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私の子育ての軸を作った長男出産の話 | NICU出身、低出生体重児の妊娠出産体験記

こんばんは、みつまめです。
突然記憶の扉が開き、次から次へと出てくる言葉を拾い上げ、"あの子"の話を書いたのが、今年9月終わり頃。

あれ以来どうも記憶の扉がゆるゆるになっているらしく。
ふとした瞬間に、風に揺れるかのごとくふっと開くことがあります。
今度は長男の妊娠中、出産直後の頃の事がちらちらと顔を出しています。

"あの子"を見送ったのは2月。長男を出産したのも2月。
雪がちらちらとこぼれ落ちてくる重く厚い雲。灰色の景色。薄暗く長い病院の廊下。
"あの子"の記憶と長男妊娠中の記憶は、何だか色彩が似ていて、オーバーラップする部分が多いからかもしれません。
あと寒くなってきたし、時期的なものもあるのかな。


命は理不尽で、人の思い通りになんてならないもの。それを教えてくれたのは"あの子"でした。
"あの子"が教えてくれたことを、実際のエピソードとして私に経験させ、強く印象付け、私の子育ての軸を作るきっかけをくれたのは長男でした。

今回は母親である私が感じた、長男妊娠・出産の事を記録しておきたいと思います。
相変わらず私のための記録。
フルボリュームな7400字。目次を活用しつつ、適宜読み飛ばしながらお進みください。笑


※「胎児発育不全」「低出生体重児」「NICU」などのワードでこの記事にたどり着いた方へ
こんな辺境のnoteにたどり着いて頂きありがとうございます。
当記事は、長男の妊娠出産を通じて「母親の私が感じていたこと」を整理する内容の記事です。
あまり有益な情報はないかもしれません。すみません。
「おまけ」には長男がその後どう育ったか?を書いたので、そちらは1つのケースとして参考になるかもしれません。
もし今後うちの子はどうなるの?と不安に思われているようでしたら、よろしければ目次から飛んでみてください。


妊娠初期

長男の妊娠が分かったのは、"あの子"を見送り、次に進むと決めてから1年ちょっとが経過した頃でした。
いざ妊娠となると、喜びの気持ちはもちろんあるものの、"あの子"の時とは違い不安でいっぱいでした。
無事に育ってくれるんだろうか。
心臓は動いているだろうか。
また居なくなってしまうのではないか。
怖くて仕方なかったです。

その後受診し、7週目のタイミングで無事心拍確認となりました。
仕事の都合がついた私の誕生日、長男の母子手帳を貰いに行きました。
母子手帳が"あの子"と、お腹の子(長男)からのバースデープレゼントのように感じ、嬉しかったのを覚えています。

ただ、心拍確認ができても、母子手帳を貰っても、不安は小さくはなりません。
実母にも夫の母にも会社にも、今回の妊娠は出来るだけ長く黙っておきたい、できれば安定期まで黙っておけないもんか、と考えていました。
ただ、やはり現状はなかなか難しかったです。

母子手帳を貰った辺り(7週目くらい)からつわりが本格化しました。
仕事にいけない程ではなかったけど、通勤が満員電車でかなり辛くて、急な吐き気や腹痛などで途中下車して休憩しながら向かったりしていました。
さらに私は当時営業職な上、異動の話が持ち上がっていました。
上司にはやむを得ず母子手帳を受け取った段階で報告しました。

また、その時期夫の祖父、私の祖父が病気になり、もう長くないかも…といった話が出ていました。
夫や私の祖父に伝えて、夫のお母さんや私の母に伝えない訳にもいかないので、結局12週頃までには身近な人には報告していたと思います。

つわりについて (ちょっと脱線)

つわりは重かった方ではないですが
・常に胃の中がもやもやしている
・食欲はあるけど、自分でも謎のタイミングで突然込み上げてきて吐いてしまう
・歯みがき粉、車の芳香剤、柔軟剤、香水、お香などの人工的な匂いがことごとく駄目になり、朝の身支度や通勤電車、掃除や洗濯が地獄
・スイッチが入ると水も吐くので、何故か絶対に吐かなかった"グリーンダカラ"をずっと飲んで脱水を防いだ。
・異様に疲れやすく、帰宅後は横になってからでないと動けない。疲れると吐き気が出がち。

といった感じでした。

妊娠中期

つわりはスッキリなくなり、ぷくぷく、ぽこぽこと可愛らしい胎動も感じはじめた頃は、私の妊娠中の黄金期(?)でした。
しばらくは出掛けられないからと友人とあちこち出掛けたり、妊娠出産関連のコミックエッセイを読みまくったり、保育園を調べたり、家を掃除しまくったり、かなり動き回っていました。

長男は順調に育っていました。
困り事は横位だったり逆子だったりで、頭を下にした正常な位置に収まる気が無かったことくらい。
逆子体操したり、鍼灸院にお灸しに行ったり色々試していました。

逆子でちょっと面白い事もありまして。
後期に近づくとお腹の上の方で丸いものがポコっと出たりするんですが、先生に聞いたら頭なんだそうです。
逆子は胎児の頃から頭を撫でることが出来ます。
逆子ならではの、ちょっと愛しい思い出です。

仕事の疲れが出る夕方頃にお腹の張りを感じる事が多く、張り止めを飲んでいたけど、仕事は休まず行けていました。

家族のことと、「怒り」について (またまた脱線)

安定期に入る直前頃に私の祖父は亡くなり、妊娠中期の終わり頃には夫の祖父も亡くなりました。
私はおじいちゃん子だったので、妊娠を伝えたときの祖父の驚いたような、くすぐったいような、照れ臭いような、何とも言えない嬉しそうな表情はよく覚えています。
夫の祖父もかなり喜んでくれたそうです。
二人に長男の顔を見せられなかったのは、本当に残念でした。

夫の祖父のお葬式で、ある方たちからかけられた言葉が私にとってはすごく不快で、鳥肌が立つほど気持ちが悪く、強烈な怒りを覚え打ちのめされたりもしました。

相手方に悪気はないのですが、私には強烈な印象を残しました。
一字一句、記憶に残っています。
多分"妊娠中の恨みは一生残る"という類いのやつです。
この時の印象が決定打になり、夫の親族のある方が今でも苦手です。(感情としては"生理的に受け付けない"レベル)

※「怒り」の記事に少しだけ書いていました。
長い記事なので、もしご興味があれば目次から辿ってみてください。
イライラ・怒り(易怒性)について考えてみた

妊娠後期

後期に入ってからも長男の逆子は直ることはなく、予定帝王切開が決まりました。
色々な経験談を読みあさり、頭でっかちで"自然なお産"信者になっていた私は割と落ち込みました。
逆子体操、お灸、身体を暖める食事、お腹が張らないよう身体を冷やさない等、最大限出来ることをやっていたのに、報われない…と感じていました。
この時"あの子"から教わったことはすっかり頭から抜け落ちていました。

なお、この帝王切開の事や里帰り出産しない事などについて実母から色々言われたりして、この辺りも未だに傷は残っています。
(ぼんやりしていて全く記憶を引っ張り出せなかったので、詳細は飛ばします)

それでも無事産休に入り、夫と受診した36週の検診。
「赤ちゃんが上手く育っていていない。2000gもなさそうだ」と言われます。
もし生まれたあとに問題があった場合、ここ(クリニック)の設備では対応出来ないのでNICUに搬送される可能性が高い。
NICUのある病院を紹介するから、診てもらってください、と言われました。
妊娠36週には2000gは越えているのが正常範囲内。
範囲から外れた場合は「胎児発育不全」と呼ばれます。
胎児発育不全の70%はただ小柄なだけで異常はなしというケースのようですが、残り30%に入るかどうかは産まれてみないことには誰にも分かりません。

出産直前での急な転院と、想定外のNICU(新生児集中治療管理室)の言葉。
そして、今まで順調だったにも関わらず「上手く育っていない」という事実。
完全に気が動転してしまいました。

"あの子"の時を思わせる曇天の、小雪がちらつく日。
転院先に急ぐ夫の車の中で、これからどうなってしまうんだろうとただ不安でした。

出産まで

転院先でも、「現時点で特に異常はみられないけど、体重は2000gあるかないかくらい」との見立てでした。
長くお腹にいてもこれ以上育つかどうか分からないし、育つのを待つ最中に赤ちゃんが急変したり陣痛が来てしまった場合に大変なので、正産期(37週)に入ってすぐ出産する事になりました。
正産期にさえ入れば、生まれてから何かあった場合はNICUで対処していった方がリスクが少ない、という事のようです。

あれよあれよという間に出産日が決まり、入院前の一通りの検査も済ませてその日は帰宅。
お腹の中の長男と過ごせる時間は僅か1週間となりました。

残された1週間。
帝王切開は嫌だとか怖いとか言っている場合ではなくなり、入院準備をしたり、夫のために食事の作り置きをしたり、ただバタバタと過ぎていきました。

皮肉なことに、長男の胎児発育不全が分かったからこそ、私の頭でっかちな考え方は全て吹き飛び、"いのち"に対して真摯な気持ちになれました。

子どもは親の思うとおりになんてならない。
それでも子どもは、私がどうなっても構わないと思うくらいに大切で、とてつもなく愛しい存在。
私に出来るのは、最善の手段でお腹の子をこの世に送り出す選択をすること。
生まれた子を守ること。

僅か1週間でしたが、出産に対して前向きに臨む気持ちになれました。

NICUに入院

予定通り37週目、帝王切開で長男は生まれました。
低出生体重児ではありましたが2000gは超えていて、元気に産声を上げてくれました。

出産時点で特に異常は見つかりませんでしたが、帝王切開の子が起こしやすいとされる新生児低血糖と、新生児多呼吸でNICUに入ることになりました。

あとから振り返ると「今のところ異常は見つからないけど念のため」という理由だけでNICUに入れた事はかなり恵まれていたと思います。
NICUのある病院は限られているし、より重症度の高い子が他にいればNICUには入れていなかった可能性もあります。

ですが、当時はそんな事に思い至る余裕もなく、「どうしてうちの子が?これから何か見つかるのか?」と不安な気持ちでいっぱいでした。
生まれたての我が子が酸素、点滴、その他色々な機械に繋がれている姿も、より不安な気持ちに追い討ちをかけるようでした。

さらに当時入院していた病院は産科からNICUまでの導線が異様に悪く、それにも気力体力がゴリゴリ削られました。
産科の自分の部屋からNICUに到着するまで、同じ建物内なのに10分以上もかかるんです。
(帝王切開で、傷が痛いまま点滴台をお供に歩くので余計に時間がかかる)

長男は身体が小さい為か体力があまりなく、上手く母乳が飲めませんでした。
そのため、授乳の度にミルクを追加で飲ませる必要がありました。
出来るだけ母乳を与えるため、搾乳も必要でした。
NICUの授乳時間は、きっちり3時間おきで管理され、飲む量も決められています。

NICUに到着してすぐおむつ替えと体重計測→直母の練習→体重計測→上手く飲めていない→ミルク作ってもらい足りない分を飲ませる→長男をコットに寝かせて搾乳→長男と搾乳をNICUに預ける
ここまでで約2時間くらい。

10分かけて産科病棟に戻った直後に「長男くん泣いてます、次の授乳まで少し早いけど来れますか?」のお呼び出しで、また10分かけてNICUにとんぼがえりするという…
傷は痛いし猛烈に疲れているのに、自分の部屋にはほぼ居られず、朝から晩までNICUと産科の部屋を往復して時間が過ぎる…といった感じでした。
夜中も当然3時間おきに搾乳していて、ほとんど眠れませんでした。
さらにお見舞いに訪れた親族の予定を、合間の時間に調整しなければならず。

身も心も疲れきってしまい、自分の部屋でも、NICUに向かう廊下やエレベーターでも、NICUの授乳室(兼搾乳室)でも、なんの前触れもなく涙が出てしまう状態でした。
完全に産後うつに片足を突っ込んでいました。
長男には会いたいけどNICUに通うのが辛い、異常がないなら早くNICUから出して同室にさせて欲しい、と思っていました。

それでも、長男が次第に母乳を飲めるようになっていったり、NICUで他のお母さんと少し話す機会があったりと、少しずつ気持ちは落ち着いて行きました。

特にNICUでご一緒したお母さんたちのお話はすごく印象的で。
「母子ともに健康」という事がどれくらい奇跡的な事なのか、気付く事ができました。

原因は分からず、突然早く生まれてしまう子もいる。
出産時に誰も想定していなかったいのちの危険がある事もある。
誰も悪くないのに、病気を持って生まれてくる事もある。
多くの人が当たり前だと思い込んでいる「母子共に健康」という状態は、実は当たり前ではないのです。

長男は今健康と言えるかどうかはよく分からないけど、今は私に出来ることを、この子のペースに合わせてしていくしかないんだ。
そう考えることが出来ました。

長男は結果的に生後6日目までNICU/GCUで過ごし、退院前日の生後7日目に産科で1晩だけ母子同室、翌日私と一緒に退院して帰宅することが出来ました。

(あとからみたら退院時の体重2000gくらいだったんだけど、正産期産まれで他に異常なしだったから退院させて貰えたんだろうか。不思議。)

子どもは親の思い通りにはならない

長男の妊娠、出産で経験したことは、私の子育ての軸を作ることになりました。

子どもは親の思う通りにはならないし、思い通りにしようとしてもいけない。
それは"いのち"に対してとても傲慢なこと。

子どもは生まれた瞬間から私とは"別の人"
赤ちゃんでも幼児でも、一人の人として尊重する。

子どもには子どものペースやタイミングがある
結局はその子のペースやタイミングに合わせて、その都度何が良いのかを決めるしかない

"あの子"の計らいなのか、長男が「普通」にはハマらないマイペースくんなのか。
どちらなのかは分かりません。
でも、"あの子"と長男の経験がなかったら、私は理想主義で、親の理想を子どもに押し付けるような親になっていたような気がします。

理想にとらわれやすい性格の私が、その後の子育てで大きな悩みを抱えることなく来られたのは、"あの子"と、長男の経験がブレない軸を作ってくれたからだと思っています。
私の人生には必要な経験だったのだと、今は思っています。

約3年半後に38週で産まれた次男も、生まれてみたら推定体重よりも小さく低出生体重児でした。
次男も保育器に入ったし、退院日までに基準の体重をクリアできず、一緒に退院出来ませんでした。
ですが、先生や助産師さん、看護師さん達が驚くくらい全く落ち込まず、ただそのまま状況を受け止めることが出来ました。
結果的に1日遅れで次男も退院出来たのですが、きっと何日遅れでも搾乳を持って、淡々と病院へ通っていたと思います。
これがこの子のペースなんだろう、何よりも元気そうだし、と思って。
我ながら図太いな、経験って凄いな、と思います。

次男の出産話も、もし機会がありましたら、いずれ書こうと思います。

NICU出身の低出生体重児、身体は弱いけど健康です (おまけ)

ここから先は、胎児発育不全→NICU入院した低出生体重児(37週出生)が、その後どのように育ったか?のケースをおまけとして書いておきます。

冒頭にも書いたのですが、タイトルにNICUって入れたので、もしかするとお子さんが低出生体重児だったり、同じような経緯でNICUにいて不安な方がいらっしゃるかもしれないと思いまして…

そして私自身、長男がNICU退院する時に「低出生体重児はアレルギーになりやすい」「肥満体質になりやすい」といった説明をされて、それってどこまで信憑性あるの?と疑問に思ったので。

参考になるかは分かりませんが、ご興味がありましたら1つのケースとしてご覧になってください。

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長男の今

長男は現在8歳(小3)です。
寝返りは6ヶ月、お座りは7ヶ月、ハイハイは8~9ヶ月とかなりゆっくりめで心配しました。
その後1歳2ヶ月で保育園に入り、周りの子達に刺激を受けたのか歩き始めは1歳3ヶ月、発語は1歳4~5ヶ月頃でした。
発達面は今まで特に指摘されたことはないのですが、身体の発達も精神面の発達も、どことなく同学年の男の子よりやや幼いような気はしています。
HSCではあるようですが、以前ほどHSCっぽさを感じる事は少なくなりました。

体格は未だに小柄

割と大食いなのに、身長体重は未だに成長曲線の下限。
1~2年生の群れに紛れると見失うくらい小さいです。
身長については何度かかかりつけ医に相談しましたが、ギリギリ正常範囲内に収まっているし、身長の伸びが止まったわけでもないので様子見、ということになっています。
私も夫も大きい方ではないので、そもそも小柄な子なのだと思われます。
本人もあまり気にしていない様子です。

体調・体質

体調・体質面については、NICUの先生の予言(?)通り、いわゆる「アレルギーマーチ」を体現するように色々と経験してきました。
箇条書きで挙げると…

・アトピー
・熱性けいれん
・小児ぜんそく
・無症候性血尿
・食物アレルギー
・花粉症

(発症した年齢順に記載)

現在治療や経過観察が終了しているものもあれば、まだ服薬を続けているもの、一生のお付き合いが必要なものもあります。
だいたい就学辺りが治療方針変更や経過観察終了のタイミングのようです。

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文字で並べるとめちゃくちゃ身体が弱そうですが、本人は至って健康(?)で元気いっぱいです。
今している習い事は2つともスポーツ系。
動きがすばしっこくて、ドッヂボールや鬼ごっこも得意みたいです。

また、通りすぎてきた(?)疾患は割とポピュラーな疾患が多いですが、実際親の立場になると悩むようなものばかりです。
何に気を付けてきた?どう対処してきた?といった詳しい話を聞きたい、という方がいらっしゃれば、別途記事にしてみようと思います。
その場合はコメント欄などにリクエスト頂ければと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

※出来るだけ息子個人を特定出来るような情報は避けるように気を付けましたが、場合によっては該当箇所を削除するかもしれません。
その辺りはご了承ください。

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"あの子"の話
合わせて読んでいただくと分かりやすかったかもしれない。大分重い話ですが…

子どもの緊急受診も手慣れたものです

私自身が作り上げた理想のお母さん像も、今は手放せています

あんなに小さかった息子も8年後にはこんな感じ
夏休みの母のルーティン

私自身のぽんこつ化が進行中…

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