森川成美『てつほうの鳴る浜』 頼りない少年が元寇に見たもの
鎌倉時代の文永年間を舞台に、己の人生に悩む少年の運命と、元軍の襲来が交錯する、ユニークかつ内容豊かな児童文学であります。流されるまま博多の商人に、そして水軍の将となった少年・長種の運命は、元軍の襲来によってどのように変わるのか……
文永七年、御家人の家に生まれながらも武芸や血を見ることを嫌い、そして将来の展望のない武士に嫌気が差して家を飛び出した少年・竹崎長種。父の友人である水軍の大将・鷹島竜玄の船に潜り込んだ長種は、竜玄の紹介で、博多で塩を扱う大商人・鳥飼二郎の下で働くことになります。
初めは倉庫で働いていたものの、鏡を探しているという奇妙な少女・いとと出会ったことがきっかけで、屋敷を襲った賊を成り行きで退治した長種。彼はその腕を買われ、主の警護役に指名されるのでした。
実は思わぬ出自の人物であり、元に命を狙われていた鳥飼二郎こと張英。火薬を用いたてつほうという兵器を持つ元軍の襲来を予言する張英の言葉にも半信半疑の長種ですが――やがてさらなる事件に巻き込まれ、いとと共に、張英の下から離れることを余儀なくされることになります。
運命に翻弄されつつも何とか生き延びてきた長種。しかし彼は、ついに元軍の襲来に直面することになります。その時、彼の選択は……
日本が国外から大規模な侵略を受けたという、中世の大事件である元寇。当然ながら、フィクションの世界でも様々な形でこれまで描かれてきた元寇ですが、本作はそれを、あの竹崎季長の弟でありながら、武家に馴染めず家を飛び出した少年を通じてという、ユニークな視点から描きます。
身も蓋もないことをいえば、将来に悩む少年少女というのは、児童文学には非常に多く登場する、定番のキャラクター像でしょう。しかしその中でも、本作の長種は、かなり頼りない印象を受けます。
武よりも文を好み、武士ではなく商人になりたいと思う――けれども特に当ても伝手もなく、何となく家を飛び出して密航する(一歩間違えれば冒頭で死んでいた)。商人に仕えた後も、成り行きに左右されて役目を変え、その末に命まで危険に晒される……
そんな長種の姿は、運命に立ち向かうとか運命を変えるといった勇ましい姿勢とは無縁の――それだけに我々には身近に感じられるのも事実ですが――存在に映ります。しかし、そこに本作の見事な点があるのです。
本作には、一つのキーワードがあります。それは「運を楽しむ」――物語の冒頭、己の運命に不平をいうばかりの長種に対して、竜玄が語った言葉であります。
我々のなすべきは、運を変えようとすることではなく、運が次に何を運んでくるかを楽しむこと――なるほど、もっともらしく聞こえますが、しかし若い長種ならずとも、ちょっと運天に過ぎるのでは、と思わされる言葉でもあります。
当然ながらというべきか、この言葉に納得できない長種は、作中で折りに触れてこの言葉を思い出すのですが――運命に流された末に、その運命の不条理の最たるものというべき元寇、すなわち戦争に直面した時、彼は言葉の真の意味を悟ることになるのです。
運を楽しむということは、単なる運任せでも、諦めて運に流されることでもない。自分には自分の運があることを認め、自分のものとすることだと……
この「運」はもちろん「運命」と、あるいは「人生」と言い換えてもよいかもしれません。それは勇ましくは見えないかもしれませんが――しかし必ずしも己の意に任せない世界に踏み出す時、自分の人生は自分自身のものであるのだと教えてくれるこの言葉ほど、これほど頼りになる、力を生むものはないと理解できます。
そして本作が、元寇という大事件を描くのに、運命に流されるばかりであった少年を主人公とした意味もまた。
なお、実は本作には大きなファンタジー的要素があります。それは、鏡の力で未来を見ることができると称し、まるで二百年前のことを知っているかのように語る、いとの存在なのですが――ある意味運から自由な存在に思える彼女の存在は、一見本作には不釣り合いに思えるかもしれません。
しかし結末にいたり、彼女もまた自分の運を受け止めながらも、それに前向きに向き合ってきた存在であると知れば、彼女もまた、本作に相応しいキャラクターであったと感じます。
(そして、彼女が語る二百年(くらい)前の意味に気付いた時、歴史というものに慄然とさせられるのですが……)
変化球のように見えて、実は真っ直ぐに的を射貫いてみせる、そして何よりも先行きが不透明な時代に力を与えてくれる――そんな作品であります。