なぜ聖なるものに惹かれるのか?―ミルチャ・エリアーデ【百人百問#003】
鳥居をくぐると厳かな気持ちになる。教会を訪れると清々しい気持ちになる。お墓参りに行くと静謐さを感じる。人は特定の宗教に属していようがいまいが、聖なる場所を訪れたときに、得も言われぬものを感じる。
それは「信仰」という言葉だけでは説明できないような、不思議な経験だろう。イスラム教のことがわからなくても、モスクの荘厳さを受け取ることができる。建物の素材は丸の内のビルのそれと変わらないとしても、モスクや教会や神社を蹴るなんてことはできない。
いくら近代社会を「合理」が覆い尽くし、すべてのことが説明可能になり、論理で組み立てることが正義になったとしても、神聖なものへの畏敬というものは残り続けているのだ。とはいえ、古代社会に比べればその精神は衰退している。道の隅っこでみかける「石」もかつてはとても聖なるものだったかもしれないが、いまや風景の一部になっている。
しかしながら、「聖なるもの」は人を魅了する。
異世界転生した先では魔法も呪術も宗教も溢れた世界が待ち受けている。「ダンまち」では神様とともに地下空間であるダンジョンを探検し、「オーバーロード」では地下大墳墓が主人公たちの本拠地になっている。「呪術廻戦」では呪物が主人公たちを翻弄し、「メイドインアビス」では大穴アビスが人を狂わせ、「Fate」では聖杯のために争い合う。それぞれに聖地があり、聖物があり、聖人がいる。人を惹きつけつつ、人を狂わせる。そんな力が「聖なるもの」にはある。
「聖なるものとは何か」を問い続けたのがルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデだ。比較宗教学の第一人者で、欧米の宗教学に多大な影響を残している。
エリアーデによると、聖なるものの反対は俗なるもの。われわれが普通に暮らす世界が「俗」の世界である。聖と俗、ハレとケ、あの世とこの世、彼岸と此岸。人間世界にはいつの時代にもこの2つの世界が入り混じりながら発展してきたのだ。しかしながら、その聖なる空間や時間感覚が少しずつ失われている。聖地は観光地化し、盆や正月は帰省のタイミングでしかなくなっている。
そもそも聖なるものは顕現するものだという。それをエリアーデは「聖体示現(ヒエロファニー)」と呼んだ。すなわち、聖なるものは誰かが生み出すものではなく、おのずから顕れるものなのだ。特に古代社会ではこの示現したもののすぐそばで暮らしていた。シャーマンにしろ、儀式にしろ、とてもアクチュアルなものだったのだ。しかしながら、近代では「俗」が肥大化し、「聖」は追いやられてしまっている。
それによって、暮らしは豊かになった部分もあるだろう。便利になり、転用可能になり、効率化し、寿命も伸びている。しかしながら、失ったものもある。震災や戦争のような悲惨なものと出会ったときに、心の有り様が乱されてしまう。人知を超えたものと出会ったときに、頭では理解できていても、心が追いつかなくなる。それは「俗」だけでは対応できない「何か」があるからかもしれない。
エリアーデは『聖と俗』のなかで、聖なるものを空間と時間の視点から説明している。そもそも空間も時間も均質なものだと思われている。Googleマップを見るとどの場所も同じように地球上に存在し、その場所の価値の多寡は無い。時間も同様に西暦とグリニッジ標準時によってどの国であっても「同じ時」を歩んでいる。
しかしながら、実は空間も時間も均質ではないとエリアーデは言う。空間でいうと、聖なる場所もあれば、俗なる場所もある。キリスト教にとっての教会、イスラム教にとってのモスク、仏教にとっての寺院など、その場所は「特別」な意味を有する。聖地エルサレムは一生に一度は訪れるべき場所であるし、三輪山の御神体の正体は口外してはいけない。すべてが均質的で「同じ空間」ではないのである。聖なる場所をエリアーデは「固定点」もしくは「世界の中心」と呼ぶ。ヒエロファニーが起こる絶対的な場所なのである。
時間に関しても同様で、お祭りに向けて人は準備をし、クリスマスや感謝祭や大晦日は聖なるものを感じ取る一日を経験する。1年間は直線的な均質的な時間ではなく、特別な意味を持つ時間や日にちや年が存在する。末法思想も終末思想も時間が均質でないことを示している。法事で故人を偲び、賛美歌で祝福する。いつも同じ時間を過ごしているわけではなく、ある時、ある瞬間は特別なのである。
奈良に「お水取り」という東大寺の行事がある。毎年3月に2週間ほど行われるが、その夜の修業に行われる「走りの行法」というものがとてもユニークだ。「練行衆(れんぎょうしゅう)」と呼ばれる僧侶たちは、堂内に安置された観音菩薩の周りをお経を唱えながら、ぐるぐる駆け回るのだ。
なぜ、走り回るのだろうか。一説によると、天上世界の一日はこの世の400年に当たるらしく、天上世界の時間の流れに合わせるために、「走る」という説がある。真偽はわからないが、それほど「時間」というものは聖なるものを支える大きな要素なのだ。
聖なるものは、均質ではない空間と時間によって支えられている。ハレとケを繰り返すことで、人は心が洗われ、また次の年も頑張ろうと思い、人の死に遭遇してもまた立ち上がろうとする。お祭りで日頃の鬱憤を発散しながら、またケの日常に戻っていく。
現代は空間も時間も均質化が加速している。リモートワークで世界中が職場になり、24時間が労働になる。神社やお祭りや礼拝や法事という「空間と時間のデコボコ」が無くなってきているのだ。デコボコしていれば、登るときはつらくとも下るときには楽になるし、曲がりくねった道を歩む楽しみも得られる。
しかし、どこまでも続く直線を歩むことほど心が病む苦行はない。現代はこの「果てしない直線」になってしまっているのかもしれない。道草も休憩も迷子にもなれない、ひたすらの直線を歩むことで、疲労してしまう。
聖なること、宗教的なることは「不要・無用」なものだと思われがちだ。しかし、人生の中に「デコボコ」を生み出し、旅路を豊かにしてくれるものかもしれない。だからこそ、聖なるものに人は惹かれるのだろう。
人はなぜ聖なるものに惹かれるのか?
エリアーデの旅路を辿りながら、これからの人生のデコボコをつくっていけたらきっと楽しい未来が待っているだろう。