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考えるとは何か?―野矢茂樹【百人百問#010】

おそらくちゃんと「考える」という行為に自覚的になったのは、高校生の頃だったと思う。厳しい寮生活でケータイもダメし、テレビもダメ。マンガもダメだし、恋愛もダメ。ダメ尽くしの閉ざされた空間の中で、週末も容易に外出もできない。

そういうとき人は、身体を動かすか、ジッとするかのどちらかになる。ぼくは後者で、それまで読書家でもなかったのに、いつしか本を読むようになっていた。本しかなかったと言うべきか、そうすると、勝手に考えるようになっていた。

パール・バックの『大地』を読んで中国の近代化について考え、『トルコのもう一つの顔』を読んでヨーロッパとアジアの境目について妄想した。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『車輪の下』を読んで、同じように寮生活で鬱屈した主人公たちに共感した。

そして出会ったのが野矢茂樹の『はじめて考えるときのように』という本だった。なぜこの本を手にとったかは覚えていないが、それ以降大学でも社会人でも本書をたびたび購入してきたように思う。

本書は優しくシンプルな言葉遣いで読者に語りかける文体だ。哲学者でもある著者の誘導によって、「考える」ことを「考える」ように促していく。植田真の柔らかな絵も考える余白を与えてくれる。

最近考えてないなぁと思う時とか、考えるリズムを取り戻したい時とか、情報量の多すぎるSNSに疲れた時に、この本を開くことが多い。副題に「『わかる』ための哲学的道案内」とあるように、考える道筋を案内してくれる。

第1章は「『考える』って何をすることだろう」というタイトルで、そもそも「考える」って何をしていることなのかを問いかける。

考えているとき、きみは何をしているのだろう。
「何をって、考えてるんだよ」
うん、だからさ、そうだな。
「考える」っていうことがまだわからない子どものことを想像してみよう。そしてその子が大人に「よく考えなさい」とか言われたとする。だけどその子にはそれがどういうことかわからない。それできみに質問する。
「考えるって、どうすること?」

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』p14

こんな冒頭から始まっていく。「きみ」と誰かの会話のような文体に、自分を当てはめながら読み進めてしまう。

そこで、この問いを考えてみる。

子どもがみんな欲しがる文房具は何だ?
考えてみよう。そして自分がそのとき何をしているのか、観察しよう。

みんなはどう考えるだろう?
生真面目な人は「みんな欲しがる文房具なんてないだろう」と考えるだろうし、哲学が好きな人は「子どもとはそもそもどんな存在か?」と考えるかもしれない。これが「なぞなぞ」だと気づいた人は「みんなが欲しがるってどういうことだろう」と考えを進める。なぞなぞだと分かれば「文房具の名前が”ほしがる”ような名前なんだな」と考えるかもしれない。

ということで、答えは「クレヨン」。
答えが分かれば簡単ななぞなぞだ。でも著者は哲学もなぞなぞのようなものだと言う。

「考える」っていうのも、けっきょく、ぜんぜん心の状態や心の働きなんかじゃないんだ。頭の中で「思考」という作業をしているわけじゃない。問題を抱えて、問いかけて、うまく答えが思いつかないでいる。たとえそれで同じことをくりかえしたり、頭の中が真っ白になっていたりしたとしても、「考えている」。

コーヒーを飲みながら考えようと思って台所に行って、コーヒーがなくてがっかりして、じゃあ何にしようかなんて探しはじめても、頭を冷やそうと思って散歩でもして、そのとき空に虹がかかって見とれていたとしても、やっぱり、「考えている」。

本書の哲学的道案内は、なぞなぞから始まり、考えると考えないの境界線について、アルキメデスの「ヘルレーカ!」について、など「考える」あれこれを案内していく。

そうすると次第に気づいてくる。
そうか、考えるって自由なんだ。
ちょっとずつ考えることがわかってくる。

考えるっていうのは、そうした習慣的な結びつきの網の目から出ていくことだ。(中略)いままでになかった関係でもって結びつきはじめる。もうお風呂はただのお風呂じゃないし、コップもただのコップじゃない。まわりのものたちが、いつもと違う顔つきになる。

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』p42

あぁ、考えるってそういうことだった。
「それ、くれよ」が「クレヨン」になるように、「いつもと違う顔」が見れるようになることだ。そんな結びつきの網から出たくて、本を読んだり、考えに耽ったりするんだった。中国やトルコや寮生活がいつもと違う顔になる。だから、閉鎖された寮の一室であっても、世界の見方を変えることができる。そんな実感があったのかもしれない。

この本で一番好きなのは第2章の「問いのかたち」だ。この「百人百問」も問いがテーマで、いつも問いばかりを考えているぼくにとって、何か自分のルーツのような気がする章だからだ。

「問い」は考えるきっかけを呼び起こす。いままで考えたこともなかったことを「問い」は起動してくれる。問いの大家と言えばソクラテスだろう。答えではなく、問い続けることで思考を重ねていった人物だ。

ある日、メノンという青年がソクラテスに対して「徳とは何か?」と問うた。ソクラテスは「わからないよ」と言った。

メノンは言う。
「ほぉ。わからない。あなたが。へぇ。いいですか。国に帰ってそう言いますよ。あのソクラテスが、わっからなかったって」

ソクラテスは答える。
「いいかい、メノン。そもそもぼくには『徳』というのが何であるのか、それがわからないんだ」

そうして、ソクラテスは産婆術とも呼ばれる問答で、メノンに「徳」の定義を求め、いちいちそれを論破していく。メノンは自身の無知を知ったのか、なさけなくなって憤然としてしまう。

いまとなっては有名なソクラテスの「無知の知」だ。
ここにあるのは「問いを問う」ということだと野矢は綴る。これはいったいどういう問題なのか。そう問うてみると答えへのヒントになる。

「死とは何か?」という問いを考える時に、「死とは何か?とは、どういうことなのか?」と問うてみる。そうすると、なぜこの問いがあるのか、この問いの背景は何か、これが解けた先には何があるのか、と問いは膨れ上がっていく。この時点ですでに「考える」ことが始まっている。

考えるということ。問題を考えるということ。それは問題そのものを問うということだ。問いへの問いが、答えを求める手探りといっしょになって、らせんを描く。答えの方向が少し見えて、それに応じて問いのかたちが少し見えてくる。そうするとまた答えの方向も少し見やすくなってくる。そうして進んでいく。

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』p65

「子どもがみんな欲しがる文房具」を問うとはどういうことか、と考えると、それが哲学的問いなのか、文具メーカーの問いなのか、なぞなぞなのかがわかってくる。そうすると自ずと答えも見つかっていく。

そもそも問いを生み出すことも大変だ。
子どもが思った「夜空はなぜ暗いのか?」という問いと、アインシュタインが思った「夜空はなぜ暗いのか?」は似ているようで違う。その問いに対する知識や経験が大きく違うからだ。子どもと天才の問いはシンプルなことが多いが、両者には大きな隔たりがある。

結局アインシュタインは「夜空はなぜ暗いのか?」という問いに答えられなかったという。アインシュタインの説では星空がもっと見えてもいいはずだった。ちなみに、その後「宇宙は膨張している」という新説によって、この問題は解かれることになる。

ということは、問いは無知からよりも知識や経験から生まれてくる。まっさらなところからは生み出しにくい。つまり、学べば学ぶほど、新たな問いが生まれてくる。ここから、考えることの終わらない旅が始まるのだ。

野矢は最後に考える技術を伝授してくれる。これは大人でも子どもでも専門家でも素人でも、考えるヒントになる。

①問題そのものを問う
 問題の意味がはっきりしたときに答えも見えてくる。
②論理を有効に使う
 自分の頭の中を整理するために論理は有効。でも直感も大事に。
③ことばを鍛える
 ことばは考える翼。新しいことばは新しい可能性を生み出す。
④頭の外へ
 実際に作業することも大事。書き出す、吐き出す、歩いてみる。
⑤話し合う
 ひとに伝えてみる。意見に出会うこと。変なひとに会うこと。

こうして、野矢茂樹とともに歩んだ旅が終わる。
この旅路に果てに野矢茂樹は、もう一度「はじめて考えるときのように」考えてみることが大事だという。

でも、いちばんむずかしいのは、つめこんだものをいったん空っぽにすることだ。つめこんで、空っぽにしないと、新しいものは入ってこない。こぶしを、開かないと。

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』p220

考えるとは何か?
そう問い続けることが、また次の新しい顔に出会い、次の問いを生み出してくれる。やはり、この本はぼくにとってのルーツだった。


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