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ホットケーキを食べたかったトラ。(1)

手洗いうがいを欠かさず、出かける時には必ずマスクをつけていたのに、まことは風邪をひいてしまった。つばをのみ込むたびに、のどが痛む。理由は分かっている。妹ふたりの風邪がうつってしまったのだ。
「あらら、とうとうお兄ちゃんの番かしらね?」
お母さんから体温計を受け取ると、まことはわきの下にはさみこんだ。37.5度。これからもっと上がりそうな勢いだ。まことのほっぺは林檎のように赤くなり、頭の上から湯気でも上がっているんじゃないかと思うくらい、ボーッとしてきた。

「パジャマに着替えて、自分の部屋でねてなさい。夕ご飯ができたら声かけるから」
病気の時だけは、お母さんはとてもやさしい。リビングでおやつを取り合ってケンカしている、双子の妹たちの甲高い声が、頭にガンガンひびく。うるさいな〜。でも今のまことには叱る元気もない。

その晩、熱は39.2度まで上がった。次の日の朝早く、まことは近所の小児科に連れていかれた。生まれた時からお世話になっている病院だ。
「のどがかなり赤いな。こりゃ痛いねえ」
おじいちゃん先生が、のどの奥にライトを照らしながら言った。薬局で薬をもらうのを待つ間も、とにかくのどが痛くて、身体がフラフラする。こんなにしんどいのは初めてだ。
「インフルエンザじゃなかっただけ、まだ良かったかも」
なぐさめのつもりで言っているであろうお母さんの言葉も、まことには何の意味もない。

「風邪って、なぜだか分からないけど、後からかかる人の方が余計に辛いのよね」
えー。それってすごく不公平じゃないか。ちかもみかも、もうすっかり良くなって元気にしている。保育園で風邪菌をもらってきたのは、あいつらだって言うのに。どうしてぼくが一番しんどい思いをしなくちゃならないんだよ。まことはハアハアと荒い息をしながら、そう思った。

結局5日間、まことは寝たきりだった。まことの一日は、眠ること、寝返りを打つこと、ちょっとずつ水を飲み、ご飯を食べること、トイレに行くこと、汗をかいたら着替えること、これらの繰り返しだった。食いしん坊でふっくらしていたまことのほほは、たちまちのうちに痩けていった。顔は逆三角形になり、カマキリみたいになった。食べられるものと言えば、卵入りのおかゆかうどん、一口大に切ってもらった林檎くらいだ。家族が食べているハンバーグやカレーライスを見ても、まったく食欲がわいてこない。

「大丈夫よ。風邪が治ったら、また好きなものをいっぱい食べられるようになるから」
お母さんが言った。
「まことは強いな。お父さん、見直したぞ。あともう少しがんばれ」
お父さんも言った。大人たちはどうして風邪ひかないんだろう。まことが小さな声でつぶやくと、
「そりゃあ、気合いが違うのさ。お前たちのこと、いつも守らなきゃって思ってるから」
ドンと自分の胸をたたきながら、お父さんがにやけた。

ちかとみかは、自分たちが、兄に風邪をうつしてしまったことを、申し訳なく思っているらしかった。時々、部屋にやってきては、
「にいちゃんが元気になるように、おてがみ書いたよ」
とらくがきを持ってきたり、
「にいちゃん、このお菓子、美味しかったから半分あげる」
と、食べ残しのお菓子を運んできたりした。

「ありがとな」
家族に心配され、気を使われるのは、まことにとっても嬉しいことだ。いつもは「お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい」「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」しか言われていないのだから。

(あいつらも、大人しくさえしてくれてたら、可愛い妹たちなんだけどな)

熱を出してから一週間がたった。明日からようやく登校できそうだ。
「まこと、今日までは家でゆっくりしてなさい」
妹たちの荷物を用意しながら、お母さんが言った。
「いいなあ、にいちゃん。ちかも保育園、お休みしたい」
「ちかがお休みするなら、みかもする」
「あんたたち、何言ってるの。この前風邪ひいて、何日もお休みしてたじゃないの!」

みかがイヤだイヤだとだだをこねて、お母さんの手をわずらわせている間に、ちかがスタスタとまことの元にやってきた。左手には、小さなノートをにぎっている。そして、リビングのこたつでゴロンと横になっていたまことの傍にしゃがみこんだ。

「にいちゃん」
「なんだよ」
「あのね、ちかがにいちゃんの願いごとをかなえてあげる」
「え?」
一瞬、まことは妹が何を言おうとしているのか、よく分からなかった。
「あのね、夕べ、ちかとみかでおまじないを考えたの。にいちゃんが元気になるようにって」
「なるほどな。そのおかげでにいちゃん、こんなに元気になってきたのか。ありがとな」

「それだけじゃないよ。にいちゃんが、風邪をひく前よりももっと元気になるようにって、ふたりで考えたんだよ。それでね、願いごとをかなえる呪文を作ったの」
「へええ」
まことはおどろいた。

(女の子ってこんな小さい時から、バカみたいなことを真剣に考える生き物なんだ)

「そりゃあ、ありがたいな」
まことはなるべく、ありがたがっているような素振りをしてみせた。ちかはうんうんと小さくうなづきながら、兄の発するであろう、次の言葉を待っている。
「そうだな。何にするかな…」

少し時間をかけて、まことは考えた。でも何も思いつかない。欲しいものなら沢山ある。ゲームのソフトや新しいサッカーシューズ、ナイキのジャージ、それこそいくらでもある。でも物を欲しいと言ったところで、どうなるものでもないことも、五年生になれば流石に分かる。保育園時児にお願いするなんて、兄としての面子もつぶれかねない。何かないかな。

「そうだ」
ようやく、まことは思いついた。
「今日、何かスペシャルなことがありますように」
「スペシャル?」
ちかが首をかしげた。
「とくべつに、面白いことっていう意味」
それを聞いたちかは、早速おぼえたてのひらがなでノートに文字を書き込んだ。

「よし、これでいいよ。にいちゃんの願いがかないますように。ゴニョゴニョゴニョ」
まことは笑いをこらえるのに必死だった。きっと「ゴニョゴニョゴニョ」の部分が、妹ふたりで考えた呪文なのだろう。ここで笑ったら、せっかくの妹たちの好意を無にすることになる。


(つづく)




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宮本松
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