「ただの会話」に感動した

気づかぬ間に疲れていたんだなあ、というお話です。

今日、駅のホームで電車を待っていると、中国人?台湾人?とにかく中国語話者の方に話しかけられました。

どの電車に乗ればいいかわからなかったようなので教えました。

カタコトの日本語を話されていたので、そのまま日本語で返したのですが、
その会話の後になぜだかわからず感極まって、というよりふいにホッコリして泣いてしまいそうになりました。

カタコトで日本語を話す外国の方は、敬語ではないことが多いような気がします。
まだ日本語を覚えたてなので、敬語を使えない、知らないということがあるのだと思います。

そういった方は、聞き取りにおいても敬語で日本人に話しかけられると理解できないこともあるだろうと思い、
僕も自然と敬語抜きで話していました。

「そうそう、次にそこの2番ホームから出るのに乗れば着くよ」

といったような感じで受け答えをしていたのです。

さて、なぜ僕はホッコリして泣きそうになってしまったのか。

それは「単なる会話」「ナチュラルな会話」というものをしばらくしてこなかったからだと気づきました。

職場の人や生徒、保護者、家族、恋人など。

職場の人や生徒、保護者などは、もちろん仕事の場での会話なので、そこには「評価」が伴います。

なので相手にどう思われているかということは意識せざるを得ません。

いくら生徒との間では「できるだけフラットに、相手に寄り添いながら」と心がけていても、それはあくまで「心がけて」いるわけで、意識してやっているのでいわば「演技」です。

そして家族や恋人だとしても、そこには相手のリアクションがあり、感情を読み取り、どう感じているかを考えたりして、時には煩わしかったりします。
その煩わしさがあるが故に相互理解が得られたときは嬉しかったりするわけですが。

今回のケースの場合、僕は
「見知らぬ土地で電車の乗り換えを教えてくれた親切な現地人」
という演技すらしていなかった。

「あの人困っていそうだな、こっちから声をかけてあげようかな」という逡巡も無かったし、
相手の声掛けも「すいません、教えてくれませんか」というかしこまった声掛けではなかった。

そのことが大きく影響していたような気がします。

ポイントはタメ口と唐突さ。
そしてそれらから来る演技の喪失。

こうして僕はホッコリして、ホロッとしてしまいそうになったのでした。

涙ぽろり、とはいきませんでしたが、なんだかウルッと来てしまいました。

相手と上手く会話のラリーをしないといけない。
間を大切にしないといけない。
言葉遣いに気をつけないといけない。
相手にどう思われるか考えないといけない。
評価を気にしないといけない。

こうしたことからたまには解放されないと、
きっと人は、というよりも僕はしんどいんだなあと、改めて気付かされました。

と共に、瞬発的にそのような会話を持つことができた自分も、まだまだ捨てたもんじゃないな、と思いました。

あそこでかしこまって敬語のわからない外国の方に敬語で答えているようなら、
こんな感動には出会えなかったわけですから。

そして名も知らぬあの人にも。
大切なことを思い出させてくれてありがとう。

小野トロ

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