なぜ意味を求めるのか?―ノルベルト・ボルツ【百人百問#005】
仕事では働く意味を問われ、学校では学ぶ意味を問われる。私は何のための働き、何のために学ぶのか?そう問われると、とても困惑してしまう。
かつては意味を答えやすかった時代もあった。高度経済成長期であれば、いい大学、いい会社、いい給料のために学ぶと言えたし、戦後であれば日本を発展させるために働くとも言えた。明治期であれば富国強兵のためとも言えただろう。社会が大きく前進している時代には意味は問いやすかった。さらに遡って、古代や中世であれば「家」のため、将軍のため、極楽浄土のために生きることもできた。
しかしながら、ポストモダンという時代になって、私たちは「大きな物語」とも呼べる、誰もが納得する意味から解放され、分かりやすい意味を失ってしまった。すべての人が多様であり、個々を重視するが故に、「みんなと同じ」意味は無くなってしまったのだ。
ドイツの哲学者であるノルベルト・ボルツはメディア論の専門家であり、『意味に飢える社会』で、意味が失われた社会について論じた。この時代の変化に関して、ボルツは「われわれは今日、主に三つの単数集合名詞からの解放」を迫られているという。
その三つというのは、「歴史」「現実」「人間」である。
「歴史」はコミュニズムの没落以降、大きな歴史と進歩史観が失われ、個々の小さな歴史になってしまった。「現実」はもはや一つではなくなった。真偽を問いようのない情報も増え、フェイクニュースも溢れ、いまではバーチャルリアリティも生まれている。人によって現実は異なるのだ。「人間」は単一的人間モデルではくくることができず、色とりどりの多様性へと進む。これこそまさに現代のダイバシティの流れを予見している。
このように一つの歴史、一つの現実、一つの人間像で生きられた私たちは、「意味論的カタストロフ」に直面し、いまや困惑しているのだ。
そもそもなぜ意味を失ってしまったのか。ボルツによると、「複雑性Complexity」に起因しているという。意味が一つだった単純性の時代の一方で複雑性の時代に突入している。VUCAの"C"である。
世界は複雑なもので溢れている。経済は一つの理由だけで不況になったり好景気になったりしないし、政治は議論ばかりで単純には進まない。物理法則であっても量子論によって複雑化し、芸術は複雑のかたまりである。身近なものでもスマホの中身は複雑でわからないし、マイナンバーの申請も複雑でわかりにくい。
ドナルド・ノーマン(#002)は『複雑さと共に暮らす』という著作で、複雑さを排除するのではなく、複雑さと共生するデザインを唱えた。
そもそも複雑性とは何か。それは原因と結果が結びつかないことを意味する。AだからB、BだからCと直線的な論理で説明できないとき、それは「複雑」なのである。そのAとBの間がブラックボックス化し、偶然が関与することになる。Aは"たまたま"Bになっているのだ。
社会が複雑化していることで、自己も複雑化する。たとえば、人間本位主義で人間を尺度として捉えることも難しくなる。経営者が投資で失敗したときに、それを経営者個人の責任に転嫁することになるのだが、それは原因を解明できたことにはつながらない。それは円安のせいかもしれないし、天候のせいかもしれない。それほど結果に対する原因は多様なのだ。まさにバタフライエフェクトのように蝶の羽根の動きが台風を起こすことになる。
GDPが成長すれば社会は豊かになり、給料は上がり、私は幸せになる。こんな単純であれば意味を問うまでもない。しかし、本当にGDPは社会の豊かさにつながるのだろうか。給料が上がれば幸せになるのだろうか。そう考え始めると、心がざわついてしまう。そういう人もいるし、そうじゃない人もいる、という相対主義に陥ってしまうのだ。
宗教学者のミルチャ・エリアーデ(#003)は「人間が生きることに意味があるのは、超自然的存在が体現する範型を模倣することによってである」と述べている。つまり、宗教に触れることで生きる意味を獲得するということだ。しかし、宗教のような”魔術”から解放された現代においては生きる意味をとらえにくいのだ。宗教はある種の原因を説明してくれる。偶然起きたことにも意味を導いてくれる。
ボルツはさらに追い撃ちをかける。いままで人類は人間中心に考え、地球が世界の中心であり、生物界で人間が上位に位置するということを説いてきた。しかしながら、それらは否定された。ボルツは人間中心ではない世界をこう列挙する。
*地球は世界の中心ではない(コペルニクス)
*人間も動物の一種にすぎない(ダーウィン)
*自我は自分の主(あるじ)ではない(フロイト)
*精神が技術的に代替できる(チューリング)
*世界の真の写像などありはしない(構成主義)
*歴史を創ることはできず、政治を計画することはできない
*高度に複雑な社会においては分業的合理性しかない(マックス・ウェーバー)
*世界は分析によって解明することはできない
これらによって、「人間が自分自身の姿を世界から教えてもらえるようなところは、どこにもない」とボルツは断言する。
では、どうしたらいいのか?どこに「本当の意味」があるのか?それへの答えは分からない。というか、ドイツの哲学者アルノルト・ゲーレンは「こうして意味への問いは棚上げされるのだ」と言い、社会学者のニクラス・ルーマンは「かくて意味喪失を克服したいという要求だけが残った」と言い、フロイトは「人生の意味を問う者は、病気である」と綴った。
つまり、意味を問いかけること自体が、このポストモダンな世の中では、自分は迷い子になりましたと言っているようなものなのである。言い換えるならば、意味を問うことは、すなわちポストモダンの社会を求めないことを意味するのだ。
近代を超克するためには、意味を問うてはいけない。では、我々は何のために生きるのか?とまた意味を問うてしまう。結局これは禅問答のように終わる。
あえて言うならば、意味を求めずに「意味の身代わり」になるもの、「作為的な意味」を生み出すしか無いともボルツは言っている。「人間は意味を与えることによって重荷を減らしてくれる技術」が必要になっているという。
つまり、ホッとさせてくれる小説のストーリーとか、整然とした美術館とか、近しい人との会話とか、スポーツ観戦などである。単一の意味や大いなる意味を求めるのではなく、文化を楽しむことをボルツは推奨している。特にスポーツだけがまだ「勝つ」ことを許されている、とも語る。わかりやすく上を目指せるのだ。
そして、身体も「意味の新大陸」だと語っている。「元気なこと」「健康なこと」に理由付けはいらない。その意味を問わなくて済む。だからこそ、健康増進のため、幸せのため、ウェルビーイングのため、というのが増え続けているのだ。経済や社会に意味を見いだせなくなった我々は身体と娯楽と文化へ意味を見出す。
なぜ人は意味を求めるのか?
まだまだ意味との付き合いは続きそうだ。