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温故知新(69)ディキス(コスタリカ)の石球 ジブラルタル海峡 ヘラクレスの柱 玉前神社 大湯環状列石 伊能忠敬 長久保赤水 渋川春海(安井算哲) 

 レイラインは、1921年にイギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスによって提唱されましたが、ワトキンスより以前の1870年にウィリアム・ヘンリー・ブラックが「名所旧跡は、西ヨーロッパ全域に巨大な地理的な線を描くような位置に存在している」という仮説を立てています。スコットランドの巨石文化の研究者であるアレクサンダー・トム(1894年-1985年)は、カルナック列石の調査などを行い、複数の巨石の配置が直線的かどうかを詳細に検討することで、その巨石群を誰が作り上げたかを推定することができるのではないかと提案しています。

 1930年代に、中央アメリカのコスタリカ南東部にあるディキ・デルタと呼ばれる一帯から、花崗岩でつくられた大小さまざまな石球が発見されました(コスタリカの石球)。石球を含む考古遺跡4箇所は「ディキスの石球のある先コロンブス期首長制集落群」の名で世界遺産リストに登録されています。アメリカの考古学者サミュエル・K・ロスロップは、石球の元の位置を調べた結果、しばしば3個1組で三角形に配置されたり、場合によっては直線状に配置されていることを見つけました1)。さらに、1981年にコスタリカ大学のアイヴァー・ザップ教授は、レイラインを参考にして、三角形の1辺が極北極を指していることを見つけました。地図ではなく、巻き尺と地球儀を使って調べたところ、残りの2辺のうちの1辺は、ガラパゴス島を通ってイースター島に達し、他の1辺は大西洋を越えジブラルタル海峡を指していました。他の三角形には、大ピラミッドやストーンヘンジを指しているものもありました1)。

 ディキスの石球とクフ王のピラミッドを結ぶラインは、ジブラルタル海峡の近くを通ります(図1)。

図1 ディキスの石球とクフ王のピラミッドを結ぶラインとジブラルタル海峡、ストーンヘンジ、イースター島

 イースター島と「へその丘」という意味のギョベクリ・テペを結ぶラインは、ジブラルタル海峡や「へそ石(オンファロス)」があるデルポイ(デルフィ)の近くを通ります(図2)。イースター島は、「世界のへそ」という意味の「テピトオテヘヌア」とも呼ばれていたようです。

図2 イースター島とギョベクリ・テペを結ぶラインとジブラルタル海峡、デルポイ

 ストーンヘンジとアトランティスと関係があると推定されるクサール・ヌアイラを結ぶラインは、ジブラルタル海峡を通ります(図3)。

図3 ストーンヘンジとクサール・ヌアイラを結ぶラインとジブラルタル海峡

 5万1000年前の山形紋の模様を刻み込んだシカの骨がみつかったアインホルンヘーレと31万5000年前のホモ・サピエンスと見られる人骨が見つかったジェベル・イルード遺跡(Grotte ighoud)を結ぶラインは、約17万6000年前のストーンサークルが見つかったブルニケルの洞窟の近くを通り、ジブラルタル海峡を通ります(図4)。このラインの近くには、クロマニョン人の骨が見つかったヴェゼール渓谷があります(図4)。

図4 アインホルンヘーレとジェベル・イルード遺跡(Grotte ighoud)を結ぶラインとブルニケル、ジブラルタル海峡、ヴェゼール渓谷

 ジブラルタル海峡は、古代から軍事上・海上交通上、極めて重要な位置を占め、地中海側の両岸の岩山は、古代より「ヘラクレスの柱」として知られてきました。イズミル(スミュルナ)とロドス島のアクロポリスのほぼ中間にある古代都市ラトモス(Latmos Antik Kenti Kaya mezarlan)の後に、ヘラクレスの名にちなむヘラクレイアがつくられていることから、「ヘラクレスの柱」は、アトランティスの民族が、古代ギリシャとの戦いに敗れたことを示しているのかもしれません。

 『千夜一夜物語』の船乗りシンドバッドの物語の中に登場する「カマル」という舵取りの道具は、「コスタリカの石球」の近くで発見された像も持っていましたが、世界中にあることが知られています1)。これは、結び目のある長いひもで、両端に木の四角形がついていて、結び目はさまざまな港の緯度を示しています。航海士は特定の結び目を口にくわえて、紐を北極星に向けることで船の位置を知ったようです1)。

 南米のインカ帝国で用いられていた文字によらない記録方法であるキープは、「結ぶ」あるいは「結び目」を意味し、租税管理や国勢調査などの統計的記述に用いられました。結縄(けつじょう)は、中国の古典籍にも習俗が伝わっていますが、琉球諸島、アイヌ社会、日本内地でも類例が報告されているようです。また、ヨーロッパでも、結び目はアルファベットとの対応関係が知られているようです。古代には、ストーンサークルなどで観測した情報を結縄によって記録していたのかもしれません。

 さまざまな動植物は、体内時計を持っていることが知られていますが、北海道大学の田中真樹博士によると、脳の視床や大脳などの神経細胞は、時間経過とともに活動が高まることがあり、これを利用して十数秒程度までの時間経過をはかっているのではないかと考えられています2)。生物時計は、方角の計算にも使われ、渡り鳥やチョウは、季節、時間、太陽の位置といった情報から方角を割り出して、目的地に行く方角を知ることができるといわれています2)。古代の船に鳥が乗っているのは、この能力を利用していたのかもしれません。エジプト人がスカラベ(フンコロガシ)を聖なる昆虫としたのは、糞を転がす直線方向を、天の川の星明かりを道しるべにして決めているためもあるようです。クロマニョン人や縄文人は、犬やイルカなどとのコミュニケーションで方角を知ったのかもしれません。

 経度を測定するには、2地点で同時に月食や日食を観測する必要がありますが、ストーンサークルは見晴らしの良い場所にあることから、鏡を用いた光による情報伝達なども行われていたのかもしれません。もしかすると、2地点の日食や月食の開始時間の差の測定は、複数の測定者が星の動きなどから感覚的に1秒単位で測定できるようにあらかじめ訓練されていたのかもしれません。距離の単位は、紀元前221年に秦の始皇帝が1歩を6尺、一里を300歩に定めていますが、古代には、歩数により、かなり正確な距離の測定ができたと思われます。

 伊能忠敬は、1745年に、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。小関という苗字が最も多い市町村は、千葉県長生郡一宮町で、聖ミカエルの山やスカラ・ブレイとつながるレイラインの指標となっている上総国一宮 玉前神社があります。1800年から1816年まで、17年をかけて『大日本沿海輿地全図』を完成させた伊能忠敬の距離の計算方法は、歩いた歩数をもとにしていて、歩幅は69cmということが分かっています。伊能忠敬の実測地図ができる42年前に、長久保赤水が初めて経緯線の入った日本地図を発行しています。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身ですが、長久保氏のルーツは、現長野県である信濃国小県郡長久保村で、長久保氏には、丹生氏と関係があると推定される信濃国造金刺舎人の子孫もいるようです。赤水が天文学の入門書としてまとめた『天象管闚鈔てんしょうかんきしょう』(安永三年 1774) をもとに後年『天文星象圖解』が版行されています。天文学は地図を制作するために必要とされ、赤水は、渋川春海安井算哲)門下で水戸藩の儒学者 小池友賢 (1683-1754) や、その弟子の大場景明 (1719-1785) から学んだといわれます。

 玉前神社は、クレタ島のラト遺跡ともつながり、玉前神社と藻岩山を結ぶラインの近くに、大湯環状列石があります。大湯環状列石と「ディキスの石球」を結ぶラインは、フォート・ロック・パークやアグアダ・フェニックス遺跡の近くを通ります(図5)。

図5 大湯環状列石と「ディキスの石球」を結ぶラインとフォート・ロック・パーク、アグアダ・フェニックス遺跡

 縄文人の下半身の骨格は丈夫で、健脚だったと推定されています。1万年以上という時間を考えると、聖地が直線で結ばれているのは、最短距離で結ぶラインにある山や岩などを目印にしたり、場合によっては加工を行って目印としたのではないかと思われます。弥生人は、縄文人の文化を受け継ぎ、神社などを建立し、レイラインをさらに発展させたのではないかと思われます。

文献
1)コリン・ウィルソン 松田和也(訳) 2006 「アトランティスの暗号」 学習研究社
2)木村直之(編) 2022 「ニュートン別冊 時間とは何か」 ニュートンプレス

  私もGoogleマップ(距離の測定)を使う前は、地球儀を買って糸で2地点をつないで調べたり、国土地理院のソフト方位角の計算を行っていました。当初のGoogleマップではオリンポス山を指していたラインが、バージョンアップ後にはパレルモになり、初めからやり直す必要が生じました。現在のソフトは、ラインが曲線ではなくなりましたが、精度は整合性の点から高くなったと推定されます。画像は、PDFで印刷した後JPEGに変換し、ロゴを張り付けて、必要に応じて地名やラインを追加しています。出版や有料販売はできないと思われます。