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身体感覚に対して精神感覚と名付けたものについての感覚の記録(本屋と書店のちがい、部屋にあるもの、泳ぐこと)

僕の部屋にはとてもシンプルなものしか置かれていない。

大きな物入れの棚が一つある。いろんな生活に必要なものと本が詰め込まれた棚。眼鏡が入っているのも給与明細が入っているのもここだ。小さな引き出しが4つと大きな引き出しが2つある。
テレビ台にはダビングしたブルーレイディスクが数十枚と気に入って買ったCDが同じく数十枚。大きなテレビが一台上に置かれている。後ろにはニンテンドースイッチが置かれていて、プロコンもその横に(今は役目を少し休んで)置かれている。モバイルスピーカーもある。
その横にはレコードプレイヤーと一枚気に入ったレコードがディスプレイできるレコード棚がある。中には十数枚レコードが入っている。
大きなこたつ机が部屋の真ん中にあって、その上には雑誌の山とパソコンが常に置かれている。処理しなきゃいけないレシート(家計簿をつけている)と、気になる展示のインフォメーションカードがばらばらと散らばっていて、そこで晩ごはんも食べる。読みかけの本はだいたい机の上に置いてある。そういう癖なのだ。机の前ではヨギボーのプレミアムクッションに座っている。
夏は扇風機を出して、冬は加湿器を出す。エアコンしか冷暖房はなくて、照明は備え付けのもので今はまかなっている。(いずれ気に入ったシーリングライトを買おうと思って2年経とうとしている)

普段僕が過ごしている部屋はたったこれだけのものしか置かれていない。ただし、重要な情報が一つ抜けている。「本を除けば」というのがそれだ。

最近、毎週必ず一度はプールで泳いでいる。この僕が「泳ぎたくて」泳ぎに行っているのだ。運動というものとおよそ無縁に生きてきたが、泳ぐことだけは3歳のときからずっと続けている。
何か複雑なことが起きてどうしようもなくいろんなものが混乱すると、必ず泳ぎに行く。身体にもいいし、誰にも邪魔されずに考えることから逃れながら新しく思考を整理することができる。とても気に入っている自分の趣味の一つだ。少しずつ、毎週泳げる距離が増えて水の中にいるときの身体感覚が甦ってくるのが、最近はとても心地よい。

同じく、最近毎週一度は本屋か書店に足を運ぶ。
本屋とは個人が経営していて選ばれた本が並ぶ小さな本棚のような店のことで、書店とは法人が経営していて供給された本が置かれている大きな箱のような店のことを言っている。そういう分類で僕は呼び分けている。

双方を決まった間隔で訪れるようになると、出会いの多様性に驚かされる。本屋でしか出会うことができず、そこで買うべきだと思わせる本があり、書店でしか見つけることができず、そこで買っておけばあとで苦労しないだろうと思わせる本がある。

不思議な感覚なのだが、僕はときどき本を買いに行くと「迷子になっている」と不安になるときがある。精神的迷子。
この世界にあって、僕は巨大な「知ることのできる総体」の中を漂っていて、そこで自分のやりたいことややるべきことを伴って「知ることができるもの」をなんとか掴もうともがいているような感覚に陥るのだ。

プールには、コースロープがついている。
市民プールであればだいたい大学の講義室くらいの広さになるだろうと思う。更衣室とつながっていて、ガラスを隔てて監視員室や受付が見える。サブプールがある場合もサウナ室がある場合もジャグジーがついている場合もあるけれど、その広さや規模はだいたい決まっている。安心感、というべきだろうか。

たとえるなら、本を売っている場所というのはコースロープのないプールに似ている。
ちなみに、コースラインもプールには必ず引かれているけれど、本の売り場にはコースラインもない。「大学の講義室くらいだろう」という広さの感覚もわからない。サブプールやジャグジーがついているかもわからない。
何もわからないくらい広いけれど、そこが大量の水が入った深さのわからない巨大な容器(水のないプールを表す一般的な正しい表現がわからないからこう書いているらしい)であり、どうやら泳いだり漂ったりできるプールのようなものになっているということだけはかろうじてわかるのだ。そこで僕はどこに向かって泳げばいいのかもわからず、どれくらい泳げばいいのか見当をつけることもできず、でもただ泳ぎたいと思ってひたすら泳いでいるのだ。

書店や本屋に行く感覚は、プールのなかで迷子になって(絶望的だ)とりあえずプールからあがろうと思って泳いだり漂ったりするのに、たまにどこにも行けなくなって恐怖するような感じに近い気がする。プールのなかで迷子になったことがないので、気がするだけだ。

僕は泳ぐときの身体感覚を知っている。普通の人とは泳いできた距離が圧倒的に違う。(この前ざっと計算してみたが、たぶん10000kmくらい泳いできているはずだ)
書店や本屋にいるときに、泳いでいるような感じがして、泳いでいるような身体感覚が僕に重なる。タフで、思考の整理に向いていて、かなりソリッドな感覚だ。でも、プールの大きさと形がわからなさすぎて、水の量が圧倒的すぎて、その身体感覚で泳ごうとすると、あるときとてつもなく怖くなる。迷子になる。やるせなくなる。
だから、新しく感覚を養うべきだと思って考えてみた。それが精神感覚なんだろうと思う。そう思っていなかったけど今書きながら「それが精神感覚なんだろうと思う」と出てきたからそうなんだろうと思う。支離滅裂。

精神感覚を養うのはとても骨の折れる作業だと思う。それをついさっき目の当たりにした。
僕の部屋にはとてもシンプルなものしか置かれていない。(二度目)だが、複雑怪奇なほどこの部屋は入り組んでいて、この部屋でも迷子になっていることがある。というかついさっきなった。「わからねえ~」と気づいたら声に出ていた。
わからなさすぎて煙草を持って外に出て、隣の駐車場で棒立ちになって夜空を見上げたら雲の向こうがぼんやり明るかった。スーパームーンだ。
外に出てぼんやりすると思考はとりあえずすっきりする。思考整理は外を歩きながらするのが僕の常だ。煙草の吸殻を捨てるためにコンビニに寄って同じ道をたどらないようにぐるっと回ってゆっくり歩いて帰ってくると、不思議と頭の中で奇妙に絡まっていた思考がほぐれている。
なんでだろうと思っていたけれど、それはたぶん、シンプルなものしか置かれていないのに複雑怪奇なほど入り組んだ僕の部屋から物理的に「出て」「離れる」からだと今わかった。

シンプルなものしか置かれていないのに複雑怪奇なほど入り組んでいる?
僕の部屋には物は少ないけれど、本が多すぎる。今も無数の本の山が床に発生している。まだ読まれていない本、また読もうと思って本棚から取り出した本、本棚に入りきらずとりあえず置かれている本、実家から読もうと思って持ってきた本、逆に実家に置くべきだから持っておこうと思っている本……。種類は様々だが、もう取り返しがつかないところに向かいつつあるのがわかるくらい、最近本の山が床にでき始めている。精神感覚的に見て、あまりいい状態とは言えないような気がしてきている。
ちなみに床に物を置くのが僕はあまり好きではない。本を除いて、ということになるが。

僕はだいたいスピーカーから音楽を流している。今は滞空時間というバンドの"Majo"というアルバムを流している。「架空の島の民謡」がコンセプトらしい。とても気に入った。
たまにレコードをかける時もそのスピーカーにつないでいる。たぶんちゃんとしたスピーカーを買ったほうがいいんだろうけど、別に聴ければいいやと思って特に気にしていない。針が飛ぶ音もちゃんと入る。
毎週決まった時間にラジオもそのスピーカーから流れてくる。FMヨコハマの"Travelin' light"という土曜の朝11時から畠山美由紀さんがやっている番組と"Shonan by the sea"という秀島史香さんが日曜の朝6時からやっている番組がメインで、それ以外にも気が向いたときやテレビがうるさいときはラジオをつける。「村上RADIO」ももちろん聴いている。

テレビはNetflixもAmazon Prime Videoも観れる。今は『ジャンゴ 繋がれざる者』が途中で停められている。マイリストには膨大な作品が観られることを待っており、今後追加される作品はアプリでチェックしてClip!してある。
さっきはNHKでショートドラマも観ていた。『逃走の道』というドラマで、わりあい面白く観れた。何かから逃げている二人組の男が列車に迷い込むのだが、乗っているのは全員人形でどこに向かっているのかわからない、という話の筋だった。
ときどきこのテレビでゲームもやる。最近めっきりやっていないが、新作で面白そうなマイナーゲームをチェックしたり、ビッグタイトルが発表されると予約して買ったりもする。

もう、いっぱいいっぱいなのだ。
部屋はキッチンとつながっていて、最近は作りたいものが増えたのでよく料理をしている。試してみたいおかずがいくつもある。ちゃぶ台の上には読みかけの本が散乱している。文庫本もハードカバーも読みたい本で溢れている。処理しなければならないレシートがこちらを見ている。ちゃぶ台の下にはリモコンとスマホが転がっている。リモコンのボタンは押されるのを待っている。スマホにはいろんな新しいコンテンツの通知がたまっている。
スマホ……ショッピングサイトにはそれぞれに長大なウィッシュリストが38個くらいあり、マップには行きたい場所が200ほど保存されており、ツイッターのいいねには気にあるコンテンツと美しい言葉たちと他人の人生の断片が8000くらい無造作にファイリングされている。

精神感覚を養うには、たぶんこのようなシンプルなものしか置かれていないのに複雑怪奇に入り組んでいるように見える部屋で過ごすだけでよい。

それはきっと、めいいっぱい時間をかけて生活と仕事とコンテンツのバランスを取り、やりたいことを取捨選択し、それでも全く追いつかない自分をもう一度見直し、自分よりもうまく世界と世間に触れ、好きに生きている人を目の当たりにして絶望し、たまに外を散歩して煙草を吸うことなんだと思っている。でもこれも正しいかどうかわからなくて頭を抱えている。だから、いったい僕はどうしたいのか、と迷子になってしまうのかもしれない。

僕は部屋の中で簡単に迷子になることができる。時間、というものの有限性を肌で感じることができる。
それこそが僕を僕のように形作っていく道しるべなのだと思う反面、迷子になる自分とは別の精神感覚でこの世界をうまく泳いでいて、洗練された自己のようなものを感じさせる人たちを見て何もわからなくなったりもする。
皆、どうやってうまく泳いでいるんだろう?いつものとおり、僕がちょっとまともじゃないからわからないのかもしれないけれど。

別に迷子になっても絶望したりしないけれど、時間がほしいと思って何もかもやめたくなったりもする。だって、こんなにいろんなものに囲まれて触れたり触れられたりしているのに、「僕は本当に何にも知らないなあ」と思うことのほうが断然多いのだ。本当にちょっとどうかしているかもしれない。「何もかも放り出してじっとしていたい期」とそれを名付けて「成長段階としては不適当だ」とわけのわからないことをつぶやいたりしている。本当にまともじゃないんじゃないか?

でもそれは、プールに行けば解決できるから、最近は泳ぎたがっているのかもしれない。プールは25mで、ちゃんとコースロープがある。そこがいい。

水の中に入ると、よく前世の記憶について考える。

特に話のオチもない。僕は別に何かに困っているわけでもない。何か思い至って気づいた形のいい結論もない。考えたことの記録です。


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