ひたむきな、余りにひたむきな ~息子へ~
息子の幼稚園の生活発表会を観に行ってきた。
今通っている幼稚園は園児がとても少なく、息子の所属する年少クラスは五人しかいない。園児の多様性に富みながらも、先生方の尽力のおかげで個性の発揮できる環境が整っている。以前の園で過剰適応になってしまった息子も、現在は徐々に自分らしさを表現できるようになってきているようだ。
生活発表会では先生と園児たちで作った歌や踊り、劇などを舞台で披露する。わが子は、大勢の前で何かを披露することは初めての体験である。息子はとても緊張しているようだった。それでも他の子たちと一緒に、口を開いて手足を動かして、時に笑っている。
その姿を目にした瞬間、涙を堪えることができなかった。頬が温かくなる。感情の海に溺れて、息子の生まれたときのことを思い出した。
息子が生まれたのは四年近く前の、まだ肌寒い三月のこと。
息子は分娩時、胎便吸引症候群となり、かなり危険な状態であった。胎便吸引症候群とは、赤ちゃんの便で汚染された羊水が気道内に入り込み、呼吸障害を引き起こすことである。そのため急いで分娩が行われ、母親と対面もできないままNICUへ運ばれた。
妻も産後の状態が不良であり、すぐに息子に会うことができなかった。新型コロナウイルスが猛威を振るう中、私だけが一度のみ、直接の対面を許された。
正直言うと、私はこれまで子どもを持つことに消極的だった。自分が父親になる資格などなく、自信もなかったからだ。私のようなネガティブで不安症な人間がよい父親になれるはずがない。だから顔を見ることが、とても怖く感じられた。顔を見た瞬間に、私の背中に重たい「責任」という文字が刻まれる。それは私の人生にとって耐えられない枷となるのだろう。
しかし躊躇う暇もなく、看護師に促されて保育器の前に立った。一瞬強く瞼を閉じてゆっくり開けると、そこには呼吸器や経管栄養、多種の管に繋がられ、必死に呼吸をしている赤ん坊の姿がある。
ああ、私だ! この目、この口の形、あ、それから眉毛も。私そっくりではないか。目の前にいるこの子は、私の命の一部を切り取った、限りなく私に近い命を持った存在なのだ。そう確信した。
ひたむきに呼吸している。ひたむきに目を開けている。ひたむきに足を動かしている。何かを漕ぐように。ときに、ひたむきに泣いている。どんなに声を上げても騒がしくなんかない。春を告げる囀りみたいだ。
息を吸って吐いているだけでこんなにも尊いなんて。一つひとつ、すべての動きが愛おしい。
いつか私は、自分のことを「呼吸をする粗大ゴミ」だと思っていた。でもそれは違ったのだ。状況に関係なく、呼吸をするだけで奇跡なのである。心臓が拍動する。肺が空気を循環する。ただそれだけで命は激しく燃えている。必死に頑張っている。それが人間なのだ。
命や人生に意味なんていらない。何者にもならなくていい。君はそのまま、ありのままで、何よりも美しい。
これから先、私たちと一緒に嬉しいことも辛いこともたくさん経験していくだろう。でも、君の未来が明るく平和なものであるように、私は父親として全力を尽くしていくことを約束する。
今まで生きていて、こんな気持ちを抱くことはなかった。息子と一緒に生まれた、初めての感情だった。黒ばかりのオセロがすべて白にひっくり返ったように、私の心に革命をもたらした。これから君と、どんなことも乗り越えていくのだ。
ああ、あのときの息子が今、舞台で自分を表現できるようになったのだね。緊張してうまく踊れなかったり、たくさん失敗したりもしている。でも、ひたむきに身体を動かしている。生まれたあの日よりも、もっともっと大きく美しく。
今この瞬間、私の中で何よりも発光して見えるのだ。
息子よ、息子よ。君がどんなことをしても、どんなことがあっても、私はあのときから気持ちが変わったことはない。これからもそうだ。
生まれてきてくれて、生きていてくれて、ありがとう。
君は私よりも大切な宝物、いやこんな陳腐な表現ではない。そうだ、存在そのものが「幸せの象徴」である。君はそのままで最高に価値があるんだ。どんなときも、いつでも忘れないでほしい。君を愛する私がいることを。
いつか息子が文字を読めるようになって、文章も理解できるようになったら、このエッセイを読んでほしいと思う。
そのとき、君はどう思うかな。どんな表情をするのかな。今から楽しみにしている。
ひたむきに嬰児呼吸す春の昼
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