水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員…

水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員やっています。高校では吹奏楽部の指導もしています。週休3日の嘱託人生に入りましたがあい変わらず通勤時間の暇つぶしに演奏側の立場として、音楽演奏に関する気がついたことや仮説を書いたりして参ります。

最近の記事

見えないsfzとvivaceたる理由

ベートーヴェンop125の第2楽章molto vivaceの冒頭の楽譜を見ていると、休符は「休み」というよりも、ある種の吸引力を持っているように見える。例えば1小節めは2小節めの引力に対抗するように屹立していなければならない。高くジャンプして逃げようとしても、まるで休符小節に強力なゴムで固定されているように、地面に叩きつけられる。まさにmolto vivaceの運動そのものがここに見られる。 音は発しないこの小節は、しかし、強烈なステップを要求している「見えないsfz」を

    • 繰り返しは差別化の意識を伴うべき

      ベートーヴェンop125の第3楽章の終盤で2度のファンファーレの咆哮がある。 付点四分音符の4拍子や、ましてや8分音符の三角3拍子4つ数えているようでは、この2つファンファーレの間にある立体、呼吸は掴めない。その道のりが全く分からない。まさに単なる音並べてでしかなくなる。上部の音響とイメージでしか作品を捉えられないと,こういうインターバルの全容は全く掴めない。さらに言えば、なぜ2度目があり、その両者の差別化は図れない。 1度目のファンファーレの最後の解放の瞬間から小節の4拍

      • 叩くのではなく空間を用意する

        音を並べる。それと音楽演奏は違う。例えばこのベートーヴェンop125第3楽章におけるファンファーレ風のフレーズだ。楽譜に書いてある音価音高を正確に並べたところで、それだけではそれらを束ねるものがない。音楽と音響の違いはここにある。音だけではそれを律するものがない。つまり、それは単独に存在する現象でしかない。その単独の音響に魂やら意味を込めたり、探したりしようとするから話は面倒なことになる。そういう2次創作が演奏の目的ではない。むしろ、そういう行為は邪道なのだ。楽譜から作品を掘

        • そのメロディを統べるリズムを見つける

          ベートーヴェンop125第3楽章の冒頭は、伝統的な8分音符の足し算では音楽にはならない。その8分音符単位の数え方では、開始の8分音符の脈動がただの音にしかならない。 冒頭の8分音符の新鮮さは、まさにこの1点に向けての切り取り方にあるように聞こえる。だが、この8分音符の基盤にあるリズムが見えてくると、さらにこの8分音符の研ぎ澄まされ、際立った位置が見えてくる。 音楽は単なる音ではない。その音楽の基盤にある基本のビートの上にそれはある。つまり、音たちを統べるものがそこには有る

        見えないsfzとvivaceたる理由

          そこで終わるか、次に繋げるか

          ベートーヴェンop125の第3楽章の結尾は、例えば同じくop68のような、深く安定した帰着はしない。というよりもその先に帰着を求めるような終わり方をする。 これは楽譜を見れば明らかだ。だが、伝統的な演奏スタイルはそこを読み替えている。全てが収まったような安心感に満たされる。これは明らかに楽譜にあるような半端さとは違う。まさに読み替え、改変に近い。作品の全体像が見えなかったからなのかもしれない。楽譜の結び方では感覚的に満たされないからだ。 だが、この交響曲の全体の構成から考

          そこで終わるか、次に繋げるか

          自分自身の視界を広げる

          小節のなかを16個の16分音符で分割する。あるいは4つの6連符で分割する。 ベートーヴェンop125の第3楽章に取り組んでいるとき、そういう分割の視野が必要だ。 このような楽譜を見るとき、音符で数えていたら楽譜は読めない。小節のなかを、あるいはひとつの音符を、どのように分割するのか。そのように読まないと、演奏は音響に振り回される。自分のテンポで演奏できなくなってしまうのだ。 この第3楽章のAdagioの主題は2つの2分音符が小節のなかを分割している。この柱が先ずあって、

          自分自身の視界を広げる

          勝手に「意味を持たせる」前に

          D759を演奏するその瞬間、どこを見ているだろう。あるいはブラームスop98のときはどうだろう。 音を鳴らす、響かせるに目的がある人と、音楽をしようとする人とでは見ている場所が違うのだ。D759の序奏のフレーズが帰着する6小節めから8小節目が見えいていて、そこまでがひとつの言葉として見えいていない演奏では音が鳴っているに過ぎない演奏になる。どんなに心を込めていようとそれは音楽に出はなく音に対してだ。 そのゴールが見えていてなければ、小節の3拍子が分母となって大きな3拍子が見

          勝手に「意味を持たせる」前に

          「飛ぶ矢は動かない」では音楽にはならない

          ブラームスop98の第4楽章はallegroの音楽であり、その基盤にあるシャコンヌテーマは2つの小節を分母とする大きな4拍子の骨組みを形成している。7、8小節めに帰着するこの4拍子の運動は。その分母を2つで執る4拍子の指揮図形の中に括れるものだ。 だが、そのような視界が開けていないと、単なる音響の羅列に終わる。和音進行が辛うじてその脈絡を繋いでいるが、演奏者の視界がこのシャコンヌテーマのどこまで及んでいるのかによっては4小節ごとにきれてしまう。 小節の中の3つの4分音符を

          「飛ぶ矢は動かない」では音楽にはならない

          変化の過程

          ブラームスop98第4楽章の3/2の箇所は楽譜上ではこれまでの3/4の時と4分音符の速さは変わらない。いつも言っているが、このallegroのシャコンヌテーマは2つの小節を分母にした大きな4拍子である。3/2になってもその分母は変わらない。その点を見落としてはならない。ただ、その分母の割り方が2から3になる点が根本的な変化である。 だが、ベートーヴェンop125の第3楽章のAdagioとAndanteのような対比ではない。そのリズム感の変化に乗るだけでいい。ここでおもむろに

          根本の変化に対応できないから平板で退屈な演奏になる

          ベートーヴェンop125第3楽章で3/4Andante moderatoに踏み込むギアチェンジ感はブラームスop98第4楽章で3/2に踏み込む瞬間のそれと似た面白さがある。指揮をしていて楽しい、と言うかある種の快感がある。 ブラームスの場合、それまで2つの小節の4拍子が、その4分音符の速さを変えずに、2分音符の3拍子に切り替わる。いわゆる2拍3連のリズム感になる。 この振り方で2/3に入ったときの。その打点に対する4分音符の反応に、摩擦抵抗のような感覚を受けるのだ。 ちな

          根本の変化に対応できないから平板で退屈な演奏になる

          実はメロディの実体さえ掴めていないのではないだろうか

          ベートーヴェンop125の第3楽章の開始は、確かに4/4拍子で書かれている。けれど、これをその通りに4分音符の音楽ととってはならない。そうやってしまうから、この楽章が見えなくなってしまうのだ。 この主題は、よく見れば分かるように、2分音符の音楽である。四分音符や、ましてや8分音符の数合わせで鳴らしたところで、この音楽の形は掴めない。いつも言っているけれど、ただ鳴らすことと音楽をすることは違うのだ。形が見えないから、響きに頼ってしまう。響きに頼るから音楽からかけ離れてしまう。

          実はメロディの実体さえ掴めていないのではないだろうか

          「長くて重い」は把握の失敗。先ず自分の感覚を疑うべき

          K.504の序奏の開始はブラームスop15と同じ構造ではできている。すなわち 、これらは2つの小節を分母とする構造であり、その1小節目は0小節目の反動で起きるシンコペーションアクセントをを伴う硬い発音である。 さて、その小節の使われ方が分かると、この開始は ①01②23③45|①67… という大きな3拍子の骨格でできていることが見えて来る。 そして、16小節目から27小節目の流れも同じ分母による大きな6拍子の弧のなかに収める事ができる。 いや、そもそも、形として理解

          「長くて重い」は把握の失敗。先ず自分の感覚を疑うべき

          書かれていない小節を読み取る

          別に想像力を発揮して空想的にエピソードを読み取る、なんてロマンティックな話題ではない。 例えば「反語」と同じだ。形式的な問題から、当然あるべきものを読み取る力の必要性についての話だ。 ブラームスop68 に見られるようなフェルマータ終止は、必ずしもベートーヴェンop67のそれとは同じではない。拍節的な位置関係に注意しないと以前の自分のように勘違いしてしまうだろう。 結論から言えば、ベートーヴェンop67の場合は文字通りフェルマータ自体が終止記号である。2つの小節を分母とする

          書かれていない小節を読み取る

          読めていないからテンポを遅くしがちになる

          ブラームスop68を第1楽章を読んでいると、幾何的なパズルのような組み合わせの面白さを見ている気がする時がある。カレイドスコープ的な面白さがここにはある。逆に言えば描写音楽的な作品を聴くのに慣れている人には分かりにくいとも言えるだろうけれど。ただ演奏者側としては、その難解な読み解きを明解にやってのける面白さがこの作品にはある。 さて、その面白さの一端は序奏と主部の関係にも見られる。序奏は4拍子の骨格と3拍子の骨格の折り合わせでできていたが、主部もその両者の見事に連携から始ま

          読めていないからテンポを遅くしがちになる

          6連符という遺伝子

          ベートーヴェンop125が全編にわたって6連符が関わる音楽であったように、このブラームスop68もまた6連符がなにかしらの遺伝子であるかのように、曲のいたるところにそれが仕組まれている。それがベートーヴェンへのリスペクトから来ているのかはどうでもいい。そういう蘊蓄は曲の理解になんの役にも立たない。だが、この執着的な6連符リズムの登場は、この作品の特徴となっている。そして、それを象徴的なものにしているのが冒頭なのだ。 この問題に気がついたのは第1楽章allegro における伴

          6連符という遺伝子

          雰囲気ではなく形ある意味語る

          ブラームスop68の冒頭からの怒涛のような流れが9小節に帰着する。そのインパクトによって新しい楽想が立ち上がる。 このシンコペーションの音楽は、4つの小節を分母とした大きな3拍子を背骨として動く。これは、冒頭から、小節の4拍子、そして3拍子、さらに3連符の3拍子という圧縮の過程を受け継いだ展開だ。 この展開をみても、この6/8 un poco sostenuto のテンポ感は決して遅くはない。むしろ遅すぎるテンポでは、このシンコペーションのリズムは全く無意味になる。 よ

          雰囲気ではなく形ある意味語る