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おさげ髪のルミちゃん。(夏①)

<4>プールでのハプニング。

教室が校舎の中でいちばん高い場所に移っても、窓の外から聞こえるセミの鳴き声の大きさは変わらなかった。風を通すために開け放たれた、長方形の四角い窓から、全力で音が侵入してくる。数本の大きなクスノキが、蝉たちの避難場所のようだ。

セミが鳴くということは、夏がきたということ。夏がきたということは、水泳の時間がやってくるということ。しのぶは泳ぐのが苦手だ。苦手なんてものじゃない。顔を水につけるのが、異様にこわいのだ。

「どうしてそんなにこわいのよ。毎日お風呂で髪を洗ってるじゃない?」「あれとこれとは別なの」

これもお母さんには分からないのだ。シャワーなんて、じょうろの水を強くしたくらいしか水は出てこない。いつでも息ができる。でも水の中に顔をつけてしまったら、呼吸できなくなってしまう。万が一、頭の後ろからだれかに押されでもしたら…。窒息してしまうよ。こわい、苦しい。いやだ、絶対、だめ、だめ。

過去二年間、しのぶは夏休みの水泳教室に無理やり通わされたが、まったく意味がなかった。バタ足までは大丈夫なのに、その後が無理なのだ。

「村上さんの体はちゃんと浮いてるでしょ。あとは慣れるだけ。水に顔をつけるだけよ」

若くてきれいな女のコーチが、やさしく指導してくれる言葉は毎回、しのぶの耳を素通りしていった。だれの言葉も聞くつもりはない。嫌なものはいやなのだ。

とうとう四時間目がやってきた。男子が先に着替えて教室を出ていった。今度は女の子たちがワヤワヤとうれしそうな声をあげながら、大きなバスタオルでからだをかくして着替えをすませていく。

「佐々木さん、その長い髪、どうするの?」
だれかが、興味深そうにたずねた。
「ああ、これ?こうやってクルンと巻いて、水泳帽の中に入れちゃう」
「わあ、すごい」

あんなに長い髪が、すっぽりと帽子に収まってしまった。顔周りがすっきりすると、佐々木さんの大きな目は余計に大きく見える。水着姿も、オリンピックの水泳選手みたいに堂々としている。

「泳ぐの上手そう」
まただれかが言った。
「ぜーんぜん、だめ。わたし、泳げないの」
佐々木さんが楽しそうに返事をしている。
(え、泳げないの?わたしと同じじゃない)
しのぶは、なぜか心が軽くなってくるのを感じた。

「はい、君たちはこっちで練習してなさい」

プールサイドで体育の授業が始まった。となりのクラスの若い男の先生に言われて、泳げない子どもたちは、一番はしっこのレーンに移動し、ビート板をもってバタ足を始めた。たったの四人。その中にしのぶも佐々木さんもふくまれている。佐々木さんは前の男の子に続いて、にこにこしながらバタ足を始めた。

プールのはしまでたどり着くと、今度は向きをかえて歩き始める。ずっとバタ足なんて体力がもたない。水の中を歩きながら呼吸を整える。前を歩いていた佐々木さんが、ゆっくりしのぶの横にならんだ。

「この学校は楽だよねえ」
「どこが?」
「だってね…」

佐々木さんは目をキラキラさせていった。
「前の学校じゃ、無理やり練習させられたよ。泳げない子は、顔をつけるところから。泳げない子はダメな子で、泳げるようにならなくちゃ人として失格だ、みたいな空気だった」

しのぶの学校は、そこまでスパルタではない。一応の指導はしても、泳げない子はそのままだ。

「佐々木さん、練習しなかったの?」
しのぶは聞いてみた。
「したよ、もちろん」
「じゃあ、泳げるんじゃないの?」
「ううん、無理。息つぎしなくていいなら、クロールまでは出来るようになったんだけど、それ以上は無理なの」

しのぶは驚いた。
「ええ!じゃあ、こんな泳げないグループにいる必要ないよ。他の子たちと同じとこにいって、練習すればいいじゃない?」

どうしてもっと上達したいって思わないの?泳げないのが恥ずかしくないの?ムキになっているしのぶを見て、佐々木さんはおかしそうに笑った。

「だって泳ぐより、水の中でふわふわ浮いている方が、あたし、好きなんだもん。ほらみて」
佐々木さんは、しのぶの前におどり出て、水中でスキップしているように足を動かした。
「ね、面白いよね。水の中ってからだが軽くてさ。宇宙にいったら、こんな感じなのかな」

キャッキャと飛びはねている佐々木さんを見ていると、しのぶは自分のことがバカらしくなってきた。

(なんで今までこわがってばかりいたんだろう。水の中って楽しいんだ。無理に泳がなくてもいいんだ)

試しにしのぶも、右足のつま先で床をグッとけってみた。ふわああんと、からだが水に包まれたまま前に進んでいく。もう一度、今度は左足で。

(ふ、面白い)

二人で宇宙ごっこをしながら、反対側のはしまで歩いていくと、となりのレーンで女の子たちが騒いでいた。どうやら髪留めを水の中に落としてしまい、みんなでそれを探しているようだ。代わる代わる、水の中に潜っている。

「あった?」
「なーい」
「どこにいったのかなあ」
広いプールの中にしずんでいった髪留めは、どこかでユラユラと動いているのだろう。

「あたしも探す」
佐々木さんが、大きく息を吸ったかと思うと、両腕を前でそろえて、水の中に潜っていった。

「こらこら、そこ、何してるんだ」
子どもたちの騒ぎを聞きつけた先生が、注意をしにやってきて、他の子たちはまた練習にもどった。

(…あたしも)

まだ浮かんでこない佐々木さんを待たずに、しのぶも、カプンと水に身を沈めた。大きくふくらましたほっぺには、まだ沢山の空気が入っている。大丈夫、息は止まらない。水の中で目を開けてみる。わ、青い。プールの壁の水色が、水の青さをさらに増してみせている。透明な水の中を、子どもたちが泡を立てながら、次々と泳いでいくのが見えた。

(これが水の中)

しのぶは髪留めを見つけようとしていたことも忘れて、壁のそばでしばらくその光景をながめていた。上を見上げると、水の表面に輪っかのような模様が見えて、その向こうに空が透けてみえた。

そろそろと浮かび上がっていくと、佐々木さんがこちらを見てニヤッとした。


(つづく)





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宮本松
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