知能と知性の違い
知能と知性。
皆さんの中にはその認識の明確な違いがあるでしょうか。
きっと皆さんなりの定義があることでしょう。
僕の中には明確な基準があるわけではありません。
イメージだけがなんとなく頭の中に浮かんでいるだけです。
今回の記事ではそのイメージたちをとりあえずざっと羅列して。そこから整理していきたいと思います。
それではいきましょう。まずは「知能」に対する僕のイメージから。
「知能」
・獲得できるもの
・ギラギラしている
・強欲
・意図的、恣意的なもの
・数値化、可視化が可能なもの
・学歴やIQ
・人間性とはあまり関連が無い
・ひろゆき
次に「知性」についてのイメージ。
「知性」
・宿るもの
・穏やか
・無欲
・意図して獲得できるものではない
・数値化、可視化は不可能
・学歴は関係無い
・人間性に深く関連している
・山中教授や養老先生
これが僕の抱く「知能」と「知性」それぞれへのイメージです。
ひろゆきファンがいたらごめんなさい(笑)
なにも僕は「知能は知性の下位互換だ」などとは思っていません。
けれど僕個人としては知能よりも知性が大切であり、それを感じさせる人はとても少ないと思っています。
知能は勉強すれば手に入ります。
後は生まれながらの頭の回転の速さやワーキングメモリの多さでしょうか。
いっぽうで知性は思考体験や行動体験、色んな他者との交わりを得て形成されていきます。
主格や能動ではなく与格、受動的に身に付くものです。
つまりは「私は知性がある」などと自覚している人にはそれは宿らないでしょう。
そしてもう1つキーワードだと思うのが、「進化」と「成長」です。
進化や成長という言葉から僕は知性を感じません。
新しい挑戦や自分がワクワクすることを探究している人。
それも「探究しよう!」などと思うことなく、日々の営みの中に気づけばそれを見出している。
そんな人から湧いてくる、そんな人に降ってくる、滲み出してくるのが知性ではないでしょうか。
「常に進化していく」「自己成長のために」なんて言っている人には僕は知性は宿らないと思います。
「そうやって誰かを否定する言葉を吐くような人にも知性は宿らないと思います」
と言われるかもしれませんが。
僕は自分が知性的だとも、そうありたいとも思いません。
それは所詮自分で決められる範疇にあるものでは無いので。
ただ1つ言いたいことは、現代社会と括るのも嫌ですが、
知性より知能に偏る、「知能偏重」の傾向が現代には見られると僕は感じています。
感情や感想、自分の見解は撥ね付けられ、
証拠や根拠、データなど客観的なモノを求められ、
矛盾は許さない。
つまりは言論に「あそび」が無い。
ヤフコメやTwitterも揚げ足取りや論破合戦ばかり。
国会も互いに与党と野党で如何に相手を打ち負かすか、相手のあらを探すか、逆に自分のそれを覆い隠すかしか考えられていないような気がします。
政治に無関心になるのも当然です。
矛盾はそんなにいけませんか?
今日の朝と夜で考えが変わっていることなんてザラにあるんじゃないですか?
大学時代の青い理想を今も抱いていますか?
ぜひ自分の人生、これまでの意見の振れ幅を振り返ってみてください。
きっと驚くほど矛盾に満ちていると思います。
それで良いんです。
感情や意見なんて矛盾していいんです。
システムの運営上あってはならない矛盾は正せばいい。
陳列棚の値札には100円と書かれていたのにレジに行ったら150円ですと言われたらそれは正せばいい。
ただし自分の意見や感情、言論への一貫性なんてものは僕は必要無いと思います。
SNS全盛の現代。
誰もが皆を監視し合う「1億総監視社会」の中、人々は気づかぬ間にストレスを溜め込み続けていますよね。
いつでも誰かに見張られているようで、それでいて深い繋がりは無い。
人と人の間には薄い膜が張られていて相互に干渉することは極めて少ないけれど、常に不特定多数の誰かの目に晒されている。
そんな社会では表立って自分の矛盾した、常に変化していく内面をさらけ出すことは難しいというか不可能に近いでしょう。
その結果「客観的とされる」事実やエビデンス、可視化できる数字やデータを重んじることになるのでしょう。
これが知能偏重の傾向に繋がっていると思います。
誰かに自分を晒す「適度な不安」「心地よい不安」といったものが「こらえきれない不安」となって私達を襲っている。
その結果「知能偏重」になり知性は廃れていく。
そして私たちは自他ともに「許せない」「認められない」人に成り果てていく。
少々悲観的過ぎるでしょうか。
繋がりたいと求めた結果目の前の人との間に隔たりを生んでしまった私たち。
今更テクノロジーやSNSを生活から除外することは不可能かもしれませんが、知能よりも知性を大切にし、他者を許し認め、そのことで自分を許し認めることができる「心の遊び」を作るためには、
まだ私たちに出来る事は残っているのではないでしょうか。
まずは自分の隣に、近くにいる人から、互いに距離を測り合いながら繋がりを取り戻していく。
そんな地道な営みの積み重ねしか、私たちにできることは無いのかもしれません。
小野トロ