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点後の運動

ブラームスop90の第1楽章を指揮するのには「コツ」がいる。いやどんな作品でもそうなもだが。しかし、この曲の場合は、とくにそれを感じるのだ。

それにはまずこの冒頭の運動とその動かし方の見通しが必要だ。

2小節目で思いきり吊り上げられたところから第1主題が放たれる。3小節目にはそのような堰を切った推進力から始まる。だが、演奏者はその発音に酔っている暇はない。その1拍目を放出するときには、既に4小節目のアウフタクトを呼び起こすつもりで運動しなければならないからだ。2小節目で吊り上げられ、3小節目で放出されたエネルギーは5小節目までに減衰しつつも、ような次のアウフタクトを呼び起こすような運動を続けていく。

いわゆる点後の運動の幅の大きさが必要なのだ。点前の運動にばかり目が行ってしまうと、アウフタクトを起こすことができないからだ。つまり、ひとつの小節の範囲という狭い視野では判断が到底追いつかないのだ。

小節を超えた連続性が掴めていないと、音響に翻弄される。そうすると、よくあるような重たいブラームスで終わる。だが、それでは、この楽譜に書かれているこの主題のスマートさや器用さ、明晰さはまったく生かせない。この冒頭に人生の諦観だの、枯れた味わいだのしか見えないのはいかにもイメージに洗脳された、音楽産業の「カモネギ」状態でしかない。楽譜が読めず、あるいはこの難しいリズム感に乗り切れない自分をごまかすための言い訳だともいえるだろう。それは英語や古典ができない受験生が面白おかしい「一見便利な」だけの講座に群がるのと似たような、浅ましさを感じる。

ここまでの運動を指揮していると、大きな手洗に入れた水に浮かべたアヒルのおもちゃを、そこから落とさないように揺らすようゲームをやっている感じがする。アヒルに直接触れないでもどかしさを感じつつ、その手洗をゆすってコントロールしていく感覚だ。

さて、ここで意外に難しいのは減衰の先にある6小節めである。

6小節目から先は最初の勢いの残りの波動を増幅させていかねばならないからだ。そこから揺らしの幅をコントロールすることで、その増幅を狙うことになる。この時のコツは、6小節に入った瞬間、7小節目のアウフタクトをなるべく小さく起こすことだ。6小節自体の動かし方をいかに小さく抑えるかによって自然なコントロールが可能となる。この冒頭を演奏するときの、自分にとっての「コツ」である。

この6拍子の音楽を符点4分音符の2つ振りでカウントしていると、この小節のアウフタクトを「起こす」という感覚が生じない。それは動かしたいおもちゃに直接触れてしまう、子供のミニカー遊びのレベルでしかない。指揮者が小節を2つで、あるいは2つの小節を4つで振るのはあくまでも便宜的な問題である。実質的には小節の3拍子を捉えていないと、この楽譜を音楽として再現することはできないだろう。たえずアウフタクトを起こすために、運動が行われていくのだ。それを明確に叩いてしまうのは3/4拍子の呼吸に堕ちることと同じことだ。

逆に、このそれぞれのアウフタクトを起こすような運動性を自覚していると、この楽譜のテンポ感が、慣習的な重い3拍子二つの呼吸とは異なるものであることが自覚できるだろう。なぜ、allgero con brioなのか、実感できる。

この曲の指揮をすることは、とくに6小節目に入る角度を狙うたびに、永久運動機関の考察とどこかで繋がる。いろいろやっていると、ふとそのことを実感するのだ。

指揮にしろ、演奏にしろ、その場での発音しか見られない「点の視界」しかない人には、「音楽」をコントロールすることはできない。音楽をコントロールできないから、音楽で指示を示すこともできない。そういう指導者が、微分的な、重箱のすみをつつくような不毛で長いだけの練習しかできないのだと思う。自分の練習内容をよく観察してみると、自分のどういう欠点や盲点に気づくチャンスにもなるだろう。

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