ヨルシカの幻燈について考えたこと
ヨルシカ『幻燈』楽曲の、主に歌詞についての考察です。
『ブレーメン』『チノカテ』『月に吠える』『451』『靴の花火』『左右盲』『アルジャーノン』は個別に記事を書いたので、それ以外の曲がメインです。
『月と猫のダンス』に行っていないので、ライブ内容を踏まえた考察ではありません。
都落ち
都落ちMVは3分84秒(=4分24秒)で、
あと1秒長ければ385(みやこ)です。
385(都)から落ちて384になったのかなと。
サムネでの表記は3分85秒(みやこ)で、 動画を開くと3分84秒(みやこ落ち)になります。
『忠度の都落ち』内の歌『さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな』(都は荒れても山桜は昔と変わらない)を踏まえている気がします。
朝敵(朝廷の敵)になったから、赤ら引く頬(赤ら引くは「朝」にかかる)の貴方と別れる。
花咲くような貴方の美しさは、山桜のように変わらないのかなと。
n-bunaさんの解説に「貴方の頭を都として、そこから自身がいなくなること。忘れられていくこと」とありますが、
歌詞には「僕は貴方の思い出にただの記憶に」とあります。
忠度の歌が、都落ちしても詠み人知らずという形で残ったように、
忘れられたようでも、何かは貴方の中に残るのかなと。
咲うという言葉があるので、
「花咲くや 赤ら引く頬に」を 頬に咲く→頬咲う→ほほ笑む→微笑む と取ると「一人微笑むだけ」に繋がります。
都落ち「飛ぶ鳥は~明日から」が飛鳥なら、飛鳥は奈良なので、
左様なら=左様奈良
都落ち=奈良から去る と取れます。
モチーフの万葉集には飛鳥時代から奈良時代の歌が収録されていますし、
奈良にはシカがいるのも、ヨルシカに掛かります。
「都離れて舟進む」の前の咳払いは、尾崎放哉の「咳をしても一人」を連想しました。都落ちして一人きりになるという。
嘘月などでも尾崎放哉をオマージュしていますし。
「あから引く頬」は、最初のひらがな「あ」から引くと思えます。
一番最初の事を「頭」とも言うので、頭から引く。
「貴方の頭を都として」いるので、あから引く=都落ちする なのかなと。
落ち=結末 で、
都落ち=頭オチ=出落ち と取れます。
出落ちだから、すぐに忘れられてしまうのかなと。
貴方の人生の最初(頭)に僕は登場し、すぐに退場する、ただの記憶になると。
都=宮子 で、
都落ち=子宮落ち 流産の比喩と取れます。
「赤ら引く頬」=赤子の頬
「夜は海」=夜は産み で、夜に消えていった産子かなと。
関係性が育つ前に僕は貴方から亡くなる、貴方から忘れられていく気がしました。
「洛」という字に都という意味があるので、
「都落ち」という単語には、都が2つあります。
都と都の間に草冠(艹)があると思うと、夏草が邪魔をしてるとも取れます。
「水際一人微笑むだけ」と歌詞にあり、 都から渚へ落ちたのかなと。
おおざと(阝=邑)つまり人の住む場所から、
水(氵)の澄む場所へ流れた者(渚)、という。
「貴方の頭を都として」いるので、瞳から涙が落ちて『都落ち』になると取れます。
水際=潤んだ瞳 で、涙が落ちて、都から落ちたと。
都落ちのMVで頭に花が咲いてるので、
花緑青を涙に例えたように、花の雨滴を涙に見立てていそうです。
涙を流すと、気持ちが晴れて新しくなり、その出来事は過去になってしまう気がします。
貴方が泣くことで、貴方の頭にいた僕は過去の思い出になった、都落ちしたのかなと。
「恋ふらく」(こうらく)は、黄落に掛かっている気がします。
恋に赤く染まった頬から、黄色になって落ちる、という。
都落ちは、万葉集の歌をモチーフにしています。
万葉集に「我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし」という歌があって、
この恋心は刈り取っても生えてくる夏草のようだ、という意味らしいです。
『夏草が邪魔をする』は、恋が(成仏の)邪魔をするって意味もあるのかなと思いました。
451の「飽きるまで愛して」は、
「あ」切るまで愛して
=「あ」から引く頬
=貴方の頭から忘れられていく(都落ち) で、忘れてしまうまで愛してって事かなとか。
赤ら引く頬=引火して燃える頬 という。
「頬」という漢字は、かお(頁)を両側からはさむ(夾)の意です。
本のページも頁と書くので、
赤ら引く頬→本の頁が赤くなる→本が赤く燃える(451) と連想できます。
都落ち=人を辞め動物になった とも取れます。
都落ちの次の曲はブレーメンで、説明に「動物達は都を夢見て」とあるので。
人里離れて飛ぶ鳥(海猫)になると。
「海猫が鳴いたね 貴方も泣くんだね」を、猫になった貴方の涙が集まり海になった とすると、
第十夜の泣き続ける猫に繋がります。
都落ち1番の「海猫」は鳥で、2番の「海猫」は海辺の猫な気がします。
「貴方は水際一人手を振る」=貴方は水際ひとりで尾を振る
都落ち=みやこ落ち=みゃー子落ち=猫落ち
で、猫に生まれ変わったようにも思いました。
「水は流れて時もまた」は、
水花枯れて時もまた でもある気がします。
水や花が枯れるように、時も枯れると。
都落ちの「一人微笑むだけ」=一人頬へムダ毛 とも取れます。
あから引く頬≒カミソリで剃った頬 で、
「僕」は、ムダ毛が処理されるように都(貴方の頭)から落ちていった、忘れられていったのかなと。
「水に落ち流れやがて憂き」「都離れて舟進む」は、洗面台でムダ毛が流されてるとも取れる気がします。
排水口で渦巻き状に吸い込まれる水は、鳴門の渦潮を連想しますし。
都落ちが「貴方の頭から自身がいなくなること」なのは、
チノカテ「心は頭にあった~今じゃ文字の中」を連想します。
都落ちMVでは頭に花が咲いてるので、花が散って葉(言葉=文字)になってしまったのかなと。
春泥棒のラスト「ただ葉が残るだけ」に繋がる気がしました。
貴方の心(=頭)から忘れられていく、と取ると、左右盲「心を亡れるほどの幸福」に繋がります。
都落ち「心なし乾いたら」=心を亡れたら
「左様なら」と手を振る貴方を忘れてしまうから、「右も左もわからぬ」かなと。
都落ち「あから引く頬」は、春泥棒「何か頬に付く」嘘月「ただ染まった頬」と同じく、花に染まった頬と思えます。
都落ちMVでは頭ごと花に染まっていますし。
言葉(文字)=思い出(記録) とすると、
ただの記憶(都落ち)=ただ葉が残るだけ(春泥棒) と取れます。
ただの記憶は、頭に残らず記録の中の文字になったのかなと。
この本を捨てよう(チノカテ)は、花が散った後に残った言葉(思い出)を捨てたと。
ヨルシカでの「思い出」は記録、「想い出」は記憶の事な気がしました。
雪国
山口青邨の句集『雪国』の「牡丹散り白磁を割りしごとしづか」も意識している気がします。
春泥棒MV4分26秒で、山口青邨の白牡丹の句が並ぶページが映ります。
「春の思い出がただ蔓延っている」は、春泥棒に繋がるのかなと。
「花韮」「月に被さって」は、山口青邨の「韮の花ひとかたまりや月の下」という句を連想しました。
雪国は音に余白が多く、音が雪景(余白)に残った足跡(思い出)みたいだと感じました。
雪のヨは彗のヨらしいので、雪で音が掃除されて静かになったとか。
「国境」は雨が雪になる境界線、氷点(零度)でもあるのかなと。
水分子の動きが減って(静止して)雨が雪に、
液の氵(水分子)が「静」になって「夜の静けさ」になるとか。
「静」は争いが青くなる、動きが減る(清らかに澄む)と取れますし。
液体が冷えると固体になり、固という字のなかに古があります。
「雪景の古い街並み」は固まった思い出、
雪に古い思い出が閉じ込められていて、冷えた関係のなか過去を振り返っているように思いました。
雪には六花という異称があります(結晶が六角形である事から)。
花韮の花びらも六枚で色も白いので、
「花韮の花の静けさ」=六花の静けさ つまり雪の静けさと思えます。
花韮(ハナニラ)は、バニラにも掛かっているのかなと。
バニラアイスの冷たさと白さは雪に似ています。
花韮の花言葉「悲しい別れ」は、雪国の説明「冷えた関係」に繋がります。
バニラの花言葉は永久不滅、冷えた関係であっても「貴方との春の思い出」は不滅なのかなと思いました。
雪国の説明文の「冷えた関係」は、もう亡くなった、体が冷たくなった相手との関係でもあるのかなと。
国境=天国との境 トンネル=飛ん寝る で、
永眠し天へ飛んで雪国(逝き国)に行ったとか。
雪が溶ける=雪国(あの世)から抜け出す=春に生まれ変わる で、
冬眠のような「夜の静けさ」の中、生まれ変わり(来世)を待つのかなと。
「僕らの憂い」=憂一乗
「愛が解ける」=藍二乗(藍の錠)が解ける とすると、
藍二乗はi^2で半円、憂一乗はUの形で半円、合わせて複素数平面の単位円の一周になります。
単位円は輪廻転生の円、生まれ変わりの循環でもある気がしました。
-1(あの世)と+1(この世)の間をぐるぐる回る、という。
白に一を足すと百なので、白=99 と取れます。
99歳のお祝いを白寿と言いますし。
「夜の静けさを白く帯びている」は白夜、99夜で、
第一夜での百年目に貴方に出逢える、その一年前の夜にも思えました。
六月は雨上がりの街を書く「今の暮らしはi^2 君が引かれてる0の下」は、
零の下=零下=氷点下 と思えます。
「雪が溶けるまで 愛が解けるまで」は、氷点下(零下)じゃなくなる、
「君が引かれてる0の下」じゃなくなり(君が足されて)雪が溶けるのかなと。
藍と愛が同音で、直前に「僕らの憂いが」とあって憂一乗に繋がりますし。
月に吠えるMVのラストでは男が月に被さり三日月になります。
その後の屋根の2匹の黒猫は、『月に吠える』の詩「猫」の情景を被せてると思います。
雪国「僕の躊躇いが月に被さって」を、
月に「猫」を被せる=月が猫を被る とすると『月と猫のダンス』に繋がります。
続く「まるで海の底ね」で海月と海猫も連想しますし。
月に吠える「アイスピックで頭蓋を砕いて温いスープで満たしてほしいの」は、
前曲『雪国』の雪を溶かしてほしい、冷えた関係の「スープに映った僕ら」を満たしてほしいと取れます。
次曲『451』の「胸の辺りが少し燃えてる」は、スープを温めた、雪を溶かした炎なのかなと。
『雪国』の絵の中で、炎が燃えていますし。
スープに映った僕らが波に揺れ、踊ってるように見えるのかもしれません。
パドドゥ
「思い出の中に貴方はいる」は、貴方はいる=貴方入る と読めます。
僕の思い出に貴方が入って二人になったから、貴方と書いて僕らなのかなと。
貴方が入ることで、僕らがいる状態になったという。
袖振り合うも多生の縁と言います。この袖を舞台袖とすると、
「舞台裏のパ・ド・ドゥ」は舞台袖の踊りで、
何度も輪廻転生し(多生)、二人は踊り続けるのかなと。
繰り返す踊りの輪は、輪廻転生の円になると。
「疲れたら寝ればいいよ」「夜しかもう眠れずに」「夜しか見えぬ幽霊みたいだ」を混ぜると、
憑かれたら寝ればいいよ になります。
ヨルシカ=憑るしか で、
パドドゥは夢遊病の曲にも思えます。
想い出の僕ら(幽霊)に取り憑かれ、動物みたいに(本能のまま)踊るのかなと。
歌詞的に、踊る動物の『第一夜』に繋がる気がします。
「想い出は夏風、揺られながら」は、 夏風=夏の風邪=お盆の幽霊に取り憑かれる と思えますし。
「もう考えないでいいよ」の後に
「そう考えたっていいよ」と歌うのは、
もうそう(妄想)でいいよ って事かなとか。
芥川龍之介の『舞踏会』(モチーフ元)は、鹿鳴館が舞台です。
舞踏会は星月夜が舞台で、「児猫のやうな令嬢」とあるので『月と猫のダンス』に繋がりそうです。
『踊る動物』=踊る鹿 と取れます。
「鹿鳴」には宴会で奏する音楽という意味があるので、
ヨルシカの音楽=鹿鳴 なのかなと。
鹿の音読み「ロク」が、ヨルシカのロゴマーク「6時」に繋がります。
「夜の校庭、たった二人だけの舞踏会」とあり、
夜の鹿鳴館=夜鹿 と思えます。
「たった二人」=suisさんとn-bunaさん という気もしました。
「芥川の小説みたいに今だけの想い出になろう」は、芥(ごみ)の川を流れるとも取れます。
「風に流されて足を運ぶ」ように、川の流れ、時の流れに運ばれ消えていくから「今だけの想い出」なのかなと。
「芥」の成り立ちは小さな草という意味らしいので、「夏草は肌に擦れる」にも繋がります。
「思い出の中に貴方はいる」は、それぞれの記憶(思い出)に「貴方」がいる。
「僕ら芥川の小説みたいに今だけの想い出になろう」は、二人が共有してる記憶(想い出)だから「僕ら」がいるのかなと思いました。
又三郎
「風を待っていた」後に、風に舞ったのかもと思います。
幻燈の又三郎再生時の映像で、二枚の葉が風に舞っています。
前の曲『パドドゥ』で思い出の中踊っていた二人が、
又三郎で二枚の葉となり舞う(=踊る)のかなと。
パドドゥ「もっと踊っていようよ」
=もっと踊って葉葉(ようよう)
=又三郎で舞う二枚の葉 という。
風に呼びかける、言葉で風を呼ぶから「言葉が貴方の風だ」で、
風を呼ぶ力(=言葉)も捨ててしまえるから「言葉も飛ばしてしまえ」な気がします。
風を思いのままにする貴方は、風を操る力にも縛られない、風のように自由な存在だと感じました。
老人と海
靴紐=魚を捕る綱 僕=捕まった魚 と思いました。
「手を引かれるままの道」は、魚が舟に縛られ、老人に連れて行かれてるのかなと。
「ライオンが戯れるアフリカ」が老人にとって少年時代の象徴であるように、
「海の方へ」は、魚が捕まる前の、自由に海を泳いでいた頃を目指す事と取れます。
「身体も脱ぎ去って」=魚は骨だけになって
「足を舐む」「肌を舐む」=時間に食べられる と取れます。
鮫に食われ骨だけになった魚のように、
時間によって余分な物を削ぎ落とされた老人は、少年の頃(アフリカ時代)のようにシンプルになったのかなと。
老人に捕まった魚のように、僕らは僕ら自身の想像力に捕まっている気がします。
解けた靴紐を結びなおす事は、歩行を選ぶ事、
想像力という重力に従う事の比喩に思えました。
「アフリカ」「海」は、
アフリカが人類の、海が生命の起源とされている事を意識してる気がします。
人類の祖先が裸足で歩いていた頃、言葉が世界を縛る前に戻りたいとか。
想像力というフィルターを通さずに世界を見たいと。
「貴方の靴が気になる」=貴方の靴が木になる で、
想像力という縛りから抜け出せない=木のようにその場から動けない なのかなと。
想像力が木のように根を張って、頭蓋の外へ行けないという。
解説に「絶対に辿り着くことのない出口」と書かれていますし。
アルジャーノンの「頭の真ん中に育っていく大きな木」も想像力という重力で、「ゆっくりと変わっていく」は想像力が育っていく事でもある気がしました。
アルジャーノンの「長い迷路の先」=想像力という重力の向こう と思います。
「風を呑み込んで」=ただの風になった僕ら自身も呑み込んで、自身の重力の向こうへ行く
「砂を流す波も呑み込んで」=足を舐むさざなみ(海)やアフリカの砂浜という目指していた場所さえも呑み込み、夢という縛りから抜け出す
海を目指すこと自体が想像力という重力に囚われる事で、
チノカテで貴方を縛る「ずっと叶えたかった夢」なのかなと思いました。
「想像力という重力の向こう」へ行けるのは、質量を持たない光なのかなと。
僕らは、音の波(歌)や海の波、光の波となって、遠くへ行くのかもしれません。
幻燈の仕様は、身体(CD)を脱いで心(データ)だけになったと思えて、
老人と海の「身体も脱ぎ去って」「心だけになって」に繋がる気がしました。
CDを辞める=円(循環)から抜け出す=輪廻転生から抜け出す
というイメージもある気がします。
「本」の語源は木の根で、根本という意味があるので、
チノカテ「本を捨てよう」は、根本を変えよう、円環から抜け出そうって事かなと。
「僕の想像力という重力の向こう」へ行ったら、軌道が円ではなくなり、輪廻転生から外れそうですし。
「まだ向こうへ」=マダム光栄
「手を引かれるままの道」=ママに手を引かれる
と取れます。
マダムからの期待、家庭という重力から抜け出す曲とも思える気がしました。
チノカテの画集での説明文にも「そうして外へ出てくれ。君の家庭から」とありますし。
さよならモルテン
『ニルスのふしぎな旅』(モチーフ元)はスウェーデンが舞台で、エイミーとエルマの物語もスウェーデンが舞台です。
「あの丘まで数百歩 誰かがそこにいる」は、ノーチラスの「丘の前には君がいて」を連想します。
エルマ特設サイトインタビューのノーチラスの項目によると、
n-bunaさんが何度も見る夢に「丘の前に誰か人が立っていて、そこに向かって歩いていく夢」(丘の向こうはスウェーデンの景色)があるらしいです。
さよならモルテンはそれを意識してる気がしました。
「読み終わり」=黄泉終わり で、人が生まれ変わる直前の話と思えます。
「飛ぼうとしていた」は、エイミーやエルマが水に飛び込む事で、
「転がりながら笑った」=転生しながら笑った
天国に行く事(飛ぶ事)に失敗し、何度も転生する(転がる)のかなと。
「土の匂い」は黄泉(地下の泉)の匂いで、
モルテンを黄泉の国に置いていく、僕は次の物語へ飛んでいく(読み終える)から「さよならモルテン」なのかなと。
読み返すことで甦る、二重の意味で再生される気がします。
『幻燈』は音楽の再生に手間をかける事で、音楽を聴く事に意識的になって欲しいという仕様だと思います。
ある意味で「音楽を聴く」という文化を甦らせる(再生させる)為の仕様でもあるのかなと。
さよならモルテン=さよならも流転 と思えます。
さよなら(別れ)で物事は流転し、輪廻転生をするように新しいものに出会うのかなと。
幻燈は文学モチーフです。読書は現実逃避の手段の一つなので、
現実逃避の略で現逃=幻燈 という気もします。
ヨルシカの「紙が白い鳥になる」というモチーフは、本の世界へ飛び立つこと、物語への逃避でもあるのかなと。
さよならモルテンの歌詞では、モルテン(白い鳥)に乗って旅する=物語を読む だと取れます。
モルテンへのさよならは、白い鳥になって飛び立つ紙(物語)へのさよならにも思えました。
ガチョウは英語でGoose(グース)です。
『さよならモルテン』はグース(ガチョウのモルテン)とのさよなら、
マザーグース(英国の伝承童謡の総称)=子供時代 とのさよならかなと。
いさな
許す(ゆるす)は緩い(ゆるい)と同語源です。
「柔らかに溶けた琥珀」のように緩やかになって「自分を許し」たのかなと思いました。
「静かなまなこはまるで夜の」は、瞼を閉じ夜のように暗くして休んでいる静かな眼とも取れます。
「陸に想い馳せるように」
=陸に想い馳せる夜に、「瞼を落として」夜を泳ぐ。
「いつかまた会えるように」=いつかまた会える夜に
閉じた瞼の中の夜、夢の中なら、あなたに会えるのかなと。
「静かなまなこはまるで夜の」
静かなまなこは丸で、夜の月のようなのかもしれません。
いさなはクジラの事なので、
目くじらを立てる、という言葉に繋がる気がしました。
瞼を落とす=目くじらを立てない=自分を許す かなと。
いさな=137 とすると、
宇宙の年齢が137億年とされてる(されていた)事を連想します。
生命を目指し宇宙遊泳している曲のようにも感じました。
深海は宇宙に似ています。
「波を待ってる」=宇宙で電波を待ってる で、
「すぐは覚めないほど眠って」=他の生命に会えるまでスリープ状態になってる のかなと。
「琥珀のよう」は、冷凍睡眠の比喩でもあると。
月光DVD冒頭に「僕らは鯨だ」「水面の月光に手を伸ばし」とあるので、
いさな「陸に想い馳せる」=月(宇宙)に想い馳せる と思えます。
『テレパス』に繋がる気がしました。
鯨は超音波で会話し、人に聴こえない音域もあるらしいです。人間からは、テレパシーのように思えるなと。
月光DVDの「僕らは鯨だ」は、僕ら(エイミーとエルマ)にしか伝わらない言葉で話していたのかなと思いました。
『いさな』に「眠って」「泳いで」とあり、ノーチラスと歌詞が似ています。
ノーチラス「泳いで君にやっと手が触れたらもう目を覚まして」は、
スイマー(swimmer)=睡魔 と取れます。
眠りかける事を「船を漕ぐ」と言いますし。
泳ぐ事を辞めるとスイマーじゃなくなる、睡魔がなくなり目が覚めると。
鯨は、脳を半分ずつ眠らせるらしいです。
「眠りの浅いその波間を」は、その睡眠方法の事なのかなと。
白に一を足すと百なので、白=99 と取れます。
白=99=-1(百に一足りない) で、
「白く微睡みながら」は-1で眠ってると取れます。
陸(目覚め、昼)が+1
海(微睡み、夜)が-1という。
0時(昼)=時計の一番上=+1
6時(夜)=時計の一番下=-1 と思えます。
加法群における0は単位元で、乗法群の+1に対応し、
加法群で2倍して0になる元(時計における6)は、
乗法群で2乗して1になる-1に対応するので。
「僕ら波を掻いてた いつかまた会えるように」は、
白い微睡みの中で、百日紅の伝説での百日目、第一夜での百年目を待っているのかなと。
「夜しかもう眠れずに」と「冬眠」が対応するなら、夜と冬、つまり一日と一年が対応するので、
百日待つこと(百日紅の伝説)と、
百年待つこと(第一夜、白百合)が対応します。
『老人と海』『いさな』の絵が左右対称(左向きに眠る男、右向きに眠る女)なのは、
モチーフ元の老人と海と白鯨に類似点がある(海の生物を相手にするアメリカ文学)ことを意識してる気がします。
夏の肖像の心と涙について
チノカテ「本当は僕らの心は頭にあった」は、科学的には心は脳の信号って事かなと。
脳ではなく、胸のところに心があると感じる人は多いと思います。
心が胸にあると感じるように、人の書く「文字の中」に心があると錯覚した(間違えた)のかなと。
錯覚自体が心によるものなので、変な感じですが。
雪国「貴方の涙風に舞い散ってまるで春の中ね」は、涙を春の花に喩えてると取れます。
チノカテの白い花が枯れる=貴方への涙が枯れる なのかなと。
涙が枯れたら次の場所へ行く、町へ出ると。
パドドゥ「胸を焦がせ今は泣き止んだ顔のままで」は、
左右盲の「君の胸を打て涙も忘れるほどの幸福を」「今日の小雨が止むための太陽」を連想します。
451の太陽が胸の窓を開けて燃やし、灰にして涙を止めたのかなと。
都落ちの「心なし乾いたら別れの時間だぜ」は、
涙が乾いたら二人の心が別れる時、だと取れます。
夏の肖像「雨上がり~ぽっかり空いたような貴方の心」「僕らずっと一つじゃないの」に繋がる気がしました。雨上がり=涙が止んだ と思えますし。
夏の木漏れ日の、木々の穴から覗く太陽が雨(涙)を乾かしたと。
左右盲では、小雨が止むための太陽、胸の窓へ差し込んだ太陽(=青い燕の運んだ宝石)が涙を乾かしたのかなと思います。
「貴方の心と私の心」が一つじゃなくなっても幸福であり続けるための、涙を忘れるための太陽であると。
時雨(しぐれ)は冬の季語です。
「その後ろ姿もしぐれてゆくか 忘れることが苦しい」は、冬になって夏を忘れつつあるのかなと。
「涙拭けば雨のように それは夏の木漏れ日のよう」も、夏ではない季節だからわざわざ「夏」と言ってる気がします。
涙が時雨(冬の雨)のようで、さらに夏の木漏れ日のようでもあると。
「肖る」は感化されて同じようになる、似るという意味なので、
夏の肖像(曲)は夏に感化されて似ていく、夏に溶けていくのかなと。
解説に「夏の中に消えていく女性〜緑に溶ける」とありますし。
さよならが花咲くように、涙が雨のようになっていく様子が「踊るように」なのだと取ると、
第一夜「踊りながら、百合に変化していく女性」に繋がります。
白百合はさよなら(別れ)が変化してできた花なのかなと思いました。
「肖」は小+月、月(にくづき)つまり身体でつながった小さい物の意です。
『夏の肖像』は、夏の月(天体)を模した小さい像という意味に感じました。
「夏」という字は夏祭りに踊る人の象形らしいので、「もっと踊るように」は「夏」を模してるのかなと。
月日の月と思うと、夏の肖像は夏の小さな月日の像、夏の想い出を描いた絵とも取れそうです。
『夏の肖像』は肖像権に掛けてるのかなと。
カメラをかざして聴く仕様も肖像権連想しますし、NFT、データの唯一性を意識した作品ですし。
夏の肖像(曲)の説明に「日差しの表情をスケッチする」とあります。
もし風景に表情や人格があるのなら、風景を撮るときは風景に許可を取ったほうがいいのかもしれません。
第一夜
第一夜で百年待つ事は、付喪神、百年経った物に霊魂が宿る事へ繋がる気がします。
老女の白髪を九十九髪と言った事が付喪神の語源らしいです。
「風揺れる、髪が靡く」「想い出は夏風、揺られながら」は、白百合、九十九髪が揺れていると。
幻燈画集の第一夜の絵でも、本来の髪がある場所が白百合になっています。
白百合への生まれ変わりでもあり、付喪神でもある気がしました。
「誰にもわからなくていい」「この詩に込めた表情」が百年後心になり、付喪神になって「いつか会いに向か」うのかなと。
紙の詩に込めた表情が、神になるという。
第一夜MV公開日の6/24は、百合の日(6/25)の1日前です。
百合の日の一日前=百の一つ前 と思うと、九十九や白寿、付喪神に繋がります。
MVラストで絵の中に入るのは、絵が付喪神になり、命が吹き込まれたのかなと。
「想い出ばかり描きます」「この詩に込めた表情」は、絵に描いた表情でもある気がしました。
エイミーの由来は、おそらくエイミー・ローウェルです。(エルマの日記「昔、そういう詩人がいたんだよ」より)
エイミー・ローウェルはレズビアンと言われている(wikiより)ので、
ヨルシカ第一夜の百合は、女性同士の恋愛の意味もある気がしました。
第一夜MV最初のインクや万年筆はエイミーっぽいですし。
「この歌は夏風、揺られながら」は、揺りかごの中で、赤子が子守唄(揺籃歌)に揺られてるのかなと。
揺り=百合 とすると百合に繋がります。
百年=一生
第一夜=生まれ変わって最初の夜 として、
赤子に生まれ変わり、前世の記憶をほとんど亡くしたから「貴方だけを憶えている」。「想い出は夏風」の想い出は前世の貴方かなと。
第一夜の絵は、子どもに生まれ変わっているように見えますし。
「雲の影が流れて往く」の「いく」が往復の「往」なのは、繰り返す事、輪廻転生を意識してる気がします。
「百」は「一」と「白」の形声文字で、「白」は白骨化した頭蓋骨の象形という説があります。
第一夜の百年待った後逢えるというのは、白骨(白)の上に花(一)が咲くって事に取れる気がしました(桜の下に骨が埋まっている的な)。
「宿」の字に「百」があるので、
百年経って白百合に宿る人、と思うと字面が綺麗です。
月光浴も、夜灯みたいに白い身体に「一」を足して「百」になり、
貴方と魚として再会できたのかなと思います。
百日紅の伝説や第一夜の百年で、花として再会した(と取れる)ように。
第一夜「春かと思いました」=遥か遠い真下 と取ると、
真下の小さくなってく君の居た街(靴の花火)、つまり前世と思えます。
「花の香り」=花火の匂い
暁の星(夏目漱石の第一夜)=よだかの星 な気がしました。
第一夜MV「春かと思いました」でも女性がヨダカっぽい鳥になりますし。
第一夜MVの列車は、銀河鉄道の夜を連想します。
銀河鉄道の夜アニメーションでは登場人物が擬人化した猫なので、『月と猫のダンス』に繋がりそうです。
銀河鉄道の夜の冒頭には天の川(「川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いもの」)が出て来ます。
ギリシャ神話で口から飛んだ母乳が天の川、地上に溢れたものが百合になった事を、第一夜MVは踏まえているのかなと。
第一夜「丘の向こうに〜やっと貴方に出逢えたそんな夢を見ました」は、ノーチラス「丘の前には君がいて」(n-bunaさんが何度も見る丘の夢)を連想します。
ノーチラス「夜が明けたらもう目を覚まして見て」は、第一夜(夏目漱石)の「暁の星」(つまり夜明けの星)を見てほしいのかなと。
エルマの日記に、白夜が出てきます。
百から一を引いて白 白夜=99夜 と思えます。
第一夜で百年待つこと=百夜を待つこと で、白夜はその一つ手前なのかなと。
日記の最後でエルマが白夜から抜け出すのは、ある意味でエイミーに再会できた(百夜になった)からでもある気がしました。
百合の読みの由来は、花が風にゆらゆら揺れるから揺り(ユリ)が定説で、「想い出は夏風、揺られながら」はそれを意識してる気がします。
ゆうれい=揺れる=ゆり=白百合 と連想できます。
チノカテ「花瓶の白い花」は枯れて枯尾花のように、幽霊のようになったのかなと。
「想い出の僕ら、夜しか見えぬ幽霊みたいだ」を踏まえると、
第一夜「想い出は夏風、揺られながら」は幽霊のようにも思えました。
第一夜「氷菓を一つ〜頬張る貴方」「ふくれ雲それを手帳に書き留めて」は『花に亡霊』の歌詞に似ています。
花に亡霊を見る、白百合に幽霊を見るのかなと。
第一夜の歌詞は『盗作』の物語を連想させますが、「白い花」は一輪草ではなく白百合でした。
ヨルシカでの「白い花」が曲ごとに一輪草、花韮、白百合と変わっていく事も生まれ変わりと取れる気がします。
『盗作』では一輪草だと妻が言っただけで実際は違う花だったようですが、百合と一輪草は見た目がかなり違うので、百合に見間違える事は多分ないと思います。
『花に亡霊』『第一夜』の「氷菓」「雲」から、
宮沢賢治の詩『永訣の朝』の「天上のアイスクリーム」を連想しました。
「君はそれを掴もうとして」「僕は紙に雲一つを描いて」は氷菓に見立てた雲かなと。
「氷菓を一つ買って行く頬張る貴方が浮かびます」は、賢治が妹にアイスを買ったエピソードっぽく思えますし。
「この詩に込めた表情は誰にもわからなくていい いつか会いに向かいます」は、
詩=永訣の朝 いつか会いに向かいます=いつか賢治も妹の行った天上へ向かう と取れるのかなと。
川端康成「別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。」が、
第一夜「貴方だけを憶えている」「名前も知らず呼んでいた白い花を一輪持って」に繋がりそうです。
第一夜MVの列車は、雪国っぽいです(パドドゥ絵の列車に似ていて、パドドゥの解説に「雪国を経て~列車は草原の向こうへと走っていく」とある)。
雪国の「花韮」も白い花なので繋がりを感じます。
第一夜「花の香りに少しだけ春かと思いました」は、
雪国の「春の思い出がただ蔓延っている」「花韮の花の静けさをただ嗅ぎ取っている」を連想します。
雪国が跨いだ「食卓」=散歩の前の朝ご飯
雪国の「長い小節」=百年 かなと。
国境=天国との境
国境の長いトンネルを行く列車=天へ向かう列車 とすると
第一夜MVの、列車が空に浮く(花火が下に見える)描写に繋がります。
靴の花火の詩のテーマが成仏で「ずっと下で花が鳴った」とあるのに繋がりますし。
トンネルの先の雪国には白い花が咲いていて、
天国へ行くのに百年かかる=白い花へ転生するのに百年かかる という。
山頂を十合目と言うので、百合は山の十倍の高さ、天国を指してるとも取れます。
第一夜は、丘の向こうのふくれ雲の上(天国)で貴方に逢う夢を見たと。
「貴方だけを憶えている 雲の影が流れて往く」は、雲の上の貴方の面影だけが見えるって事に思いました。
ヨルシカでの白い鳥は、白鳥の歌を意識してる気がします。
人が亡くなる直前に最高の作品を残す事なので、
『だから僕は音楽を辞めた』MVで白い鳥が飛ぶのが、曲に合ってると思います。
第一夜の絵の白百合に変化していく女性が、白鳥のようにも見えました。
第一夜MVでも女性は鳥になります。
「この歌は夏風、揺られながら」の歌はスワンソングかなと。
二度目の「朝目が覚めて歯を磨く」は次の日ではなく、スワンソングを歌った後の、次の人生の朝でもある気がしました。
『だから僕は音楽を辞めた』等のMVにいる白い鳥は「立つ鳥跡を濁さず」という言葉を連想します。
エイミーは終わり方を大事にしていましたし。
第一夜MVや『月と猫のダンス』キービジュアルで紙が白い鳥になるのは、
エイミーの理想「自分の為だけの創作」だから後世に何も残さず、鳥になって居なくなるのかなと。
百年経って付喪神になったという気もします。
作品が作者の手を離れていく=紙(作品)が白い鳥になって旅立つ
とも取れます。創作物が、作者から独立すると。
ユリカモメは海猫に似ていて、東京都指定の鳥で都鳥という別名もあるので『都落ち』に繋がりそうです。
ユリカモメから、百合の出てくる第一夜を連想します。
第一夜MV3:10後では女性が百合になった後に翼が生えますし。
第一夜MV3:10前の列車は「新交通ゆりかもめ」に繋がる気がしました。
第一夜の「第」は 竹ノ弔→竹の弔い と取れます。
竹から生まれ月へ帰ったかぐや姫への想いのように、
夏目漱石の第一夜では、月の光が差す真珠貝で掘った墓に埋めた女への想いを、百年間待つ事で弔ったのかなと。
ヨルシカの第一夜では、「貴方だけを憶えている」という程の貴方への想いを弔うのに百年かかったと。
春泥棒MV4分26秒の句「めつむりて闇きが中に白牡丹」は、左右盲「散らぬ牡丹」「夜の日差し」を連想します。
いさなの「瞼を落として」「白く微睡みながら」にも繋がりそうです。
「白牡丹寵愛しけりゆるされよ」という句も、いさな「自分を許して」に関連付けられますし。
「春吹雪」は本来春に降る雪のことですが、春泥棒の歌詞では花吹雪の意味に取れるので、
左右盲「夏に舞う雹」も花(牡丹)なのかなと思いました。
「牡丹雪」「牡丹桜」という言葉があります。
春泥棒MVの牡丹の句を通すことで、雪が桜に繋がり、「春吹雪」が花吹雪になると思いました。
第一夜「名前も知らず呼んでいた白い花」も白牡丹な気がします。
夢で貴方に出逢えた=目をつむると貴方が見えた=「めつむりて闇きが中に白牡丹」 という。
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」という言葉があります。
左右盲MVの座る女性(散らぬ牡丹)が、第一夜で白百合になった気がしました。
座る女性を描いた紙(絵だから「散らぬ牡丹」)が、百年後付喪神になり、変化して(歩いて)白百合になる。
白牡丹(女性)が踊りながら白百合に変化していくのかなと。
夏目漱石『第一夜』の座って百年待つ人=座れば牡丹 で、
百合に逢う事で牡丹が散った、待つ事が終わったとも取れます。
踊りながら百合に変化=舞った(牡丹が舞い散った)=待った
いさなでは白鯨にあなたを重ねているので、
座る牡丹=眠る白鯨
歩く百合=目覚め なのかもと思います。
百合に逢う事で、「貴方に出逢える」という夢から覚めると。
アルジャーノン「裸足のままで」=靴が無い=「ゆっくり」に「くつ」が無い=「ゆり」 とすると、
「ゆっくりと変わっていく」=百合と変わっていく と取れます。
「ゆっくりと歩いていく」=歩く姿は百合の花 で、
アルジャーノンの前の曲左右盲で「座れば牡丹」だったのが、
アルジャーノンの次の曲第一夜で「百合の花」になったのかなと。
パドドゥと第一夜を関連付けます。
パドドゥ「夏木立」の直ぐ後が「風に流されて足を運ぶ」で、
第一夜「歌う木立」の直ぐ後が「風が運んだ」なのが似ています。
パドドゥ「風に流されて足を運ぶまま」が踊りの様子なら、
第一夜「想い出は夏風、揺られながら」も踊りの様子なのかなと。
第一夜の解説に「踊りながら、百合に変化していく女性」とあります。
「いつか出会えるならふざけた笑顔のままで」と、
「いつか会いに向かいます」「貴方は僕に笑います」も対応していそうです。
一生踊って暮らしていようよ=百年舞った=百年待った と思いました。
花菖蒲=雲間の鮮やかな青 なら、
白百合=白い雲 かもと思います。
青い空と白い雲が揺れ踊る
=花菖蒲と白百合が揺れる
=二人が思い出の中踊る という。
山口青邨の句「風吹けば白百合草を躍り出づ」が、第一夜の「踊りながら、百合に変化していく女性」に繋がると思いました。
第一夜MVにパドドゥの場面があって、パドドゥの歌詞に「夏草」とあり、
山口青邨は俳誌『夏草』の主宰です。
俳誌『夏草』は盗作小説で言及されていますし。
第一夜「ずっと待っていました」=舞っていました(踊っていた)とすると『踊る動物』に繋がります。
「ずっと待っていました」=zoo泊まっていました とすると、
『踊る動物』では第一夜以外動物モチーフなので、動物達の中にいた、動物園(zoo)に泊まっていたという事かなと。
第二夜以降に歌詞が無いのは、嘘月「物一つさえ云わないまま僕は君を待っている」を連想しました。
幻燈→幻の明かり→嘘の月明かり→嘘月 と思えます。
嘘をつき(猫をかぶって)待った(舞った)から『月と猫のダンス』なのかなと。
嘘月の「君は夜になって行く」も第一夜〜第十夜を連想します。
第一夜「風が運んだ花の香りに少しだけ春かと思いました」を、食んだ風の香りに、春泥棒の亡くなった妻の気配を感じたと取ると、嘘月以外の『創作』収録曲にも繋がるなと。
「貴方だけを憶えている」状態だと、全ての物に貴方の面影を見る気がします。
「雲の影」と「想い出」が合わさり、想影=面影になるのかなとか。
猫にとって百合は毒なので、第一夜の百合は花緑青だとも取れます。
MVの女性の服の色は、花緑青に似ています。
女性が百合に変化=貴方との想い出が毒になる と思いました。
『踊る動物』についてです。
第一夜〜第十夜の眠りの中(夜の夢の中)で、動物が踊っていると取れます。
猫=寝子=根っこ で、
白百合の根っこの中で踊る夢を見ていて、百年後に目覚める気がしました。
百合という漢字の由来は、ゆり根が何枚もの鱗片が合わさってるから百(たくさん)が合わさるなので、根っこ(ねこ)に繋がります。
チノカテ「夢が貴方を縛っていないだろうか」=夢が根っこになっている
老人と海「想像力という縛り」=夢が根を張っている
アルジャーノン「ゆっくりと眠っていく~大きな木の根本をゆっくりと歩いていく」=眠り(夢)の中で根っこを歩いている と取れます。
「仇」は仲間という意味もあって、「人」と「九」
第一夜~第十夜は一人と九匹の動物なので、「仇」を連想します。
動物達と「仇」になって踊るのかもしれません。
「叶」は 十(多数)の口(言葉)が一致する で叶うの意味らしいです。
チノカテの「ずっと叶えたかった夢」が夢十夜なのかなと。
幻燈=幻十 と思うと、夢十夜に繋がりそうです。
モチーフにする事を「踏まえる」と言うので、
幻踏 つまり幻の踊りでもある気がします。
第四夜「眠りにつく鹿」は、ヨルシカの由来「夜しかもう眠れずに」を連想します。
夜四歌 で第四夜かなと。
四=死 で、眠りは永眠だと取れます。
解説に「心臓の鼓動を聞き取ろうとしている」とあるのは、鹿の心臓が停止してるからかなと。
眠りに憑く鹿、憑る鹿と取れます。
鹿は神の使いともされるので、
憑く鹿=つく神=付喪神 と思いました。
幻燈という題名について
宮沢賢治『やまなし』に「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」とあり、それが題名の由来らしいです。
やまなしの「日光の黄金は夢のように水の中に降って来ました。」という描写に、エルマが海抜0mを越えて見た月明かりのような日光を連想しました。
やまなしの泡を吐く描写は、憂一乗「口から溢れる泡ぶくが綺麗で」を連想します。
虚数のiはimaginary number(空想の数)から来ていて、幻の数と思えるので、
二乗されたi(藍二乗)は、二枚の青い幻燈に似てる気がしました。
マイナス1(藍二乗)=海抜0mより下 と思えます。
やまなしの「クラムボン」は、
目がくらむ→幻 ボン→火の付く音→燈 と取れば、
クラムボン=幻燈 だと思える気がします。
音楽画集『幻燈』は、クラムボンのように無数の解釈ができる作品なので、宮沢賢治『やまなし』から題名をとったのはその意味でも合っていると思いました。
宮沢賢治『春と修羅』の「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」も、幻燈と思えます。
藍二乗の藍を一人称のI(私)とすると、「わたくしといふ現象」に繋がるなと。
藍=eye(目)で、幻燈を見た とも取れます。
やまなしや春と修羅の「青い幻燈」「青い照明」は、藍色(濃い青色)と似た色ですし。
宮沢賢治『雪渡り』の「幻燈会」では狐たちが歌や踊りをするので、「第2章 踊る動物」はそれを意識してる気がします。
雪渡りは雪の降る冬が舞台なので「第2章 踊る動物」を冬とすると、
「第1章 夏の肖像」とは夏と冬で対になります。
肖像=静止した人間 と思えば、
静止⇔踊る
人間⇔動物
「肖像」と「踊る動物」が対だと取れます。
つきとねこのだんす(月と猫のダンス)は、
きつねとこのだんす(キツネと子のダンス)のアナグラム(言葉の順番を入れ替えたもの)になっています。
宮沢賢治『雪渡り』の、キツネと子の幻燈会に繋がるなと。
肖像は静止してますが、少し変化したものたちを並べるとアニメのように動いて見えます。
創作物自体は肖像のように静止していても、他者に影響を与え、引用(盗作)されていく連鎖は動的で、まるで生きているみたいだなと。
創作物が引用(盗作)されていく連なりが「踊る動物」なのかなと。
ヨルシカ『幻燈』は文学作品モチーフの音楽画集なので、
作品をモチーフに新たな作品へ変換する事を、幻燈(投影装置)に喩えてる気がします。
スマホで絵を読み込み曲を再生する事を、投影機に喩えてもいるのでしょう。
幻想(幻燈)に踊らされる人間達を皮肉って「踊る動物」と言ってる気もしました。
幻燈機は絵や写真を投影する装置で「模倣すること」の比喩と取れます。
「肖」には、似るという意味があります。
幻燈で映した物が肖像(似た像)なのかなと。
夏の思い出を創作物にする事は、夏を投影する事、「夏の肖像」を作る事と取れます。
繰り返し夏の曲を作るナブナさんは、夏の肖像を繰り返し作ってるのかなと思いました。
作品を創作する事が投影なら、
作品を鑑賞する事も、その作品を心の中に映す投影と思えます。
「人生が芸術を模倣する」なら、人生は芸術を投影した、影や幻のようなもので、
幻燈機が映した幻なのは、作品ではなく人間のほうなのかもと思いました。
第1章は第一生、第2章は第二生と思えます。
「夏の肖像」が生まれ変わって「踊る動物」になるという。
負け犬(アルバム)でも、人が生まれ変わって動物になりましたし。
幻燈では、音楽の再生を、命の再生(輪廻転生)に掛けてる気がします。
CDが回ること=命が廻ること でもあるのでしょう。
幻の燈、走馬燈を意識してる気がします。
幻燈と月光の語呂も似てるなと。
「幻滅」という言葉は「幻燈」の対だと思えます(明滅という言葉もありますし)。
盗作と創作に大きな違いがないなら、幻燈と幻滅にも違いはない気がしました。
燈もいつかは消えます。
ヨルシカの幻燈の仕様は、幻滅させる為のものだったのかもと思いました。
幻燈を「幻の火が登る」と思うと、火葬された人の魂が天国へ登っていくようにも感じました。
「幻」という字は「染色した糸を木の枝にかけた」象形なので、
451の「意図」(≒糸)や「燃やして」に繋がりますし。
幻燈は、闇の中の音とも思えます。
「音」には「視覚によらない」という意味もあり、暗闇の中で音は光の代わり、幻の燈になると。
「音で見る画集」という説明は、音が視覚の代わりになると取れますし。
左右盲「夜の中を一人行くその静けさをその一つを」の
一つ=音楽 と思えます。
「音」という字の「日」の由来は、口に一を加えたものです。
口から出た一つの音で「夜の日差し」、闇を照らす音を作りたかったのかなと。
幻燈の英題は「Magic Lantern」なので、
Magic Lantern
Music Lantern
音楽 ランタン(闇を照らす)
音で見る画集
と連想できます。
月光ソナタには、盲目の少女のため音楽で月の光を感じてほしいという気持ちで作曲された、
という伝説(作り話)があるらしいです。
左右盲の「夜の日差しの一つでいい」「手探りの夜の中を」や、
「音で見る画集」である幻燈を連想しました。
月と猫のダンスあらすじに月光ソナタ出てきますし。
『盗作』の物語にも月光ソナタが出てきます。
左右盲「この瞳からサファイアを」は、嘘月「涙が宝石で出来てたんだ」を連想します。
作り話での月光ソナタ=創作された月=嘘月 と思いました。
月と猫のダンスは、嘘月と泥棒猫のダンス、創作と盗作のダンスでもあるのかなと。
月と猫のダンスという言葉について
月と猫のダンスは、夜の夢の中で動物が踊ってるのかなと思いました。
猫は寝る子で、夜行性なので、人が夢の中で踊る事を猫に例えたと。
『月と猫のダンス』キービジュアルに黒猫がいて、あらすじに海辺とあります。
月光DVD『踊ろうぜ』前のPoetry(ヴィスビーにて)に「海辺の街」で黒猫が出てくる事と、繋がってる気がします。
踊ろうぜは「人間なんて辞めたいな」で猫になって、
「このまま夜明けまで踊ろうぜ」で月とダンスしたのかなと思いました。
ヨルシカ『月と猫のダンス』は季語「猫の恋」を意識してるのかなと。
猫が恋相手を求めて春の夜となく昼となく狂態を演じる事が「猫の恋」で、「月に吠える」に似てる気がします。
夏目漱石も「猫の恋」という語を使ったらしいです。
「第二章 踊る動物」の曲名は、夏目漱石の夢十夜モチーフです。
夏目漱石には「月が綺麗ですね」の噂や『吾輩は猫である』があるので、『月と猫のダンス』はそれを意識してる気がしました。
吾輩は猫である=我が灰は猫である
火葬された後、猫に生まれ変わるのかなと。
『451』で魂は燃えて灰になり、猫化して踊るという。
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』『青猫』が合わさって『月と猫のダンス』になるとも思えます。
『青猫』初版は1923年で100年前、第一夜の「百年」と同じですし。
「都會の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐる」(青空文庫より)ことに幻燈っぽさを感じました。
エイミーの手紙5/6では、
『青猫』の詩「惡い季節」の「ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は ああもう どこにだつてありはしない。」が引用されています。
5/6の手紙「芸術の真似事を続けていた。ブレーキの壊れた自転車を漕ぐみたいに。」から 「八月某、月明かり、自転車で飛んで」が連想されて、月と猫(月と猫のダンス)が揃います。
惡い季節の「古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影」は、雨晴るる「白いカーテンが揺れた」「思い出すように揺れた」を連想しました。
『月と猫のダンス』は山月記かもしれないなと。虎はネコ科ですし。
『月と猫のダンス』は、海月と海猫のダンスかもと思います。
都落ちに「海猫」、ただ君に晴れに「海月」が出て来ます。
都落ちMVとただ君に晴れ歌詞には鳥居が出て来ますし、この2曲は曲調が似てる気がします。
第一夜の白百合は海百合に繋がる気がしました。
ウミユリ海底譚にも「列車」出てきますし。
ウミユリは生きた化石とも呼ばれるので、
いさなの「琥珀のよう」「白く微睡みながら」を連想しました。
海百合が微睡みから覚めるとき、貴方に出逢えるのかなと。
『月と猫のダンス』のあらすじは、セロ弾きのゴーシュを連想させます。
セロ弾きのゴーシュでは動物の中で猫の扱いが特別悪いので、それを意識して『月と猫のダンス』なのかもと思いました。
以上です。
お読みいただきありがとうございました。
以下は『幻燈』収録曲について書いた他の記事です。