孝行ではなく大切なのは孝慈
「親孝行」
よく聞く言葉ですね。
それでは「孝慈」という言葉はご存知でしょうか。
あまり馴染みのない言葉だと思います。
この孝慈の説明をする前に、まずは孝行の説明から。
孝行という言葉は、主に「親孝行」として親にするものとされますね。
生み育ててくれた親に感謝して恩返しをしなさい。
私たち日本人にとっては当たり前に感じるこの考え方は、
儒教の教えから来ています。
「子は親を敬え。年少者は年長者を尊重しろ」という儒教の教えは、朝鮮半島や日本の文化に大きく影響を与えています。
この教えに沿った、子どもから親への敬いの証として「孝行」があります。
しかし、元来の儒教の教えは、現在の私たちが思うような縦の関係ではなく、親子間の調和のとれた関係を提唱していました。
それが「孝慈」です。
「孝」と「慈」を分けて説明しましょう。
「孝」は子が親に尽くすこと。
そして「慈」は親が子をいつくしむ(慈しむ)こと。
つまりは子どもが充分に愛されて育った場合に、成長してから親に尽くすということです。
その一方で、私たちが現在使っている親孝行という言葉は、
「育ってもらったんだから親孝行しなくちゃね」
といったように無条件でするべき行いのような響きがあります。
もちろん子を育てるということは精神的にも経済的にも大変なことですので、「育ててもらった」それだけでも「慈」に値する、充分に愛されている証だと言うこともできるでしょう。
しかし、自分の自己実現を勝手に子どもに押し付けて、自分のおもちゃのように扱いながらも平気で「育ててやったんだから感謝しなさい」と言えてしまう親もいることを考えると、
簡単に「生み育てただけで『慈』に値する」とは言えないと思います。
元来の儒教の考え方は親の充分の慈愛があってこその孝行であったのに、
いつから現代の私たちの理解のような「子は見返りを求めることなく親に恩を返すべき」といったものになってしまったのでしょうか。
もちろん打算的な「充分に愛されたから返す」という考えも少し違うと思います。
親子の相互の調和的関係、つまりは「孝慈」は、互いの「無償の愛」「無条件の愛」があってこそ成立するのではないでしょうか。
与えたから返してもらえるという、ギブアンドテイクの打算的な現象が、
無償の愛という非打算的な行いによってもたらせるというパラドキシカルな関係がここには見られます。
これは非常に面白いですね。
「親孝行はしなきゃ」
と自動的に思うのではなく、一度「それに値することをしてもらってきただろうか」と振り返って考えることがあってもいいんじゃないでしょうか。
何の衒いもなく「親孝行したい」と思える親子関係であれば良いのですが、
そんな関係ばかりではないのも僕は知っています。
育った環境や文化の影響で何の疑問も持たずに親孝行をすると、
今度は自分の子どもにも半ば強制的に同じ行いを強いるなんてこともありえるのではないでしょうか。
この親孝行という考え方は、虐待やDV、ネグレクトなどの親から子への行為を子どもが直接通報する、助けを求めるということが少ないということにも繋がっているような気がしてなりません。
ひどいことをされているのは確かだけれど、育ててもらってるのだから、と。
正確なデータや調査結果があるわけでは無いので僕の個人的な推測の域を出ませんが、
少なくとも「無条件に親孝行をするべき」という考えには疑問をもつべきということは、強く訴えたいと思います。
小野トロ
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