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気鋭の歴史家による★新連載『明治天皇は、なぜ伊勢神宮に参拝したのか』…現代も続く南北朝の攻防-その4-

 今回は、南北朝の対立の、もう少し分かり易い例をご紹介しましょう。
 そう、日本という国を表す『日の丸』の歴史です。
皆さん、昔から『日の丸』は法律に定められた国旗だと思っていませんか?
 実は、法的に『日の丸』が国旗として規定されたのは、ほんの二、三十年前の事なのです。
 『日の丸』は、南朝系から始まったもので、明治には国旗とする法案が貴族院で放置されたのです。
 貴族とは皆さんご存知のように平安京において長らく朝廷に仕えていた藤原氏なのです。実は、北朝百済系です。 
 では現代に至る国旗を巡る顛末をご紹介しましょう。

十、壬申の乱と『日の丸(日章旗)』

日本の日の丸は、南朝系(新羅系)の朝廷から始まっている。
壬申の乱の際に、大海皇子軍に味方の識別のために用いられたと言われる。
797年(延暦16年)の「続日本紀」の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の浅賀の魏に関する記述において、「正月元旦に儀式会場の飾りつけに『日像』の旗を掲げた」とあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれている。文武天皇は天武天皇・持統天皇に続く天武系天皇の一人である。
日本最古の日の丸「日の丸の御旗」は天喜4(1056)年に源頼義が奥州征伐に際して後冷泉天皇より下賜され、頼義三男の新羅三郎義光から甲斐武田家に代々伝わったもので、日本最古の日の丸(日章旗)といわれている(下写真)。

武田家に伝わる日の丸

 中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市の賀名生皇居跡(堀家住宅)に伝わる(南朝)後醍醐天皇下賜のものが知られる。
 明治維新に国旗扱いとなるが、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、各種の旗章の一つとして艦尾に掲揚する海軍御国旗として白布紅日章が定められ、幕末から使用されていた日の丸が引き続き使用された。規格は現行と同じく、縦横比は2対3、日章は旗の中心とされていた。
 こうして日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであった。実は明治時代に国旗に関する議論も行われたが、貴族院において議決されず、法的に国旗とはなっていない。
 貴族院と言えば平安京で長く権力を握り続けた百済系の天皇の下にあったためであろう。
 このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められた。
 最近においても、国旗・国歌に関する政治的・社会的論争が多くなされたこともご承知の方も多いと思うが、これも事実である。 


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