マガジンのカバー画像

三宅ノート6

73
運営しているクリエイター

2016年4月の記事一覧

極から極へ。

僕のしている仕事というのは。
ある極から、正反対の極へ、
運河を掘っているようなものである。

ほとんどは暗い地底の中で、
日々を過ごす。孤独に。

それは数年のつもりが、
十年になり、十年を超える。

こんな長いトンネルを掘るのは、
僕一人で十分である。

次から来る人は、もっと短く、
通り抜けることができるように整備し、

知識を広める。思えば先達たちも、
そうやって隘路を

もっとみる

探すか、作るか。

探すか、作るか。

探究するか、創造するか。

この世でたった二つの選択肢が人間にある。

作ること、探すこと。

作る時は、まず身体を入れて、それから考える。

研究する時は、考えて、それから身体を入れる。

どちらも苦しい。どちらもたのしい。

成長と余白。

自分を成長させたかったら、

自分の中で、凝縮できるだけ自分の一部を凝縮させて、

どんどん外に出して行くことで、

新しい空間が生まれ、それが成長の余地となる。

人工知能のための哲学塾 (第零夜+全五夜)全資料

人工知能のための哲学塾 (第零夜+全五夜)の全資料です。ご活用ください。

コミュニティページ

https://www.facebook.com/groups/1056157734399814/

第零夜  「概観」

資料  http://www.slideshare.net/youichiromiyake/ss-48781470

レポート記事 http://g-x.jp/556c38f5

もっとみる

災害とエンターテインメント

私などが言うのはおこがましいですが、
学生の方にはつたえておきたいことは、

もし災害に応じて、自分の仕事を投げ出して、
何か特別なことをしに行くというのは、

素晴らしいことの反面、普段の仕事の価値を、
信じていないことになります。

毎日の仕事は、社会の役に立つ仕事をしている、
それを信じられる仕事をする。

直接もすぐにも役立たなくても、
その人達にいつか通じている、

もっとみる

シニフィアンの平面の傍で。

世界を言語として引き受けるだけでは、
十分ではない。

精神は形成した言語の平面の反対側に、
主体を形成し、

再び言語が来た道を逆に遡って行く言語を、
自由に押し返すことで、

知能を形成し、意識を持つ。
ラカンはこれをシニフィアンの平面と呼び、

主体はそこで、
言語によって引き裂かれるのだと説いた。

我々、プログラマは、
世界をプログラム言語とメモリの平面で引き受ける。

もっとみる

意識とはなにか。

身体が取り込んだものを、
脳はその中心に導いて、解析している。

世界から引き上げた信号を囲うように、
脳を構成し、自らを駆動している。

身体は自らを世界に浸し、
スポンジようみ世界から引き揚げた情報を、

噴水のようにして、知能の中心に導いて行く。
知能はそれを囲うように待ち受けて、

興奮を記号に変えて、言語によって引き受ける。
言語はその性質によって、

受け手として受

もっとみる

受動と能動を可能とする。

言語は受けて、返すことができる。この性質が
人間の知性にとって極めて重要な運動を可能にする。

それは言葉を受けるものもしての自己と、
言葉を発するものとしての自己を、

同時に可能にしている。

世界の空洞を。

自分の中心に降りて行くと、そこには
巨大な空洞があり世界が湧き出していた。

我々の最大のイマジネーションとは、
その風を受けて引き起こす現実である。

想像を自ら根源として生み出そうとするな。
一個の人間は巨大な筒のやうに、

世界から湧き上がる風を受けて、
眠りにつくまで現実を想像し続ける。

想像力とは世界を受けて変換する力を、
別の変換にかけて生み出す力である。

まずは零

もっとみる

知識と嵐。

行儀良く座って勉強できることもたくさんあって、とてもたいせつだ。

でも、本当の知識というものは、
ソフトウェアをインストゥールするのとは、
少し違って、けっして行儀良くない。

それは自分の中に、さらに自分と違うものを放り込んで、

自分の中に、激しい対立を生み出すことなんだ。
それは生きた嵐で、知識とはそんな嵐でできている。

人は自分が作ったものを、 自分でよく知っていると思い込む。

人は自分が作ったものを、
自分でよく知っていると思い込む。

それが、創作の罠であり、
やがて創作そのものを中止させる。

我々は、自分たちが必至に作り出したものを、
同じように必至に理解しようとせねばならない。

そうであってこそ、つくるという行為が、
自らで満たされるちっぽねなものから逃れて、

世界の時代の造形の流れの輪の中で、
実現するのだ。

汝自身を知れ、つまり、自分が作り出したものを、きちんと知れ。

人は自分が作ったものに対して、すべてを知っていると思いがちである。

しかし、作ることと、知ることは対極にある。

作ったものを知っていると思い込むことが、一番作ることを苦しくしてしまう。

自分の作ったものを客観的に捉える、計測する、監視する、そして、それを

作ることにフィードバックすることが、

あらゆる創作において必要なことである。

汝自身を知れ、つまり、自分が作り出したものを、きちんと

もっとみる

指導というもの。

どこまでも、人の上に立てる力、を持っている人は、

そんなにめずらしくない。

どこまでも、深く、人の足元を支える力、を持っている人は、

少ない。

そして、両方を持っている人はさらに少ない。

真上と真下でどうじに包み込むように人を導くのが、

指導というものである。