[理系による「文学」考察] 森鷗外"興津弥五右衛門の遺書"(1912) ➡遺書自体を文学にする試みに成功した小説
小説の評価軸はいくつかあると思いますが、自身が森鷗外にいつも驚嘆するのはその発想力です。
"興津弥五右衛門の遺書"は、"遺書"そのものを小説というプラットフォーム上での表現媒体にしよう、という発想に度肝を抜かれました。
内容は、余計な説明はほぼなく、ピュアに"興津弥五右衛門さんの遺書"として読めるように書かれています。かつ、遺書、なのに小説として楽しめる・非常に興味深く読めるようになっています。そんな文学、世界にないのでは…
現代でもこんなに興味深く読めるのに、乃木希典の殉死直後の時代の人々は、もっと興味深く読めたのではないでしょうか。
ちょっと悔しいのは、この小説の良さを海外の方にうまく説明できないことです。文体も含め、日本というバックボーンがないとうまく読めない…。森鴎外の作品の趣旨自体は分かりやすいので、海外で評価を受けやすいと思うんですけどね…。
個人的に、森鴎外の発想力は、驚愕もありますが、実は嫉妬に近い感情をいつも感じます。それはおそらくエンジニアとして発想力が求められるケースが多々あったことが背景にあると思われます。