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温故知新(62)忌部氏 物部氏 三木氏 大麻比古神社 モン・サン・ミシェル 粟井神社 忌部神社 安房神社 ギョベクリ・テペ 天日槍
忌部氏は、記紀の天岩戸の段に登場する天太玉命(伊弉諾尊 第6代天皇 孝安天皇と推定)を祖とします。橿原の忌部を本貫地とし、各地の忌部を統率して朝廷の祭司をつかさどりました1)。大化の改新以後は、藤原氏の権力を背景に、同族の中臣氏が朝廷祭祀の主力となりました1)。中臣氏(藤原氏)の係わった『日本書紀』が720年に成立した後、807年に、忌部氏(斎部氏)の忌部(斎部)広成が『古語拾遺』を著し、忌部氏(斎部氏)の上位性を説きました。しかし、伊勢神宮奉幣使としての正当性は認められたものの、忌部氏(斎部氏)の復活はなりませんでした1)。
『古語拾遺』では、天太玉命に従った五柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としています1)。伊勢の忌部は、刀・斧の貢納を役割とし、祖神を天目一箇命とし、長深御厨神明社(三重県員弁(いなべ)郡東員町)を氏神社としています。紀伊の忌部は、木材の貢納を役割とし、祖神を彦狭知命とし、鳴神社(和歌山市鳴神)を氏神社としています。阿波の忌部は、木綿・麻布の貢納を役割とし、祖神を天日鷲命とし、阿波国一宮 大麻比古神社(徳島県鳴門市)を氏神社としています。讃岐の忌部は、楯の貢納を役割とし、祖神を手置帆負命とし、粟井神社(香川県観音寺市)を氏神社としています。出雲の忌部は、玉の奉納を役割とし、祖神を櫛明玉命とし、忌部神社(島根県松江市)を氏神社としています1)。
元来の祭神は天太玉命と推定されている鳴神社(和歌山市鳴神)、忌部氏の後裔氏族である三木氏が奉斎した忌部神社(御所神社)(徳島県美馬郡つるぎ町)、長深御厨神明社(三重県員弁(いなべ)郡東員町)を結ぶ三角形のラインを描くと、ラインの近くに大麻比古神社、伊勢国一の宮 椿大神社(三重県鈴鹿市)があります(図1)。鳴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、忌部神社(御所神社)と長深御厨神明社を結ぶラインとほぼ直角に交差し、鳴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには住吉神社(魚住住吉神社)(兵庫県明石市)、庭田神社(兵庫県宍粟市)、酒賀神社(鳥取市国府町)があります(図1)。
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忌部神社(御所神社)と長深御厨神明社を結ぶライン上には、物部(ものべ)(兵庫県洲本市)という地名があります(図1)。ブログ「神秘と感動の絶景を探し歩いて」によると、「物部」の地名について『日本姓氏語源辞典』には以下の記載があるようです。
推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。奈良時代に記録のある地名。地名は物部氏の人名からと伝える。
これは、高良大社の祭神の高良玉垂命(卑弥呼 豊玉姫命 倭迹迹日百襲姫命と推定)と、物部氏の祖の宇摩志麻遅命(大国主命 天日鷲命 大綜麻杵命 第8代天皇 孝元天皇と推定)の関係や、孝元天皇の陵墓が備前車塚古墳と推定されることと整合します。また、物部氏は忌部氏と同族と推定されることと整合します。
物部氏は、6世紀代の物部麁鹿火(あらかい)、物部尾輿(おこし)、物部守屋の時代に最盛期を迎えています2)。麁鹿火は大連を務め、武烈天皇の崩御後、継体天皇の擁立を働きかけ、磐井の乱を平定し、その後の安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務めています。尾輿は、安閑・欽明両天皇の頃の大連で、欽明天皇の時代に蘇我稲目と対立しています。尾輿の子の守屋は、敏達天皇の即位に伴い大連に任じられています。587年の用明天皇の崩御後、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしましたが、蘇我馬子の命により穴穂部皇子と宅部皇子は誅殺され、馬子によって守屋も滅ぼされました。
兵庫県三木市にある大宮八幡宮には、古代より山上(現八量敷)に磐境(古代祭祀様式)があります(図2)。兵庫県小野市は和珥氏と関係があると推定されることから、三木市は阿波三木氏と関係があると思われたので、三木氏が奉斎した忌部神社(御所神社)と大宮八幡宮(三木市)を結ぶラインを引くと、鳴神社とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差しました(図2)。鳴神社とパレルモを結ぶラインの近くには加茂神社(岡山県津山市)や天乃神奈斐神社(鳥取県東伯郡琴浦町)があります(図2)。このことから、兵庫県三木市の「三木」の由来は、阿波三木氏と推定されます。
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粟井神社(香川県観音寺市)とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに忌部神社(島根県松江市)があります(図3)。このラインは、大山祇命(孝安天皇と推定)を祀る大山祇神社(愛媛県今治市)と瑜伽山(由加山)(岡山県倉敷市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。粟井神社とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには、大井神社(広島県庄原市)、盤船神社(島根県安来市)、素戔嗚尊(第7代天皇 孝霊天皇と推定)を祀る出雲国一之宮 熊野大社(島根県松江市)などがあります(図3)。
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阿波(徳島県)や安房(千葉県)には、古くから「麻」が自生していて、縄文人は暮らしの中に取り入れていました1)。渡来の忌部氏はそれを組織的に栽培するように指導し、朝廷の祭祀にも深くかかわったとされます1)。安房神社(千葉県館山市)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに洲崎神社(館山市)、神津島とレイラインでつながっている乗鞍大権現(岐阜県高山市)があり、このラインは、鳴神社と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。鳴神社と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインの近くには、石清水八幡宮(京都府八幡市)、チャタル・ヒュユクやパレルモとつながっている比叡山があり、亀ヶ岡石器時代遺跡と安房神社を結ぶラインの近くにはオリンポス山とつながっている岩木山、最勝寺(茨城県筑西市)があります(図4)。安房神社は、ジェベル・イルード遺跡とレイラインでつながっていることからも、阿波忌部氏は縄文人と血縁関係があったと推定されます。
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『続日本後紀』によると、神津島の阿波命神社の祭神の阿波咩命は、三嶋大社(静岡県三島市)に祀られている神の本后とされています。阿波命神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、三嶋大社と焼津神社を結ぶラインとほぼ直角に交差し、身延山 久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)の近くを通ります(図5)。
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三嶋大社に祀られている三嶋大明神は、大山祇命と積羽八重事代主神の御二柱の神ですが、下記のブログから、阿波咩命は、事代主命(少彦名命と推定)の后と思われます。
阿波忌部氏系図(「古代豪族系図集覧」近藤敏喬編)をみると、阿波忌部氏の祖である天日鷲命の兄妹に天津羽羽命(あまつははのみこと)という人物がいて、八重事代主命妻と記されています。神津島の阿波命神社に祀られている阿波咩命がこの天津羽羽命ではないかと思うのです。阿波忌部氏は、阿波を開拓した一族で、その一部は、海を越えて房総半島に移り住んだとされています。阿波忌部氏が切り開いた土地は、音が同じ「安房」と呼ばれています。
神武以下の漢風諡号は、弘文天皇(天智天皇の第一皇子 大友皇子)の曽孫の淡海三船(おうみ の みふね)(722年~785年)の撰です。壬申の乱で物部麻呂(石上麻呂)は、最後まで大友皇子に従っています。天武天皇に抜擢された麻呂は、684年の八色の姓(やくさのかばね)の制度により、「朝臣」(王族の「真人」に次ぐ姓)が賜与され、それに伴い氏名も「石上」に改めています2)。和銅元年(708年)、石上朝臣麻呂は藤原不比等と共に正二位に叙せられていますが、この頃に実際に政治を主導したのは、不比等だったと考えられています。和銅3年(710年)都が平城京に遷ったとき、石上麻呂は、旧都の留守になりました。
宝亀元年(770年)に称徳天皇が亡くなり、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天智天皇の孫にあたる光仁天皇が皇統を継ぎました。滋賀県大津市神宮町に、昭和天皇の勅旨によって創建された天智天皇を祀る近江神宮があります。
『新撰姓氏録』では、物部氏や饒速日命は「天神(古代の神々の子孫と称した氏)」とされ、「天孫(天照大御神の子孫とされる氏)」には、いれられませんでした3)。『先代旧事本紀』は、これに対する抗議のために編集されたという説があります3)。『新撰姓氏録』が成立した815年は、桓武天皇と藤原氏出身の母后との間に生まれた嵯峨天皇の時代で、当時は藤原氏が栄えた時代でした3)。
長浜浩明氏は、縄文時代以前に日本にやってきた日本人男性の祖先は、Y染色体ハプログループの系統から、C(10.8%)、D(32.1%)、O1(34.4%)、O2(6~14%)と推定しています4)。O1は、漢族(北)が7%、漢族(南)が45%、台湾先住民は90%以上の割合なので、主に南から日本にやってきたと考えられています4)。O1b2は、稲作文化を伝えた弥生人(倭人)と考えられてきましたが、縄文晩期の菜畑遺跡(佐賀県唐津市)から日本最古の水田跡が見つかり、水田稲作を始めたのは約4万年前に日本にやってきた縄文人(Y染色体ハプログループC、D系統)だったことがわかっています4)。
「王者のハプログループ」によると皇室のY染色体ハプログループはD1系統で、百済、出雲王朝、元/モンゴル帝国はC2系統、中臣氏、藤原氏、新羅・朴氏王統、明はO1系統、北魏、高句麗、秦、漢はO2系統で、豊臣秀吉は縄文系のC1a1とされています。古代には多氏の尾張氏(伊福部氏)が大王家に后妃を出していますが、乙巳の変の後、蘇我氏に代わり、中世には藤原氏(中臣氏)(O1系統)が天皇家の外戚となり、秦氏とつながった藤原北家が政治を動かすようになりました。
弥生時代の投馬国と推定される青谷上寺地遺跡から出土した人骨のY染色体ハプログループは、篠田謙一氏らのグループ(2019年の報告)によると75%の人骨は縄文系のハプログループD1a2a(M55)で、弥生時代中期や後期の青谷上寺地遺跡の人骨から、O1b2a1a1やO1b2a1が見つかっています。中臣氏の祖の天児屋根命のY染色体は、新羅などと同じハプログループO1b2a1aであると推定され、O1b2a1a1系統は日本人集団の25%が属しているようです。
青谷上寺地遺跡の人骨には、争いの痕が残っていますが、『日本書紀』垂仁紀に、新羅の王子である天日槍の渡来が記され、『播磨国風土記』には、出雲神(大国主神)と天日槍が争ったことが記されています。垂仁天皇(神奴小牟久と推定)の「神奴」は、神社で雑役に従事した者のことで、『新撰姓氏録』によると神奴氏は、天児屋根命の後裔とされています。非常に古くから対馬で行われた亀卜(きぼく)に従事した人々は「卜部(うらべ)」と称して、律令制では神祇官の管理下に置かれ、これに伴い祭祀氏族である中臣氏の配下に組み込まれていきました。奈良県天理市にある森神社は、天児屋根命を祀っていますが、元は『延喜式』神名帳で大社に列せられた、亀卜の際の祝詞を神格化して祀った「太祝詞神社」でした。
実在が疑われている「欠史八代」の系譜が形成された年代は、概ね天武朝(7世紀末頃)のことと考えられていて、藤原氏(中臣氏)、蘇我氏、秦氏など比較的新しい大陸からの渡来系氏族が、忌部氏、物部氏、丹生氏など古くからの縄文・弥生系氏族と天皇家との関係を隠すために、かつて中国で行われていたように、記紀などの改ざんを行ったのではないかと思われます。
文献
1)戸矢 学 2021 「神々の子孫 「新撰姓氏録」から解き明かす日本人の血脈」 方丈社
2)篠川 賢 2022 「物部氏 古代氏族の起源と盛衰」 吉川弘文館
3)安本美典 2024 「「卑弥呼の鏡」が解く邪馬台国」 中央公論新社
4)長浜浩明 2021 「日本人の祖先は縄文人だった!」 展転社