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「ない」ことに価値がある

 司書さんが薦める『失われたドーナツの穴を求めて』が教務室前の廊下に展示されていたが、この本を4年ほど前に取り寄せてもらい読んだことがある。ドーナツの穴は、ドーナツがあるからこそ存在できる。穴だけを手に入れることはできない。同じように、表だけのトランプを求めることも不可能だ。つまり、これこそ非二元論の話なのだが、表があれば裏もある。正しいことがあれば、間違いもある。善があれば、悪もある。でも、それらはきっちり分けられるものではなく、常に一如。
 この1年間、とりわけ近々の2カ月は窮地に立たされ、善悪の狭間で迷走。しかし、この夏期休業中に、真理探究者向けに書かれた本『風紋哀詩』を仲間に薦められ、挑戦する。この中で、倉石清志氏は“有があるからこそ無がある”と語る。この本を読んでいる途中から、自分の中に存在する悪と対峙していることに気づく。絶対悪も絶対善も存在しない。悪は必ずしも否定されるものではない。そもそも一如だから、切り離すことはできない。そこには善も存在している。それを見過ごしてはならない。一面だけを見つめるのではなく、反対からのまなざしも忘れてはならない。
 そういう観点でいえば、ドーナツの穴には意味がある。穴というモノとして単独では存在し得ないけど、価値がある。人間には口という場所はあるけど、単体のモノではない。一見無意味に見えるものでも、価値がある。見えないからといって、決してないわけではない。見えないものを見ようとする(感じる)力はこれからの時代では欠かせない。見えないからこそいい。すべて見ようとしなくていい。兎角、ないものねだりで、あることで安堵感を得るために、何でも欲しがってしまいがちであるが、手に入れたいときには、手放すことや、ないことに目を向けることも必要ではないか。
 宮大工は神社仏閣の建築や補修に関わる職業だが、最古の法隆寺が現存していることを当時の宮大工は知る由もない。自分の仕事がうまくいったか、つまり、百年後も美しい姿を保てているかは知ることはできない。芸術家はおそらく、自分の作品にどんな価値があるかどうか他者の評価・判断を仰ぐよりも、いかに自己を表現できたかどうかを大切にしているに違いない。
 『舞台のかすみが晴れるころ』著者の、能楽師である有松遼一さんは「舞台は、それまでの稽古の徒花のようなもの」と、ベテランの先生に言われた。教員である私にとって授業は舞台のようなものであるが、決して満足のいく形で終えることはまずない。そもそもどうあれば授業は成功と呼べるのか。教員は日々探究し、それを代々繋げていくことの方が価値であって、いまやっていること自体が何年後に結実するかは分からない。だから、どんな形であろうとも、私が媒介となり、1人に想いを届ける授業を目指し、そして本質を見出すために、ココロのトビラを開き、愉しく探究を続ける。
 
맘을 열어라 머릴 비워라 불을 지펴라
   心を開いて 頭を空っぽにして 火をつけろ
정답은 묻지 말고 그대로 받아들여 느낌대로 가
  正解なんて聞かず そのまま受け止めて 感じるままに                                   
                (BIGBANG『FANTASTIC BABY』)


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【Q60】人生の転換点はどこですか。
【A】まずは27歳ですかね。ミスが許されない重要な業務を任せようとしてくれた、教頭先生の一言がきっかけで、成長できました。個人的に頼まれたことは断らないようにしています。信頼しているからこそ、お願いされたのですから。運命的なタイミングを逃さないようにしてくださいね。
 そして、何といっても6年前です。人と出会い、本と出合いました。苦手だった文章を書くことも楽しくなりました。怒涛の如く流れている気がします。人生、いつ何が起こるか分かりません。人生の転換点は、もうすでにあなたの中に準備されています。思い出すタイミングこそ、まさに転換点です。
 
【Q61】どうして昔の人は数学を追求したのですか。
【A】生活に欠かせなかったからでしょう。ようするに、生きるのに絶対必要だったのです。たとえば、植物の種蒔きをいつやればよいか、どう判断しますか。適当ではダメですよね。月の満ち欠け、天候、栽培の効率性、など。今のような道具もなく考えてきた昔の人は凄いと思います。
 
【Q62】価値観の違いとは何ですか。
【A】まず、“価値観”とは、何に価値を見出すかという感じ方です。美しい、正しい、心地よい、というような価値判断の基準です。大学のとき、「哲学」という講義でレポート「美について」を書きました。形容表現というのに、基準なんてありません。所詮、比較論だと思っていました。人間誰しも個性が異なるのと同じように、価値観が違うのは当たり前です。違っていいのです。価値観が違うからといって否定されるものではありません。同じ人間なんていないし、自分の好きな人だけがいる世界なんて存在しませんから、個々の違いを受け入れる心を持てたら素敵だと思っています。
 
【Q63】私は何かを制限されているときよりも、ある程度自由なときの方が真価を発揮します。それでも親は私を制限したがります。どのように親を説得すればよいと思いますか。
【A】悩みを打ち明けてくださってありがとう。いつも思うことですが、迷ったり、悩んだりしている人が、内なるものを“言葉”として外へ表現し、誰かに問えるときというのは、大半答えが見えているのです。数学でもそうだと思っています。もうすでに答え(納得解というか、進みたい方向らしきもの)はあなたの中にあって、何となく気づいて、進みかけている気がします。
 さて、私は高校生のとき束縛されるのが嫌でした。(今も?)苦手な科目については何も言及されませんでした。多分、何とかするだろうと思われていたのでしょう。当時は、課題もなかったので、自由に勉強できたのは良かったですね。全部個々に任されていました。私が言うのも何ですが、課題なんて本当はいらないと思います。勉強は自分がやりたければやればいいと思っています。そして、目指すものが見つかったら、得手不得手なんて関係なく、とことん全力です。死に物狂いです。それが「覚悟」ではないでしょうか。
 親もあなたがどうしたら頑張れるか迷っているかもしれません。もし、親に勉強も部活も頑張ることを分かってほしいなら、その意思を素直に伝えてみたらどうですか。覚悟を見せたらどうでしょうか。いつの日か、あなたの熱意は伝わり、受け入れてもらえると思います。

2022.8.26

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