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温故知新(9)崇神天皇(聖徳太子 豊耳命 御間城尊 彦太忍信命) 観音菩薩 靭負神社 浦間茶臼山古墳 豊城入彦命(豊布流) 彦狭島王 毛野氏

 『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」、『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」とされている聖徳太子は、一般的には、飛鳥時代の用明天皇の第二皇子(厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)とされています1)。

 第8代孝元天皇(大国主命)と倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)との子は、第10代崇神天皇と考えられ、丹生氏の系図にある宇遅比命(菟道彦命)すなわち孝元天皇の子は「豊耳命(等与美々)」となっていることから、豊耳命が崇神天皇と推定されます。紀国造家(紀直・宿禰氏)の系譜にも等與美美命(豊耳命)が見えますが、宇遅比古命(莬道彦 孝元天皇と推定)の曾孫となっています。紀氏の遠祖である孝元天皇の皇子の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が崇神天皇と推定されます。

 『日本書紀』用明天皇紀に「豊耳聡聖徳(とよみみとしょうとく)」「豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ) 」とあり、「豊」は美称で、「(と)」は鋭の意とされ、元興寺丈六光背銘にも「等与刀弥々大王」とあることから、「豊耳聡」は誤りとされています2)。「豊聡耳」は、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味や、様々な言語や方言を聞き取ることができたという意味とする説があります。

 『日本書紀』によると、垂仁天皇は、先代の崇神天皇を「惟叡作聖、欽明聰達・・。是以、人民富足、天下太平也」と讃えていますが、「豊耳聡聖徳」のうちの2文字が使われています。「惟叡作聖」の「」には「思う」の意味がありますが、「漢文」の中で文頭に置いて「これ」と読ませて使われます。「」は、「かしこい、深く事理に通じる」の意味がありますが、「天子・天皇に関する尊敬語」と思われます。「」には「なる」という意味があるので「叡作聖」は「聖(ひじり)となりたまう」の意味と思われます。『日本書紀』推古天皇条に収載された片岡山伝説では、人々は聖徳太子を「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます畏敬したとされています。「欽明聡達」の「」は「天子・天皇に関する事柄につけて敬意を表す語」で、「聡明」の「」は耳がよく聞こえること、「明」は目がよく見えることで、物事の理解が早く賢いことを意味し、「」には「すぐれる、物事によく通じる」という意味があるので、「聡明明達であられる」という意味と思われます。

 「日本書紀」における聖徳太子に関する記述に、「兼知未然」(かねていまだ然らざるを知る)があり、平家物語や太平記にも記されています。田坂広志博士によると、最先端量子科学の観点から、「意識の階層」が第五の「超時空的無意識」の段階になると、「過去」に起こった出来事を知るだけでなく、「予知」の現象も起こるようになるようです3)。

 豊耳命(聖徳太子)が、崇神天皇で御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とすると、「天下太平」となったといわれていることから、「和をもって貴しとなす」は、崇神天皇の言葉だったかもしれません。

 茨城県稲敷市にある和珥氏を祖とする小野氏所縁の逢善寺は、千手観音を本尊としています。また、埼玉県飯能市の龍崖山麓にある金蔵寺は、千手観音を本尊としていますが、『古代氏族系譜集成』によると大丹生氏を祖とする武蔵七党4)の丹党所縁の寺と推定されます。それぞれの手に目がある千手観音はオシリスに由来し、古代豪族に信仰されていたのかもしれません。金蔵寺の境外仏堂には八耳堂(太子堂)(写真1)があり、聖徳太子像を本尊としています。八耳堂の「八耳」の由来は、聖徳太子が「厩戸豊聡八耳皇子」と呼ばれていることによると推定されます。八耳堂には、崇神天皇(豊耳命)を祀っていると推定され、蘇我氏以前から聖徳太子信仰はあったと考えられます。

写真1 八耳堂(飯能市)

 『古事記』には、須佐之男命が須賀の地に宮を作った際に、足名椎神がその宮の長に任じられ、稲田宮主須賀之八耳神という名を授かったと記されています。八耳堂には、本尊として聖徳太子の立像が安置され、御前立も聖徳太子立像が祀られているようなので、本尊に祀られているのは、足名椎神(加具土命)かもしれません。あるいは、大丹生氏は多氏と推定されるので、祖である神八井耳命を祀っているのかもしれません。

聖徳太子(豊聡耳命)
 『古事記』
  上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)
『日本書紀』用明天皇紀
  豊耳聡聖徳(とよみみとしょうとく)
  豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)    
『日本書紀』推古天皇紀
  厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)
『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』
  厩戸豊聡八耳皇子(うまやとのとよとやつみみのみこと)

崇神天皇
『日本書紀』
  御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) 
  御間城天皇(みまきのすめらみこと)
  御間城尊(みまきのみこと)
  御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
『古事記』
  御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)
  所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) 
『常陸国風土記』
  美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) 

出典:「聖徳太子」「崇神天皇」Wikipedia

 聖徳太子の名前には「うまやと」、崇神天皇の名前には「みまき」が複数で使用されています。 「うまやと」に関連する「みまき」は、「御牧」で、古代の朝廷の直轄牧場のことです。江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説がありますが、古墳時代初期の大和や出雲の甲冑は、中国の戦国時代以降に発達し5世紀中ごろに騎馬の術とともに朝鮮を経て日本に伝わった札造りの甲である「挂甲(けいこう)」とは異なり、西洋式甲冑に近い板造りの甲である「短甲(たんこう)」です。邪馬台国には牛馬はいなかったとされていますが、古墳から出土する初期の馬具の多くは伽耶のものと共通し5)、伽耶から技術的援助を受け、馬の飼育を始めたのではないかと思われます。京都府久世郡久御山町(くみやまちょう)に、「御牧」という地名があり、古くから御牧があったようです。徳川家康公に改易された御牧藩は、山城国久世郡御牧にあった藩で藩主家は織田氏庶流の津田氏でした。馬の飼育は、軍馬用だけではなく、運搬用や交通手段のためでもあったと思われます。古代道路の中でも都城と吉備、大宰府を結ぶ山陽道は、古代国家の大動脈で、多くの駅馬が置かれていました6)。

 法隆寺の八角円堂で知られる夢殿の本尊である国宝観音菩薩立像(救世観音)は、761年の記録に「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、聖徳太子の等身像ともいわれた秘仏でした。「観音」とは、衆生がその名を唱える音声を観じて、大慈大悲を垂れ、解脱を得させるという菩薩で、聖徳太子は観音菩薩の化身ともいわれています。豊耳命の「耳」と関係がありそうです。エジプトの新王国時代にプタハ神はルクソール西岸の村で人気があり、庶民の祈りにも耳を傾けてくれるように願って神の姿や名とともに、耳を刻んだ石碑(聞き入れてくれる耳の碑)が残されています7)。末期王朝時代にプタハはオシリスとも習合し葬儀において重要な神となりました7)。

 救世観音像の封印を解くと祟りがあるとされていましたが、1884年にフェノロサと岡倉天心によって像を覆っている長い白布が除かれました。包帯で巻かれていたのはオシリスの象徴で、救世観音像は、崇神天皇の像と思われます。「救世観音」の「くぜ」は、珠城宮のあった久世郡に由来するのかもしれません。法隆寺の真北に位置する久世郡久御山町に、平安朝御牧馬寮故址があり、法隆寺の救世観音(聖徳太子)と崇神天皇(御間城尊)が関連することを示していると推定されます(図1)。

図1 法隆寺と平安朝御牧馬寮故址

 『古事記』に記載された崇神天皇の宮の場所である「師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)」や『日本書紀』の「磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや)」の「しき」は、「支城」のことかもしれません。水垣宮は、奈良県桜井市金屋に比定されていますが、『古事記』の「水垣」で検索したところ、上賀茂神社の西側、賀茂川の対岸に西賀茂水垣町がありました(図2)。南に大宮という地名があり、「大宮」は氷川神社と同様に「大いなる宮居(みやい)=神が鎮座すること」に由来する8)と推定され、条里制も認められるようで、崇神天皇の宮があったと思われます。

図2 京都市北区西賀茂水垣町(赤枠)

 岡山県倉敷市の瑜伽山(由加山)と西賀茂水垣町を結ぶラインは、兵庫県淡路市の伊弉諾神宮スカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。前者のラインは穴太寺(京都府亀岡市)の近くを通り、後者のラインは、安志加茂神社(兵庫県姫路市)や八大龍王権現大野神社(鳥取県八頭郡若桜町)の近くを通ります(図3)。これは、水垣町が重要な場所であったことを示していると推定され、崇神天皇の宮があったと推定されることと整合します。

図3 伊弉諾神宮、瑜伽山(由加山)、西賀茂水垣町を結ぶ三角形のラインと穴太寺、伊弉諾神宮とスカラ・ブレイを結ぶラインと安志加茂神社、八大龍王権現大野神社

 上賀茂神社の正式名は賀茂別雷(かもわけいかづち)神社と言い、祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)です。上賀茂神社の神話に登場する賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」は、「鴨」は水鳥で「水」と関係し、「角」と合わせると「八束水臣津野命」と同様に「須佐之男命」、すなわち、孝霊天皇と推定されます。下鴨神社には、崇神天皇7年に神社の瑞垣の修造が行なわれたという記録があるようです。賀茂建角身命の娘の「賀茂玉依比売命」は倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命)で、「丹塗矢(にぬりのや)」は『山城国風土記』逸文によると、火雷神(乙訓坐火雷神社の祭神)です。火雷神は『古事記』に記された神話では、亡くなった伊邪那岐命の胸から生まれていますが、「丹塗矢」から丹生津姫命と関係があると推定され、天津彦彦火瓊瓊杵尊の第二子の、火折尊(ほおりのみこと 彦火火出見尊 山幸彦)で、孝元天皇(宇遅比古命)と推定されます。賀茂玉依比売命の子である上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)は崇神天皇と思われます。「上宮」は、聖徳太子(上宮太子)の宮を表しますが、賀茂御祖神社は鴨川の下流にあることから下鴨神社とも呼ばれるので、鴨川の上流にあることから「上宮」といわれたのかもしれません。

 第11代 垂仁天皇の宮は、『古事記』では、「師木の玉垣宮(たまがきのみや)」で、『日本書紀』では、「纏向の珠城宮(たまきのみや)」です。御牧のあった久世郡久御山町に、垂仁天皇を祭神とする珠城神社があります。したがって、「師木の玉垣宮」の「師木」も「支城」と考えられ、崇神天皇は、晩年に水垣宮から珠城宮に移ったと考えられます。『日本書紀』の「纏向」は、神武天皇以来、継続して大和(奈良)に都があったことを示すために意図的に付けられたものと思われます。

 岡山県瀬戸内市長船町長船に靭負神社(ゆきえじんじゃ)があり、本殿は中央に崇神天皇社が位置し、東側に靭負神社が位置しています(写真2、3)。

写真2 崇神天皇社(靭負神社)
写真3 崇神天皇社本殿(左)と靭負神社(右)

 岡山県神社庁のデータベースには、「天王社」としては掲載されていますが、「崇神天皇社」とは記載されていません。京都府亀岡市にある出雲大神宮の境内には崇神天皇社があり、また、奈良県桜井市三輪の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)の境内にある天皇社も崇神天皇を祀っています。したがって、崇神天皇は大国主命や加具土命と関係が深いと考えられます。崇神天皇社本殿は、本殿と倭文神社、白兎神社をそれぞれ結ぶラインの中間の方向を背にしていて(図4,5)、崇神天皇社を拝む方向に倭文神社、白兎神社があります。これは、崇神天皇と建葉槌命(豊玉姫命)や大国主命(孝元天皇)との血縁関係を示していると推定されます。

図4 倭文神社と靭負神社(崇神天皇社)、靭負神社(崇神天皇社)と白兎神社を結ぶライン
図5 倭文神社と崇神天皇社本殿、本殿と白兎神社を結ぶライン

 崇神天皇の名前は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)ですが、エジプト語でオシリスという名のos-は「多い」、-iri-は「目」を意味するようなので9)、「いり」は「目」かもしれません。エジプト神話では、「ホルスの目」の左目である「ウアジェトの目」は、全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされ、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられたようです。シュメール人を表した大きな目の像や縄文土器から、シュメール人や縄文人も目を強調していたと考えられています。江戸時代後期に大沢惟貞が記した『吉備温故秘録』によると、崇神天皇社は眼病を患った人々が回復を祈願し快方に向かったと伝えられ、眼病を患った人やその家族が「目」を意味する「め」と記された紙を壁に貼る風習があるようです(写真4)。

写真4 崇神天皇社(靭負神社)

 崇神天皇は、豊耳命と合わせて考えると、国民に目配りができ、国民の声に耳を傾けた大王だったと想像されます。「に」の「」は、「赤い美しい玉」で、古代のシリウスを表すと推定され、「え」の「」は、子孫が増えることで、多氏を表しているのかもしれません。タマ(玉、魂、霊)は、3世紀から6世紀ごろの古代日本において、宗教的・呪術的な有力人物に付けられた名称なので、「五十瓊殖」は、「多くの有力な首長を生んだ」という意味と思われます。

 長船町福岡は、かつて備前国上道郡にあり、古くから栄えた福岡の地にあった浦間茶臼山古墳(写真5、6)は、前方部が三味線のバチ形に開く最古形式の前方後円墳で、古墳時代前期の3世紀末に築造されたと考えられています。

写真5 浦間茶臼山(古墳)の入口付近の標識
写真6 浦間茶臼山古墳の後円部の頂上

 浦間茶臼山古墳(北緯34度42分)は、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳(北緯34度42分)と同緯度にあり、浦間茶臼山古墳と備中国総社宮(岡山県総社市総社)を結ぶラインの近くに備前車塚古墳があります(図6)。これは、浦間茶臼山古墳の被葬者と孝元天皇との関係を示していると推定されます。

図6 浦間茶臼山古墳と総社を結ぶラインと備前車塚古墳

 黒塚古墳や開花天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳と同じように、卑弥呼の墓と推定される箸墓古墳の2分の1の相似形墳であることから10)、浦間茶臼山古墳は、崇神天皇の陵墓と推定されます。崇神天皇は、270年~290年ごろ実在した可能性が高い人物と考えられていて11)、浦間茶臼山古墳の推定築造年代と一致しています。

  崇神天皇社(靭負神社)と浦間茶臼山古墳を結ぶラインの延長線は、鹿田城(しかたき)があったと推定される鹿田本町を通ります(図7)。『日本書紀』崇神天皇6年条に、豊鍬入姫命をして天照大神を「倭の笠縫邑に祭る。 よりて磯堅城(しかたき)の神籬を立つ。」とあるので、鹿田遺跡に崇神天皇の宮があったと推定されます。崇神天皇社(靭負神社)と鹿田本町を結ぶラインは、垂仁天皇の陵墓と推定される金蔵山古墳聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。

図7 金蔵山古墳、靭負神社、鹿田本町を結ぶ三角形のラインと浦間茶臼山古墳、金蔵山古墳と聖ミカエルの山を結ぶライン、岡山城、備前車塚古墳

 倭迹迹日百襲姫命を祀る岡山神社は、元は岡山という現在の岡山城本丸(写真7)の地(図8)に鎮座していたようです。岡山に倭迹迹日百襲姫命(豊玉姫命 卑弥呼)の宮があったのかもしれません。

写真7 岡山城北側からの天守
図8 岡山城(江戸時代)と岡山、石山、天神山の推定位置 出典:岡山城展示資料

 岡山市南区浜野にある内宮と、倭文神社、白兎神社をそれぞれ結ぶラインの間に岡山城があります(図9)。内宮は、天照大御神、倭姫命、大己貴命(大国主命)を祀り、神紋は皇大神宮(内宮)と同じ唐花菱です。

図9 倭文神社、内宮、白兎神社を結ぶラインと岡山城

 内宮とパレルモを結ぶラインは、崇神天皇の御宇勧請とされる宗形神社(むなかたじんじゃ)や、須佐之男命を祀る日本初之宮 須我神社の近くを通ります(図10)。内宮に祀られている天照大神は、孝霊天皇(須佐之男命)の妃で、倭迹迹日百襲姫命の母である倭国香媛と推定されます。

図10 内宮とパレルモを結ぶラインと宗形神社、須我神社

 浦間茶臼山古墳は、出雲大社熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の熊野速玉大社(和歌山県新宮市)を結ぶラインの近くにあり、このラインは、船通山熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の近くも通ります(図11)。『古事記』によれば船通山の麓へ降ったスサノオは八岐大蛇を退治し、八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献上したといわれます。このラインは、崇神天皇と孝元天皇(大国主命)や孝霊天皇(須佐之男命)との関係を示していると推定されます。

図11 出雲大社と熊野速玉大社を結ぶラインと船通山、熊野本宮大社

 浦間茶臼山古墳は、熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)と大量の銅剣が出土した出雲の荒神谷遺跡を結ぶラインの近くにあり、このラインの近くには、日本最多の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡おのころ島神社があります(図12)。銅剣や銅鐸が埋納された年代は不明ですが、浦間茶臼山古墳が崇神天皇の陵墓とすると、新たな国を造り、従来の青銅器を用いた祭祀を止めるにあたって、レイライン上に祭器を埋めたのかもしれません。また、出土した銅剣や銅鐸に、他には見られない「✕印」がついているのは、「魂抜き」を行った印かもしれません。熊野那智大社とトルコ南部の古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインは、熊野那智大社と荒神谷遺跡を結ぶラインと重なります(図12)。

図12 熊野那智大社と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインと、おのころ島神社、浦間茶臼山古墳、加茂岩倉遺跡、荒神谷遺跡 

 熊野本宮大社旧社地 大斎原(和歌山県田辺市本宮町)とセリヌスを結ぶラインは、石上布都魂神社(岡山県赤磐市)、熊野大社元宮 斎場跡(島根県松江市)の近くを通ります(図13)。セリヌスは、須佐之男命(孝霊天皇)と関係があったと思われます。

図13 熊野本宮大社旧社地 大斎原とセリヌスを結ぶラインと、石上布都魂神社、熊野大社元宮 斎場跡

 セリヌスは、ギョベクリ・テペとクレタ島の古代都市ラト(Ancient City of  Lato)を結ぶラインと、チャタル・ヒュユクとアレクサンドリアを結ぶラインの交点付近にあり、チャタル・ヒュユクとアレクサンドリアを結ぶラインは、エルサレムとラトを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。

図14 ギョベクリ・テペとクレタ島の古代都市ラト(Ancient City of  Lato)を結ぶライン、ラトとエルサレム、古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶライン、チャタル・ヒュユクとアレクサンドリアを結ぶライン

 図12の熊野那智大社と加茂岩倉遺跡を結ぶラインを一辺とし、環状列石(山形県長井市)を対頂点とする三角形を描くと、加茂岩倉遺跡と環状列石を結ぶラインは、熊野那智大社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図15)。加茂岩倉遺跡と環状列石を結ぶラインの近くには、菅原天満宮(日本四社)(松江市)があり、環状列石と熊野那智大社を結ぶラインの近くには八海山があり、熊野那智大社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには熊野本宮大社、喜多天満宮(兵庫県西脇市)があります(図15)。

図15 図12の熊野那智大社と加茂岩倉遺跡を結ぶライン、加茂岩倉遺跡と環状列石(山形県長井市)を結ぶラインと菅原天満宮(日本四社)、環状列石と熊野那智大社を結ぶラインと八海山、熊野那智大社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと熊野本宮大社

文献
1)大山誠一 1999 「〈聖徳太子〉の誕生」 吉川弘文館
2)坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 校注 1995 「日本書紀」 岩波文庫
3)田坂広志 2022  「死は存在しない」 光文社新書
4)田代 脩 2009 「武蔵武士と戦乱の時代」 さきたま出版会
5)白石太一郎 1999 「古墳とヤマト政権」 文春新書
6)中村太一 2000 「日本の古代道路を探す」 平凡社新書
7)松本 弥 2020 「図説古代エジプト誌 増補新版 古代エジプトの神々」 弥呂久
8)由良弥生 2015 「『古事記』75の神社と神様の物語」 王様文庫
9)プルタルコス著 柳沼重剛訳 1996 「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」 岩波文庫
10)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
11)井上光貞(監訳)川副武胤 佐伯有清(訳) 2003 「日本書紀Ⅰ」 中央公論新社