季節の巡りを愛おしく感じるために心がけていること 。
今年も、秋が来た。当たり前のことだけれど、京都に住み始めてからより一層実感するようになった気がする。夏から秋、そしてまさに今訪れようとしている冬の移り変わりは、あっという間だと思いながらもじつはゆっくりゆっくり変化していることに気付いてから、私は何気ない日々の暮らしを少しだけ好きになれた。
季節のささいな巡りを肌で感じ取ることができるのが、その街で「暮らす」ことの醍醐味だと思う。旅行で訪れただけでは分からない、1つの景色に対する、季節の巡り。
たとえば、私は同じ場所を季節を変えて眺めてみる定点観測を趣味としている。見頃を迎える季節だけでなく、あえて見頃前の景色を目に焼き付けておくだけで、見頃を迎えた頃により一層美しさを実感できる。それができるのは、私が京都の街で「暮らす」ことをしているから。目の前にあるただ通り過ぎる景色からでさえ、ちゃんと眺めていれば美しさを見出せる。
今年は、いつも散歩で訪れている梅小路公園と、イチョウがいま見頃を迎えて綺麗な西本願寺を比べてみた。
梅小路公園
週に2.3日、多い時は平日ほぼ毎日、散歩に出かける梅小路公園。園内には、もう何がなんだかわからないほどの植物がある。まるで海外の都市公園を訪れたかのような小道や、ベンチに腰掛けて自由に過ごす人たちの様子を見ていると、日々にふっと力が抜ける感覚がある。梅小路公園に行くのは当たり前すぎて、改めて季節の巡りを意識することは少なかった。けれど、11月中旬と、12月上旬の目の前に飛び込む景色があまりにも違いすぎて驚き、つい前回撮った写真と全く同じ画角で写真を撮ってみたのだった。
こんなにも変わるものなのか、たった15日ほど時間が経過しただけで。11月の頃にはまだ青々とした緑の葉っぱで覆われていたのが、12月には赤、緑、黄色、と秋らしいグラデーションに色付いていた。帰宅して、2枚の写真を見比べたとき、あまりの違いにびっくりしたものだ。いつも腰掛けて本を読んでいるベンチはそのままそこに在るのに、周りの木々だけがあまりにも変わっている。
1月には枯れていた木が、春には緑の葉をつけ、そして黄色に染まる。同じ場所なのに、「見えている景色」がこんなにも変わる。だからこそ、すぐそばにある「その街の風景」をただただ大切にしたいと思えるのだった。
西本願寺
少し長い距離を散歩するときに行くのが、西本願寺だ。景色を見に行くというよりは、ただただ大きな御影堂に入り、ぼうっとしていることが多い。けれど、西本願寺にはあまりにも大きく誇らしいイチョウの木があることで有名だ。特に、イチョウの季節は多くの人で賑わっている。
そんな西本願寺に、イチョウが黄色に染まる前の10月にあえて訪れてみた。まだ木全体が緑で瑞々しく、爽やかな秋らしい空気を感じられる。それが、イチョウのピークといわれていた先日訪れてみると、深く黄色に染まっていて驚いた。木ごと入れ替えたのだろうか…と思うほど、あまりにも見えている景色が違う。
そして、この黄色に染まったイチョウの木も、やがて季節が廻れば葉が落ち、枯れ木になる。下が今年のはじめ、1月に撮った冬のイチョウの木だ。それが、先日訪れたときには黄色に染まっていた。
目の前の景色を愛おしく感じるためには
同じ画角で写真を撮り続けると、いつも何気なく見えていた風景が、こんなにも移り変わっていることを思い知らされる。そして、その当たり前だったと思える風景も少し特別な景色だと思い、愛おしく感じるようになる。
もちろん、いつか、死ぬまでに見てみたいと思う世界中の絶景スポットだってあるけれど、うつくしいと思える景色は、家を出てすぐ、いつも当たり前に見慣れた景色のなかにだって存在しているのだ。定点観測をしていると、見慣れている何気ない景色への愛情が芽生えてきて、日々の暮らしがより一層豊かになる。
暮らしの延長にある何気ない風景が愛おしい。そう思えると、いま暮らしている街そのものも、愛おしく感じる。歩いて歩いて、たまにふと目の前に広がる風景を眺めてみて。その繰り返しで、季節は巡り、私の暮らしも続いていくのだった。