2016年4月の記事一覧
作ること、探すこと。
作る時は、まず身体を入れて、それから考える。
研究する時は、考えて、それから身体を入れる。
どちらも苦しい。どちらもたのしい。
人工知能のための哲学塾 (第零夜+全五夜)全資料
人工知能のための哲学塾 (第零夜+全五夜)の全資料です。ご活用ください。
コミュニティページ
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第零夜 「概観」
資料 http://www.slideshare.net/youichiromiyake/ss-48781470
レポート記事 http://g-x.jp/556c38f5
災害とエンターテインメント
私などが言うのはおこがましいですが、
学生の方にはつたえておきたいことは、
もし災害に応じて、自分の仕事を投げ出して、
何か特別なことをしに行くというのは、
素晴らしいことの反面、普段の仕事の価値を、
信じていないことになります。
毎日の仕事は、社会の役に立つ仕事をしている、
それを信じられる仕事をする。
直接もすぐにも役立たなくても、
その人達にいつか通じている、
シニフィアンの平面の傍で。
世界を言語として引き受けるだけでは、
十分ではない。
精神は形成した言語の平面の反対側に、
主体を形成し、
再び言語が来た道を逆に遡って行く言語を、
自由に押し返すことで、
知能を形成し、意識を持つ。
ラカンはこれをシニフィアンの平面と呼び、
主体はそこで、
言語によって引き裂かれるのだと説いた。
我々、プログラマは、
世界をプログラム言語とメモリの平面で引き受ける。
受動と能動を可能とする。
言語は受けて、返すことができる。この性質が
人間の知性にとって極めて重要な運動を可能にする。
それは言葉を受けるものもしての自己と、
言葉を発するものとしての自己を、
同時に可能にしている。
人は自分が作ったものを、 自分でよく知っていると思い込む。
人は自分が作ったものを、
自分でよく知っていると思い込む。
それが、創作の罠であり、
やがて創作そのものを中止させる。
我々は、自分たちが必至に作り出したものを、
同じように必至に理解しようとせねばならない。
そうであってこそ、つくるという行為が、
自らで満たされるちっぽねなものから逃れて、
世界の時代の造形の流れの輪の中で、
実現するのだ。
汝自身を知れ、つまり、自分が作り出したものを、きちんと知れ。
人は自分が作ったものに対して、すべてを知っていると思いがちである。
しかし、作ることと、知ることは対極にある。
作ったものを知っていると思い込むことが、一番作ることを苦しくしてしまう。
自分の作ったものを客観的に捉える、計測する、監視する、そして、それを
作ることにフィードバックすることが、
あらゆる創作において必要なことである。
汝自身を知れ、つまり、自分が作り出したものを、きちんと