンター越しのマスターにボトルを頼み、眠気覚ましの一杯をグイッと喉に流し込むのだった。

 “さて、いよいよだな“と僕は身構えた。賀句さんは話しだすと一気に言葉が溢れ出す。それはランダムに再生される自動動画のように、予測不能な進み方をするから、こちらの脳はせわしなく想像力を働かせなくてはならないのだ。前に、話についていけなくて、頭がこんがらがったままトイレに駆け込んで顔を洗って出直した記憶がある。今日はそうならないように気をつけようと思うのだった。

 今回のインタビューの趣旨は青ちゃん繋がりで、「SPEED」のマネージャーを(少しの間でも)やったという賀句さんに対するものなのだが、当然、その話だけを聞きたいわけではない。人は自分史を語るとき、無意識に現時点で印象に残っている場面から始めることが多いのだが、賀句さんの場合、それはピンポイントでどういうシーンなのだろうか?興味深く最初の言葉に集中した。

ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ&ロン・ウッド と共に

 鳥井賀句/プロフィール
1952年7月京都生まれ。大阪に移り、小学校から高校までを過ごす。高校から学生運動や音楽活動に明け暮れ、一浪で明治大学に入学するが、セクト間の抗争に巻き込まれ中退する。後に高円寺でロック・バー『ブラックプール』を営み、『SPEED』『THE FOOLS』を中心とする数多くのはみ出しロッカーと関わり、自らも『THE PAIN』のヴォーカリストとして活動する。子供の頃からのマニアックな音楽感性を生かすと共に、英語が堪能だったため、その特技を音楽評論や海外ミュージシャンとの交流に活かした。親友にジョニー・サンダースがいたりして、ほんとうはとってもディープな面白話が満載の人生なのに、それを出し惜しみしている節がある。それらの日の目を急かすと、「だから、いま、それを書いてるんだよ!」が口癖である。


『人生の分岐点は学生運動だった』


鳥井賀句/大学に入学した初日のことさ、新入生の歓迎会ってやつが講堂で行われていて、学長がお決まりの挨拶を始めたとき、突然に“ドバーン!”という音とともに赤ヘルの奴らが数人なだれ込んできて、K学長のネクタイを掴んで「コラー!」って締め上げているんだよね。ちょうど学費を値上げするタイミングだったんだよ。『学費値上げ交渉粉砕!』なんてプラカードを掲げて、「我々わぁー!」なんてアジテートしながら壇上を占領している。その瞬間に教授たちは散り散りに逃げ出して、俺たち新入生は、歓迎の挨拶がわりにヘルメット姿の運動家のセクト・メッセージを聞くハメになるってわけだ。俺はその頃、髪が腰くらいまであってね、既にジャックスの早川義夫や作家の澁澤龍彦(しぶさわたつひこ)にかぶれてサングラス姿だったので、少しは印象に残る風体をしていた。壇上から「何か質問がある奴はいないか!?」って赤ヘルのリーダーらしき輩が叫んだとき、「あんたたちはナンセンスなんだよ!」って我慢ができなくて返しちまったんだよな、俺。だってそうだろ!? 学費値上げ反対だとか、なんとか言っちゃって、「嫌なら(大学を)やめちまえばいいじゃねぇか! どうせ卒業の時期が来たら大人しく就職しちまうんだろ!? あんたたち、ナンセンスなんだよ!」って叫んだら新入生から拍手が沸き起こったんだ。そうしたらその後に大変なことになっちまって。式が終わったらさ、赤ヘル、白ヘル、中核、革マルって、全てのセクトが揃って俺の争奪戦になっちまったんだ。「お前、いったい何者なんだ?!」「うちに来いよ!」って、ドラフト会議並みの騒ぎになっちまったんだよ。だから言ってやったよ、「悪いけど俺はセクトには興味ないんだ」って。現に俺はセクトが大っ嫌いだった。何かと連んで動く柄じゃないんだ。そうしたら、最後に勧誘に来たのが『マップ共闘』っていう『新聞学科』だった。「俺たちもセクトが嫌いで黒ヘルなんだけど、入んないか?」って誘ってきたんだよ。俺も高校の時は黒ヘルだったから“続けるか”と思ってね、『マップ共闘/新聞学科』に入ることにしたんだ。

早川 義夫は、日本のシンガーソングライター、著述家。1960年代後半にロックバンド、ジャックスのメンバーとして活動。解散後はソロとして活動を継続している。


JACKS/からっぽの世界

 

澁澤 龍彥は、日本の小説家、フランス文学者、評論家。

 

◉『黒ヘル』はアナキスト(例/自由主義的な立場である個人主義的無政府主義)の色と呼ばれ、共産主義の『赤ヘル』などとは相反するものであった。つまり『黒』とは、色を持たないという意味である。

他に『黒ヘル』に関連した組織は▼

◉ノンセクト▶︎ノンセクト・ラジカルとも呼ばれる無党派グループ。早稲田大学反戦連合、法大全共闘など。

◉民族派右翼▶︎維新を主張する反体制派の右翼。日本学生会議など。

◉第四インターナショナル系▶︎第四インターは色を持たなかったため。日本支部から分裂したプロレタリア軍団などが黒ヘルを採用。ただし、第四インター本隊のヘルメットは赤地に鎌と槌を逆向きにしたマークをあしらったものであった。

黒ヘルグループ▶︎特定のセクトや組織に属さず離合集散を行う活動家集団であったが、1971年頃から一部が爆弾闘争を始め、杉並警察署高円寺駅前派出所などに爆発物を仕掛けた。1972年には、組織的な軍事訓練を行い、連合赤軍の青砥幹夫も参加して他組織間の接触も図られていたが、同年中に幹部らが逮捕されて事実上消滅した。

学生運動のヘルメットの由来は、60年代に起こった炭鉱労働者たちの組合決起集会に使用された『鉄帽(鉄の帽子)』によるものとされている。

 

鳥井賀句/学生運動は、俺たちの世代にとっては必然だったんだよ。俺は高校の友達をそれで亡くしている。他校の奴だったんだけれど、『ベトナム戦争』に抗議して石油を被って焼身自殺したんだ。そりゃあショックだったさ。俺たちも建国記念日に校門の前でハンガーストライキをして、学校にあった日の丸の旗の紐を切り落として、『造反有理(ぞうはんゆうり)』って文字をスプレー書きしたりした。

◉造反有理(ぞうはんゆうり)とは「造反に理が有り」の中国語、つまり謀反側や反乱者側にこそ正義があるということ。「革命無罪」と並び、中華人民共和国の文化大革命で紅衛兵が掲げたスローガンである。

鳥井賀句/その一件で、俺たちは見事に停学を食らったんだ。大阪の進学校だったんだけれど、それを聞いた親父は猛烈に怒ってね、 “勘当”されたってわけさ。昭和の親はどこも同じセリフを吐くんだろうけれど、「親にメシを食わせてもらっているくせに、お前はなんなんだぁー!」ってことになるわけ。あの頃の俺は『吉本隆明』とか『サルトル』とかの左翼系の本が、人生のバイブルみたいなもんだからさ、真面目な家族主義の直球を投げられても、違う打ち方で返せるわけよ。すると親父は、「お前がそんな理屈を捏ねられるのも、俺にメシ食わしてもらってるからじゃないか!」ってことになる。そうなるともう止まらないよね、売り言葉に買い言葉だ。「そんなに言うんだったら出てってやるよ!」って展開になって、翌日に家を飛び出した。それが高校2年の終わりだからね、我が人生・初の分岐点ってわけ。

吉本隆明(よしもと・たかあき)「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれる。詩人、文芸批評家、思想家。 『吉本ばなな』は娘である。写真は1968 (平凡社ライブラリー) 文庫。

 吉本隆明の183講演フリーアーカイブ【予告編】


◉賀句さんが家を飛び出した1969年(昭和44年)は、東大安田講堂事件があった年である。全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠し、1月18日から1月19日に大学から依頼を受けた警視庁が封鎖解除を行った。

 これに至った目的は主に2つある。1つは、1960年代後半、ベトナム戦争が激化の一途をたどっていたこと。2つめは、1970年(昭和45年)で期限の切れる『日米安全保障条約』の自動延長を阻止し、破棄する目的を持った内容であった。

 この目的に向かって、学生による『ベトナム反戦運動・第二次反安保闘争』が活発化した。それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においては、ベビーブーム世代が大量に入学する。その一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。賀句さんが入学式で遭遇するのはそれらの流れを汲む下流での出来事だったのである。

【しらべてみたら】機動隊VS学生の攻防!東大安田講堂占拠事件の真実


現在、講堂前の広場には中庭が造られ、地下には食堂が設置された。以前のように集会を開いて練り歩くことのできない場所となっている。


鳥井賀句/家を出た俺は、近所の朝日新聞店に飛び込んだんだ。そこで住み込み店員を募集していたからね。朝飯も夜飯も大家さんの家で食えるっていうんで、苦学生の振りをした。3畳一間の本当に何もない部屋。そこに机だけ置いてあって、台所もなく、共同トイレのタコ部屋だよね。飯を食う時だけ大家の家の食堂に集まるんだけれど、他は何もすることはないようなところ。そこから俺は、新たに高校に通ったんだ。すると、「お前は高校生のくせに偉いな」なんて、同じ住み込みでバイトしている先輩たちが言う。「ちょっと俺たちの部屋に遊びに来いよ」なんて話になるじゃない。ホイホイ行くと、その人たちのほとんどが阪大生(大阪大学)で、全共闘で戦っているゴリゴリの左翼だったんだ。そこでまた「マルクス読んでるか?」なんて言われて、さらに(学生運動に)かぶれていくわけだ。「今度、『10.21国際反戦デー』に行くからお前も来い」なんてことになって、新聞配達をしている苦学高校生の俺は、左翼阪大生のケツにくっついていく。そこでデモの凄まじさを知るんだよね。機動隊の容赦ない暴力がすごいわけよ。周りの同志が叩かれ、蹴られ。ボコボコになっているのを目の当たりにしてさ、ますます俺たちは決起していくんだよね。その阪大生たちが『黒ヘル』だったんだ。新聞店で住み込みバイトをしている『黒ヘル』の活動家たち。数年後、大学に入った時に『新聞学科の黒ヘル』に加入するのも必然だったのかも知れないな。

国際反戦デーとは、日本の記念日の1つ。1966年に始まり、毎年10月21日。「国際」と呼ばれるが日本だけの記念日である

 

◉さて、賀句さんの話がいきなり大学入学時の学生運動から始まったので、ついつい続けてしまったが、ここで軌道修正して、そもそもの本人の生い立ちから聞き直していこうと思う。

ずっと大阪で育ったんですか?

『医学博士の父親のもと京都に生まれる』


鳥井賀句/生まれは京都だよ。引っ越して、小学校から高校までを大阪で過ごした。両親の出身は東京なんだけれど、親父は京大(京都大学)の医学部を出て外科医になった人で、そこから京都暮らしが始まったんだと思う。だけど、医者じゃ食えなかったのか何なのか、そこら辺はわかんないんだけれど、大手の生命保険会社に入社してドンドン出世して、最終的には執行役員になったような人だよ。まぁ、研究者だな。医学博士だったので、専門書とかを何冊も出版しているんだ。“太っている人と痩せている人のどちらの寿命が長いのか″の研究をしていて、世界医学会議でも演説するような、その研究では第一人者だったって聞いている。テレビとかも同じテーマで出ていたことがあるよ。親父の日常は世界医学会議で演説するスピーチ内容を、英語でテープに吹き込む毎日。それを俺は隣の部屋で壁越しに聞いているんだけれど、ほとんど毎日のように録音しているんで、俺にとっちゃ英語が自然に暮らしに馴染んじゃうんだよね。そんなこともあって俺には英語に対する自然体があったんだと思う。それは随分と後になって役立ったよね。

『最初に夢中になったビートルズだった』


鳥井賀句/俺がまだ小学校の高学年の時だよ、年上の従兄弟が『ビートルズ』のレコードを聴かせてくれてさ、やっぱり、あんなビート初めて聴いたもんだから電撃が走ったよ。写真も見せてくれて、おかっぱ頭っていうの!? かっこいいじゃんって思った。おかしいのはさ、「これがリンゴだよ」って最初にリンゴ・スターを教えられたから、次にジョン・レノンの名前を言われた時、レノンがレモンに聞こえてさ、メンバーみんながフルーツの名前なのか!? って思った記憶がある(笑)。『ビートルズ』のLPレコードを初めて手に入れたのは13歳の時だった。中一だよね。俺の誕生日は7月なんだけれど、お袋に頼んで『HELP!』を買ってもらったんだ。まだ小遣いが少なかったからね。それがその時の『ビートルズ』の新譜だった。それを聴きまくった12月に今度は映画が封切りになるんだよね。『HELP!』と『ヤァヤァヤァ』が抱き合わせになって、上映されたってわけ。それをやっぱりお袋と観に行ったんだ。お袋はポールが好きだった。クラシック畑だったから、ポールの作る「イエスタディ」とか「ミッシェル」みたいな曲が気に入っているようだった。驚いたのは映画を観に来ていたオーディエンスの女子たち。スクリーンに向かって泣き叫ぶんだぜ。あんなの初めて観たよ。俺もジョン・レノンにやられちまった。俺が死ぬときはさ、『ジョンの魂』を棺桶に入れてほしいと思っている。あれからずっとジョンにはゾッコンなんだよね。

映画 ザ・ビートルズ Help! 

The Beatles - Help!

映画『A Hard Day's Night』1964年The Beatles

ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 日本語吹き替え版 セリフカットシーン


『最初に読み始めた音楽誌は“ミュージックライフ”だった』


鳥井賀句/俺が最初に読み始めた音楽誌は『ミュージックライフ』だった。まだ『坂本九』とか『ザ・ピーナッツ』とかが表紙の頃。そのうちに『プレスリー』とか『ビートルズ』とかが出てきて、記事の半分は洋モノ、半分は和モノみたいになっていくんだけれど、星加ルミ子が編集長になってからは完全に海外ミュージシャンが主体の音楽誌になるんだよな。そこで『ビートルズ』が来日するんだ。

ミュージックライフ/1962年


ミュージックライフ/1965年 星加ルミ子とビートルズ


『初めてギターを弾いてみてわかった。俺は左利きなんだって』


鳥井賀句/ギターが弾きたくなったのは、マイク眞木の『バラが咲いた』を聴いてから。流行ったんだよ、当時。『ビートルズ』は弾けないからさ、せめてもの思いでフォークに走るってわけ。堅物親父がどういう風の吹き回しかしらねぇけど、ギターを買ってきてくれたんだよね。本当はエレキが欲しかったんだけれどさ、ナイロン弦のクラシック・ギターを買ってきたんだ。それでも嬉しいよね。そう思って弾こうと思ったんだけれど、ネックが太くて弾きづらいんだ。どうしても弾けない。「おかしいな?」ってよく考えてみたら、俺、左利きだったんだよね(笑)。

マイク眞木 - バラが咲いた


鳥井賀句/右利きのギターを左に持ち替えて、コードも反対に押さえて、コードストロークもアップダウンを逆さにしたカタチで学校で弾いたらさ、クラスメートのS君(造り酒屋のボンボン息子)が、「鳥井くん、左利きだったら弦を反対に張らなきゃだめだよ」って言うんだ。そうか! って、そうすれば同じポジションでコードを弾けるってことがわかったんだよね。さっきも言ったけれど、ビートルズは難しいからさ、『バラが咲いた』から入っていくんだけれど、そうなると今度はフォークに詳しい奴が寄ってきたりして、「鳥井くん、今度フォークのコンサートがあるんだけれど一緒に行かないかぃ?」なんて誘われて、行くことにした。そのコンサートは『高石友也』っていって、海外風に言ったら『ピート・シーガー』みたいな存在感の人。まだボブ・ディランが出てくる前のフォーク界っていう意味でね。『高石友也』は当時の関西フォーク界では大御所だったんだ」

花はどこへ行った 原題:Where have all the flowers gone? 作詞作曲:Pete Seeger

※ピート・シーガーの作詞作曲/代表曲であり、世界で一番有名な反戦歌である。

鳥井賀句/『高石友也』と同時期に『中川五郎』という高校生がいて、彼はレコードをバンバン買いまくって、歌詞を訳して自分で歌っていたんだ。それで、ビート・シーガーを訳して歌っている高校生がいるってことで、『高石友也』のラジオにまで出演した。そこで『受験生ブルース』を歌ったんだけれど、『高石友也』がその曲を気に入って録音して世に出したら、少しはヒットしたんだよね。だから、関西フォークの草分けは『高石友也』と『中川五郎』ってことになっている。

高石ともや 受験生ブルース

中川五郎「パリャヌイツャ」2022年8月5日 岡山LIVE


鳥井賀句/コンサートの話に戻るけど、その『高石友也』のコンサートのゲストに『岡林信康』が偶然にも現れてさ、その日が彼のお披露目の日だったんだよね。「最近知り合った若者を紹介します、岡林信康くん!」なんて『高石友也』から紹介されて、ギター一本下げた『岡林信康』がステージに上がり、オモロいけどウケないダジャレを交えながら、淡々とブラック・ギャグにかました『くそくらえ節』みたいなアンチ・ソングばかりをかますわけよ。それを聴いたら良いじゃない。俺は好きになって色々と聴きまくったよ。部落差別をテーマにした『手紙』とか、有名な『山谷ブルース』とかをね。コンサート会場で『URCレコード愛好会』みたいなのを募集していたから、早速に入会したんだ。

【OBK】岡林信康 - 手紙(歌詞)


くそくらえ節・岡林信康


鳥井賀句/会費を払うと『URCレコード愛好会』からレコードが送られてくるんだよね。最初に送ってきたのが、A面が『高田渡』でB面が『五つの赤い風船』だったのを覚えている。何回目かでやっと『岡林信康』が送られてきて、『私を断罪せよ』というアルバムだったんだ。弾き語りのフォーク調のメッセージ性が強い内容に俺はすぐにはまった。友達と『フォークソング愛好会』なるものを校内に作って、女の子なんかも入れて『PPM(ピーター・ポール&マリー』みたいに可愛くスタートしたんだ(笑)。それが段々と変貌していくんだな(笑)。というのは、『岡林信康』の2枚目はロック調になっていて、バックが『はっぴいえんど』になっていた。『それで自由になったのかい』なんて聴いちゃうと、俺もロックをやりたくなっちゃってさ、とにかく昼休みになると誰彼となく学校に持ってきたギターで、なんやカンやと騒いでいるような時代だったから、俺もその中でぐるぐると渦巻いている1人だったんだよね。

ピーター・ポール&マリー(PPM)/パフ(Puff)

1970年5月 それで自由になったのかい スタジオVer 岡林信康

鳥井賀句/そんなこんなしていると、左利き・ギターの弾き方を指南してくれたクラスメートのS君(造り酒屋のボンボン息子)が、自分のバンドに入らないかと俺を誘ってきたんだ。

“鳥井くん、バンド作るんだけれど、キミ、ヴォーカルをやってくれない?”

 なんてね。練習はS君の家(造り酒屋)の蔵を使うことができた。当時は練習スタジオなんてなかったからね。俺たちはそこから始めたんだ。俺はヴォーカルってわけ。そこからは結構いい調子で、ヤマハが主催する『ライト・ミュージック・コンテスト』ってやつの関西地区で2位にまでなったんだよね。本大会まで行ければちょっと違う人生だったのかもしれないけれど、誰かがミスしちゃってさ、結局行けなかったんだ。でも関西放送の『ヤングタウン』っていう深夜放送にテープを送ったら、演奏することになっちゃって、バニラファッジの『キープ・ミー・ハンギングオン』と、ジミー・ヘンドリックスの『紫の煙』と、ストーンズの『ジャンピング・ジャック・フラッシュ』を演ったよ。司会はまだ有名になる前の桂三枝で、えらく褒められたのを覚えている。スタジオに居た女の子が「良かったですぅ〜💓」なんて寄ってきてね、すかさずデートしたりしてさ、“コレだな!”なんて、調子づいた瞬間だったな。

Vanilla Fudge "Keep Me Hangin' On" on The Ed Sullivan Show

The Jimi Hendrix Experience - Purple Haze (Live at the Atlanta Pop Festival)

The Rolling Stones - Jumpin' Jack Flash (Official Video) [4K]


鳥井賀句/俺はラジオ・マニアでもあって、音楽番組を聴きまくっていた。関西では『9500万人のポピュラー・リクエスト』って番組があって、そこでビルボードホットチャート・ベスト20なんかを毎回かけるわけよ。それをいちいちノートに書き留めてレコード屋に行って聴かせてもらうんだ。金がないからさ、仲良くなった店員に 「『ゼム』ってバンドの『グロリア』ってやつを聴かせてくれない?」なんてね。気の良いあんちゃんは「いいよ!」なんてかけてくるんだけれど、それを気に入ったら「今度買いに来るから」ってことになるんだよね。まぁ、今でいう試聴させてくれたってわけ。『ビートルズ』『ストーンズ』『アニマルズ』はそうしなくても聴こえてくるんだけれど、俺の中ではその次にくる『マンフレッドマン』とか『ゼム』とかがカッコイイと思い始めていた。みんなが知らないマニアックなやつに徐々に惹かれていったんだ。

9500万人のポピュラーリクエスト

Them - Gloria (Original version)


◉ここまで鳥井賀句さんの話を聞くと、まるで表と裏のストーリーがあるように思える。日の当たる側には、エリートの父親と理解のある母親に挟まれて、音楽を楽しみながら英語に親しみ、友達にも恵まれ、なんの問題もなく進んでいくだろうという陽だまりの景色と、影に入ると反体制の表情に変化し、国家滅亡や武力革命とまではいかなくとも、なんらかの形で社会に対して問題提起をしようとしている若者が映るのだ。

 でも、そのどちらも鳥井賀句なのである。そう、表と裏の時間が実際には同時に起こっていた出来事なのだから、現実は計り知れない。さて、音楽と学生運動にはまり込みながら新聞配達で生計を立て、大学受験をする賀句さんなのだが、志望する大学は叶わず、一浪して明治大学(フランス文学専攻)に入ることになるのだ。そこから最初の入学式のくだりになる。

 時は1973年、入学式から1年が経過し、賀句さんは大学2年生になっていた。明治大学では『48年度学費改訂反対闘争』が1月に終結し、ベトナム戦争では、アメリカ軍の最後の兵士が南ベトナムから撤退していた(戦争そのものは1975年に終結)。落とし所を見失った学生運動家たちは、徐々に各派閥の内ゲバへと変貌し、闘争は仲間同士に向けられていく。

“革命”を目指す若者たち!ニッポンの過激派の今【田中哲郎の“カゲキな解説”】(2020年8月18日)


鳥井賀句/大学をやめたのは内ゲバに巻き込まれたから。前にも言ったように俺はノンセクトで『新聞学科の黒ヘル(マップ共闘)』だったんだけれど、他のセクトとの内ゲバに巻き込まれたんだよね。それでつくづく嫌になったんだ。革命だって息巻いても、共産国を見ると上の奴らだけが良い暮らしをしているだけのように映る。社会体制が変わっても、脱階級社会だの、平等な社会だのと拳を振り上げても、根本は変わらないんじゃないか!?ってね。だったら、政治運動でなく、ROCKのジョン・レノンが歌っている『愛』とか『反戦』とかのムーブメントの方がいいんじゃねぇか!って思ったんだ。あの頃のROCKにはそんな響きがあった。大学をスポイルしても余りある価値観があると思ったんだよね。

LOVE - John Lennon (lyrics) 和訳 ジョンレノン



◉「それで、その後に高円寺で『ブラック・プール』をやって、そこに『SPEED』の連中も来て、マネージメントをやるんですよね?」

 と僕は訊いた。地球をぐるっと回ってきたような気分のままで。

鳥井賀句/そうそう、そうなんだよ! やっとそこまで来たね。今日はその話をしに来たんじゃねぇか。じゃあ、始めようか!

 と言いながら、

「その前にマスター、赤ワインのボトルをもう一本!」

 と、明るく笑うのであった。

格差社会 By HALLUCIONZ


(第10話ROCK前夜/鳥井賀句の音と思想的革命話』終わり▶︎第11話に続く/11話はROCK話満載!ジョニー・サンダース、山口富士夫/他が登場します!

●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール
1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。

  ◉鳥井賀句LIVE INFORMATION◉

★2月16(金) 『地下室のメロディ』

@CLUB DOCTOR 荻窪

前売り2500円・当日3000円+ドリンク

18時半開場/19時開演

●出演

✡️弦詞人ユニット

✡️武田康男+竜二(蜘蛛蜥蜴)+斎藤篤生

✡️HALLUCIONZ (鳥井賀句)

✡️THE COCKSUCKER BLUES BAND(from the VODKA)

●DJ鳥井賀句

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★2月23日(金・祝)『寺本幸司presents/

2024 NIPPON フォーク&ロック バンドNight』

@久米川スナフキン

チケット3000円+2drink

17時開場/18時開演

●出演

✡️鳥井賀句&YOZI

✡️TETSU-KAZU

✡️蓮沼ラビィ

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★3月24日(日)『SONG SPIRITS vol60』

@高円寺ムーンストンプ

1500円+drink

18時半開場/18時45分開演

●出演

✡️鳥井賀句&YOZI

✡️FUJIYO

✡️ZUCCO /その他

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★4月19(金)『地下室のメロディ』

@CLUB DOCTOR 荻窪

前売り2500円/当日3000円+drink

18時半開場/19時開演

●出演

✡️THE VODKA

✡️HALLUCIONZ (鳥井賀句)

DISAGREE/他

DJ鳥井賀句

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◉藻の月/LIVE INFORMATION◉


2/9(金)東高円寺U.F.O.club

【Ride On Baby】

⚫︎藻の月

⚫︎Orgasm Kingdom

⚫︎ Hurricane SALLY & REWARD

⚫︎竹花英就

OPEN 18:30/START 19:00

ADV.¥2500/DOOR.¥3000(+D代¥500)

……………………………………………………

3/2(土)新宿UNDER GROUND

Azzitto1224【Ride On Baby】

【Soul to Soul Vol.3】

⚫︎藻の月

⚫︎Yuzo Band

⚫︎THE BLOODY KNIFE

⚫︎THE SHOTGUN GROOVE

 


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