松尾芭蕉も敦賀を旅しました。敦賀滞在についての芭蕉の文・現代語訳
2024年3月16日、北陸新幹線の金沢~敦賀間が開業します。
敦賀を訪問する方も増えそうです。
今から330年あまり前の元禄2年(1689)8月(旧暦)に、芭蕉も敦賀を訪れていました。『おくのほそ道』の旅の終盤で、金沢・小松・福井などを経て敦賀に8月14日到着。ここに数日滞在しました。
以下に紹介するのは、俳人・東恕(とうじょ)が残しておいた芭蕉の文です。「デジタル版日本人名大辞典+Plus」(講談社)によると、東恕は敦賀の人で、支考(芭蕉の弟子)に俳諧を教わったのだそうです。以下、訳します。
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八月十四日、敦賀という港町に宿泊して、気比神宮に夜、お参りをした。昔、遊行二世の上人(ゆぎょうにせいのしょうにん・時宗の開祖、一遍上人(遊行上人)のあとを継いだ僧)が、泥だらけの参道を埋めてなおそうとして、みずから砂を運ばれた。それ以来、砂持(すなもち)の神事といって、代々の遊行上人が砂を運ぶ行事が今に伝えられているということだ。
社殿の付近は神々しく、松の木の間を月の光が漏れさしていて、信心がどんどん骨にまで及んでいくようだ。
〈月清し遊行のもてる砂の上〉つききよしゆぎょうのもてるすなのうえ
(代々の遊行上人が運ばれた砂の上に、清らかな月の光がさしている)
翌十五日は雨が降ったので、次のように詠んだ。
〈名月や北国日和定めなき〉めいげつやほっこくびよりさだめなき
(今夜は中秋の名月だが、雨で見ることができない。北陸の天気というのは変わりやすいものだ)
同じ夜、宿の主人から次のような話を聞いた。この敦賀の海に釣鐘が沈んでいて、国守が漁師を潜らせて捜させなさったが、龍頭(りゅうず・鐘の頂にある、鐘をつるすための出っ張った部分。龍の頭のかたちをしている)を下に、さかさまに落ちこんでいるので、引き上げる手がかりもない。
こんな話を聞いて、次の句を作った。
〈月いづく鐘はしづめる海の底〉つきいずくかねはしずめるうみのそこ
(空の月は雨雲のせいでどこにあるのかがわからない。一方鐘は沈んで海の底、これも見ることができない)
色の浜に舟を浮かべた。
〈小萩ちれますほの小貝小盃〉こはぎちれますほのこがいこさかずき
(浜の小萩よ、散ってくれ。赤い小貝や、小盃の上にも)
その浜辺にある寺に遊んで詠んだ。
〈淋しさや須磨にかちたる浜の秋〉さびしさやすまにかちたるはまのあき
(色の浜の、秋の淋しさ。『源氏物語』以来その淋しさが言われている須磨の浜にも、ここは優っている)
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『おくのほそ道』の敦賀の記述と比べると、表現が違っていたり、『おくのほそ道』には載っていない話や句がこちらにあったり、『おくのほそ道』の方が説明が丁寧な部分があったりして、興味深いです。
『おくのほそ道』北陸・敦賀の旅については、よろしければ下の現代語訳をお読みください。
敦賀市立博物館では2024年3月15日から4月21日まで「敦賀の名品」展が開催されます(休館日があります。ご注意ください)。芭蕉が使用していたと伝わる竹杖も展示されるようです。私は一度見たことがありますが、写真で見ていたより立派なものでした。
敦賀市立博物館のサイトはこちら
(本文は「敦賀にて」『松尾芭蕉集2(新編日本古典文学全集71)』小学館1997を使用しました)
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