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人間のアイデンティティは全身に刻まれたタトゥーのようなもの。一部の模様を見て人を判断するな!

人のアイデンティティというものは、
どこで定まると思いますか?

または、あなたは人のどこを見て、その人がどんな人かを判断しますか?

国籍でしょうか。
民族でしょうか。
地域でしょうか。
文化でしょうか。
言語でしょうか。
肌の色でしょうか。
所属する組織でしょうか。

僕の答えは、全てです。

え、それ卑怯じゃね?

と思ったそこのあなたは無視して進めていきます。

僕が思うアイデンティティとは、その人の人生を描いた歴史書、絵巻物であり、刻まれた年輪であり、「プリズンブレイク」の主人公、マイケル・スコフィールドの全身に刻まれたタトゥーです。

最後のがよくわからなかったという方は、挙手願います。

はい、そこの最後列の眼鏡の男性の方。

「ちょっと何言ってるかわかんないです」

「興奮してきたな」

はい。
みなさん、プリズンブレイクはご存知ですかね。
アメリカの連続ドラマで、イケメン坊主のマイケルが、
無実の罪で収監された兄・リンカーンを救うべく、
自らもその身を刑務所に置き、共に脱獄を試みるという物語です。

このプリズンブレイクが僕は大好きです。

一流の建築士でもあるマイケルは、
兄のいる刑務所に入る際に、
凝視すれば刑務所の設計図が浮かび上がってくるという仕掛けのタトゥーを、
自らの全身に刻み込みます。

そのタトゥーを基に、脱獄計画を進めていくわけですが、
残念ながら今回の論旨とマイケルのタトゥーは、
直接的には何の関係もありません。

アイデンティティの話でしたね。

サカナクションの曲に「アイデンティティ」というものがあり、
この曲では
「アイデンティティが無い」
ということが歌われていますが、

僕の考えでは、アイデンティティとは総体、人物の全体図であり、
何か1つの要素がその全体を形成しているわけではないので、

アイデンティティは「無い」で当然なのです。

総体としての「私」の名前は言い表せても、
その総体がどんなものかを、一言で言い表すことはできませんよね。

言語化しようと努めれば、
この職業に就いていて、この国の人で、肌の色はこの色で、この言語を話し、恋愛対象は異性で、
こんな家庭環境で育ちまして、、、
あとはえーっと、、、。

このように、自分の成分表示を延々と羅列することになります。

アイデンティティなんてものを一言で言い表すことなんてできるわけがないのです。

もし仮に、俺のアイデンティティはこれだ!
と断言できてしまうとどうなるか。

それは、恋愛において、
「俺を外見だけで判断してほしい」
などと宣言してからスタートするようなものです。

この面だけ見てね、とアピールするような人はいないでしょう。

自分にはこんな所があって、こんな良さがあって、場合によっては、こんな弱さ、ダメなところもあるから、
補完し合えるような人を探しています、
なんてことを言ってアピールするのが常でしょう。

ここでやっとタトゥーの話に繋がります。

なにか1つ、あるいは2、3個だけの特徴をもってその人のアイデンティティ、として判断してしまうことは、

マイケルの肩口に刻まれたタトゥーであったり、
背中に刻まれたそれだけを見て、
その人を判断するようなものです。

その人の全身タトゥーの一部分だけを見て、
その人がどんな人かを判断するのは、
とても楽です。

ただでさえ人間関係は億劫なものです。

楽をしたいのはわかります。

しかし、この「楽」は後々ツケとして回ってきます。

なぜなら、その人の一部分だけを見て判断する、ということをする時に、
ついて回るのが、「期待」であり、
それは必ずや裏切られるものであるからです。

以前芦田愛菜ちゃんが、
「期待していたのに裏切られた、とよく言うけれど、それはその人の今まで見えていなかった部分が見えただけ」
というようなことを言っていました。

まさにその通りです。

人の一部分を見て判断するということは、
自分が思う「その人像」を作り出すということでもあります。
そしてその像は、一面的であります。
もちろん人間はもっと多面的です。

自分が作り上げたその人像には、
一定の勝手な期待が生まれます。

この人はこういうふうに振る舞うはずだ、という
とても勝手な期待が。

人間は本当は多面的なのに、
一部しか見ていないとどうなるか。

違う面が見えると、「裏切られた」と感じるのです。

これが何回か続くと、人間不信になるか、
人間関係においてうまくいかないことがあると攻撃的になったりするでしょう。

ただでさえ億劫なものである人間関係は更に億劫なものになります。

ではどうすればいいのか。
簡単です。

期待しなければ裏切られない。

しかしそれは諦めや人への不信によるものではなく、
人に勝手な期待を押し付けるのではなく、

ちょっと面倒だけれど、色んな角度からその人を知る努力をすることです。

そうすると、勝手に楽して期待をするということはなくなり、

その人を深く知れば知るほど、
その人がわからなくなる、ということになるでしょう。

楽をして理解と思考を止めて、
「この人はこういう人だからこういう時はこのような行動をするだろう」と
勝手に見立てをすると、

その人のことを知った気に、わかった気になります。

それはわかったのではなくて、
思考をそこでストップさせただけです。

本来、人は知れば知るほど色んな面が見えてきて、余計にわからなくなるものです。

この境地に至るとどうなるか。

結局その人について理解はできないんだったら意味ないじゃん、というそこのあなた。

意味はめちゃくちゃ在りますよ。

深く知ることにより、
わからないことが増え、
それにより、
「わかり合えないという事実をわかり合う」ことが可能になります。

これはとても大事なことです。

例えば、キリスト教とイスラム教の教えが違う、となったとき。

それぞれの正義をふりかざし、
どちらも自分は正義で相手は悪と思っている状況があったとします。

この時に、100人いれば100人の正義があり、
10の宗教があれば10の正義がある、と理解していると、

お互いを理解し合うのではなく、
お互いを理解し合うことは不可能だ、というその事実の存在を、
お互いに理解し合うことができるのです。

この積み重ねが、夫婦喧嘩から戦争までをなくしていくものになりうると僕は思います。

わかってよ。わかってよ。
なんでわかってくれないだ。

これでは、結局平行線で、争いが起こるのは当たり前です。

知りたい。知ろう。知ろう。わかりたい。
でも、100%わかり合うなんてことは無理だね。
そうだね、じゃあどうしよっか。

このように考えて、全体として、うまくいくようにしていく。

大事なことなのでもう一度言います。

わかり合えないということをわかり合う。

ファーストステップとしては、万国共通の正義の概念なんて無いと理解することです。
次に、千差万別の他者の正義を一つずつ理解し合うことなど不可能だと知ること。

そして、そのわかり合えないということの「ツラさ」「儚さ」を共有すること。
お互いの正義は共有できなくとも、その気持ちは共通して持てるということに気づく。

そのことによって、「わかり合えないをわかり合う」状態が完成します。

タトゥーの話から正義の話までぶっ飛びましたが、僕が言いたいことは理解してもらえたでしょうか。

矛盾しているようですが、その人のことを理解したいと思うなら、
その人のことを理解できると思って接してはいけません。

理解できないとわかった上で、それでも理解できたら良いなあ、というスタンスで、その人と接するのです。

その為には、その人の全身タトゥーを隈なく見ること。
そして、デリケートゾーンのタトゥーは無理に見ようとせず、
わからないものはわからないと諦めて、
お互いに同様の箇所はあると認め合う。

それこそが、痴話喧嘩から戦争までをなくしていく、1つのヒントなのではないでしょうか。


小野トロ

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