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ルール化、法制化しても考えることを辞めるな!

今回は
「ルールとして一度決まっても、その議題について考えることを辞めてはいけない」
というお話です。

ライトなものから話すと、
学校の校則で
「長髪はいけない!」
と決まったからといって、
「学校に長髪はふさわしいか否か」という議論について考えることを辞めてはいけないということです。

ヘビーなもので言えば、
たとえば「死刑廃止」や「安楽死法の成立」。
これらが可決され、法制化されたとしても、
そこで議論を終えてはダメなのです。

法律になった=この議論は終わり

としてしまうとどうなるか。

法制化、ルール化がゴールになってしまいますね。

そうなるとどうなるか。
少し乱暴な言い方になってしまいますが、
社会の発展はそこでストップしてしまうのではないでしょうか?

思い出してみてください。
高校で習った日本史や世界史の記憶を紐解いてください。

人類の歴史の中で、様々な悪法があったはずです。

代表的なもので言えば、日本の生類憐れみの令や治安維持法。

世界で言えばインディアン強制移住法や禁酒法、アボリジニ保護政策やニュルンベルク法などが挙がるでしょうか。

僕の少ない知識量で挙げただけなので、もっとたくさんあると思います。

これらの悪法は、様々な時代のうねりや抵抗者、革命者たちの手によって変えられてきました。

もちろんもっと世俗的な、損得勘定による市民感情によって運動が生まれて、
改正あるいは撤廃されたということもあるでしょう。

どちらにせよ、法律になった時点で議論が終わりならば、
人類の歴史はとうの昔に終わっていたかもしれません。

つまり、今後更に良いルール、良い法律を作り、
無理かもしれませんが完全なる公正や平等というものを求めていくのならば、

この法制化、法改正で果たして正しいのかどうか、という問いは捨ててはいけないのです。

僕たちは何気なく日常を生きながら、
yahooニュースの通知やテレビなどで
「〇〇法改正案可決」などのニュースを目にしています。

「へえ、そうなんだ」と流すことが多いと思います。

「国会議員やお偉い専門家や当事者団体などが話し合ってそうなったんだろうから、きっと可決で間違いないんだろう」

そう思うかもしれませんし、実際それが正しいのかもしれません。

当事者にならないとわからないこともあります。

しかし、先程あげた諸悪法も、
リアルタイムではどれほどの人の衆目に晒されたうえで法制化が成されたかはわかりません。

つまり、長い時間を経て現代の僕達が見れば
「こんな法律おかしいよ」
となるものの、
当時の感覚としてはどうだったのか。

もしかしたら、当時の人たちも
「へえ、そんな法律ができたのね」
と当事者以外は我関せずであったかもしれません。

と言うことは、現代においても、日々決まっていく法律の中に、
しれっと悪法が紛れ込んでいても、
何年か後に
「なんでこんな悪法が平気な顔して議会を通ったんだ!」となる可能性も大いにあるでしょう。

だからこそ、当事者ではなくとも、
「法制化したらそこでゴール」ではなく
「上でそう決まったんだからそういうことなんでしょ」ではなく

本当にそうなのか?

と考えるべきなのです。

今現在、平気で通過した法案が、
何年か後の未来に悪法になっている可能性もあるのだから。

今度から、yahooニュースで「〇〇改正案、可決」みたいな通知が来たら、
すぐにスワイプせずに、

「〇〇法 改正 議論」などと検索してみてはいかがでしょうか。

「へえ、こんな議論があるのか」
「当事者の人たちはこんな思いをしてたのか」
「これは賛否が別れそうな議題だな」

と感じるところがあるかもしれません。

そうした1つ1つの些細な行動が、
子どもに対して
「なんであかんの?」
「あかんもんはあかん!ルールやから!」
と言わない親、大人、社会を作っていくと思います。

子どもの「なんで?」に対して「ルールだから」と逃げずに理屈と自分の意見を交えて、教える。押し付けるよりも子どもと議論ができる親、大人が増える。

そんな社会、世界であればなあと切に願います。


小野トロ

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