文体練習と、パスタソース - エッセイ
序
『文体練習』という本がある。
バス車内でのちょっとした出来事を、99の文体で書き分ける、レーモン・クノーの実験的な一冊だ。
そのときの私は、書くことに大して関心がなく、本の内容もさして楽しめなかった。
原文はフランス語で、「文体」の微妙なニュアンスが、きちんとそれぞれ訳出されていたか、怪しかった気もする。
noteを書き始めて、文章について試行錯誤することが増えた。
『三行で撃つ』という文章術の本に、複数の文体を身につけ、場面に応じて取り出し分けられるようにせよと訓戒があった。
この本を読んだ後なら、『文体練習』はもっと前のめりに読めたかもしれない。
文体を複数身につけることは、何となくよさそうな気はする。
そして実践してみると、その良さが身に沁みて分かる。
私は普段、「です/ます調」でnoteを書いている。今日は「だ/である調」で書いてみている。
そうすると、普段と違う新鮮な気分になり、遅い筆が進む。ずっと書きやすい。
意識的に違いをつけ、普段と違うルールを設定すると、頭の使い方が変わってくる。
そうすると、頭の中がクリアになり、考えの方向性が見えてくる。
文体というには粗すぎるが、この2つの調子を使い分けられるようになってみたいと思う。
急
そう。使い分け。
こういう場合はこれ、ああいう時はこっち。
文の調子を変えることは簡単だが、それだけでは使い分けたことにはならない。どういうときに、どちらを出すか、判断できるようになる必要がある。
沢山の商品があることは結構だが、それぞれの特徴を要約し、お客さまの隠れた期待に沿って取り出せなくては、受け取る側は煩わしい。
お客さまが何を求めるか、教えて貰うようでは三流だ。
です/ます調 と、だ/である調 の違いは何だろう。
一般的に、です/ますは丁寧な印象を与える。
だ/であるは明瞭な印象を与える。
社会人として生きていると、です/ます調に慣れ親しんでいく。
同僚や顧客との会話。説明書やユーザーマニュアルの記載。社内連絡やメールでのやり取り。全て、です/ます調だ。
だ/である調が使われるのは、ある程度の知識がある仲間内に向けた、設計書や調査報告書くらいだろうか。
です/ます調の持つ丁寧さは、謙譲の意を含ませる。
相手を立て、他者の尊重を示しやすい。
noteのような、不特定多数に向けての発信には向いている。
ダイバーシティ、インクルージョン、ホワイト社会。誰も傷付けず、全員を包摂していくための言葉遣いとしてふさわしい。
だ/である調は、配慮をベースとする社会生活を送っていると、異質な言葉になっていく。
私の社会人生活では社内外の折衝的な業務が多く、だ/である調を使う機会は稀だ。
とはいえ、だ/である調の持つ本質的な価値=明瞭さは、意見を伝える・主張する場においては効果的だ。短く、スッパリと立場を表明できる。
言い切るとは、責任を取るということだ。
以前取り上げた、『理科系の作文技術』の内容を思い出してほしい。
丁寧さは、悪く作用すれば、煩わしさとなる。
下手に出るとは、相手側に空気を読ませる態度、相手に責任を任せる態度でもある。
だ/であるの持つキッパリとした雰囲気、言い切る気風は、です/ます調とはまた別の、ひとつの道徳的態度だ。
私は今、noteで4つのテーマで順番に記事を書いている。
批評・エッセイ・紹介・レポートだ(抽象化すれば)。
です/ます調・だ/である調の、それぞれの適不適を分けるとすれば、次となるだろうか。
です/ます調 → 読み手に共感してもらいたい:批評・紹介
だ/である調 → 自分の意見を明確に表明したい:エッセイ・レポート
”調子”がもつ性質は絶対ではない。
です/ます調でもキッパリとものを書く人もいるし、だ/である調でもまわりくどくなることもある。
というか、”調子”の枠組の外にある、文章から滲み出す「その人らしさ」こそが「文体」と言い得るものかもしれない。
とはいえ、文体を「個性」と表現してしまうのは、どこか胡散臭い。
個性教育・ゆとり教育を受けた当事者として、個性を手放しで尊ぶことは間違いだと感じる。
尊重に値する個性とは、その人の生まれ持ったものではなく、その人がこだわり磨いたものであるべきだ。
文体は、生まれながらに備わっているものではない。だから文体練習が必要だ。
破
食品開発業界に、「モスコウィッツの法則」というものがある。
「誰もが好む、普遍的な味というものは存在しない」という法則。
ある人は酸味のあるパスタソースを好み、ある人はピリッとした辛味のあるパスタソースを求める。
味の好みには個性があり、それぞれは相反する。
すべてを満たすパスタソースはないので、企業はそれぞれの味覚セグメントに合わせた商品を用意することで、それぞれ別のファンを獲得できる。
『三行で撃つ』に書かれていた文体の使い分けの提言は、おそらく”そういうこと”を言っているのだろう。
ある人はまろやかな、包み込んでくれるような文体を好む。ある人はピシッとした、冴えわたる文体を好む。別の人は慎重で、複雑さをより分けるような几帳面な文体を求めているかもしれない。
文体を磨く、あるいは個性を磨くとは、受け手の好みに合わせた品質を、提供していこうとする努力にあるだろう。
です/ます調・だ/である調を、何の狙いもなしに使ったところで、実りのある文体練習にはならない。
受け手が何を求めているか・どのような人に届いてほしいか・どのような感想を持ってほしいかを想定して言葉を選ぶ。
それが文体練習の出発点だと思う。
気軽に読んで欲しいと思っているのに、長い文章を書くのは間違っている。
厳密に考えてほしいのに、曖昧さを残してしまうのは間違っている。
読んでいる人を楽しませたいなら、それに相応しいフォーマットがあるはずだ。
相手に与える印象を、意識的に操作できるようになりたい。
とはいえ、文体がパスタソースなら、それは所詮調味料。
素材の味が悪ければ、全体として誰も食べたいとは思わない。
そして出店場所が悪ければ、誰も料理に気づかない。
文体はライティングのセンターピンではない。
少なくとも私は、派手で話題性があるだけの料理を出す店よりも、地味でもしっかりとした料理を出す老舗に、敬意を持つけれども。
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最後までご覧いただきありがとうございました!
文体についてこれまで意識したことが無く、新鮮に考えを巡らせられて楽しかったです。
ぜひ皆さんの文体の文体論についても教えてほしいですmm
もう少し考えを深めてみたいと感じているので、
再来週くらいまでに資料や本を読んでみて、より具体的に考えてみたいと思います。
これからも週に1回、世界を広げるための記事を書いていきます!
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