小島澪子
同じ時間を生きる誰かに起こる、あるできごと。 長い人生のうちのあるワンシーンを切り取った短編小説。
北島美和、29歳、会社員。 30回目の誕生日を控えて、 起こるできごと、思うこと、考えること。 仕事、恋愛、友人、家族。
扉の向こうではいつだって 新しい出来事、未来につながる 何かが待っている。 斉藤 鈴の人生を変えた、 扉の向こう側の物語。 章の順でも、時系列でも、 最後からでも、お好みの順番でお読みください。
1000年を超えるベストセラー、 『枕草子』の小島澪子流の現代語訳です。 古典というだけでなんだか敬遠されがちですが、 『枕草子』は本当に魅力的な作品です。 私は時々ページをめくって、彼女の言葉を読み返します。 花の色、風の音、空の様子、日常にあふれる小さな幸せ、友情、恋。 そういうことは今も昔も何も変わらないのです。 桃尻語訳や田辺聖子さんの小説(「むかし、あけぼの」)など、 現代の言葉に替えたものはとっくにありますが、 私は私なりのとらえ方で 『枕草子』を表現したいと思います。 私が好きなものを好きな時に取り上げたものであり、 順不同で、分類も特にありません。 ここで少しでも『枕草子』の世界を感じていただけたら幸いです。 (2003年ごろに書いたものです。)
考えようによっては、五歳の女の子がおれのために一人で駅まで傘を届けてくれた、というだけでも、もしかしたらすごい進展なのではないか。 なぜかこのことに一筋の光を見出したと言ってもいいくらい、可能性を信じたいと思った。 もしかしたら綾子も、最後の賭けのつもりで実那を送り出したのかもしれない。 実那のおつかいの動機が、お気に入りの雨のファッションを楽しみたかっただけだったにしろ、おこづかいやご褒美を期待したにしろ、ただの気まぐれにしろ、今日は久しぶりに明るい気持ちで綾子の顔
坂を上りきったところで、実那が足を止めた。 疲れたので一休み、というところか。 おれもそこで足を休め、立ち止まったままの実那の小さな傘の下を、こっそり上から覗き込んだ。 実那は左側に顔を向けて、何かを熱心に見ている。 植込みの切れ目から、坂の下に広がる街の灯が見えた。 「へえ、いい眺めだな」 思わずそう感想を漏らしてしまうほど、高台から望むその景色は、なかなかのものだった。 昼から夜に切り替わるこの時間のあいまいな空の明るさと、道路沿いの街灯やそれぞれの家の
雨の雫が、傘の上でバラバラと音を立てて跳ねる。 無言で坂を上りながら、足元を用心深く見守った。 五歳の実那にはこの坂は少々きついようで、ふうふう肩で息をしながら懸命に足を持ち上げている。 抱き上げたり背負ってやりたいのは山々だが(その方が自分も早く歩けて楽だ)、残念ながら簡単にそうできない事情が、お互いにあった。 コーヒー豆の販売会社から営業回りで担当のスーパーに顔を出すうちに、そこでパート店員として働いていた綾子と知り合った。付き合いはじめて一年になる。 実
改札口を通り抜けたところで、無数の銀の糸が街路樹の葉を滑り、アスファルトを濡らすのが見えた。 売店でビニール傘を買い求める人の列に連なろうとして、ふと思いとどまった。 『もう置く場所ないからね』 先月も急な雨にビニール傘を買って帰り、しっかり者の綾子に玄関の傘立ての傘の束を見るように言い渡されたのだ。 駅から続く上り坂の向こうは灰色の雲が切れてわずかに明るい。 少し待てば止みそうな様子だ。 傘の花が次々に開いて、散り散りに視界から消えていく。 ロータリーでは
私は、バブル崩壊後の就職氷河期真っ只中に就職活動をした。文系女子に厳しい社会の荒波をもろかぶりして挫けそうになった頃に、かろうじて内定した小さな印刷会社に入社した。 だから、好景気の日本を知らない。ニュースでしか見たことがない。私の知る限り、日本はずっと景気が悪い。 就職先は、ほんとに小さな会社だった。ボーナスは出る時もあれば、出ないこともあった。 仕事を覚えて半年くらいしたら、残業がどんどん増えていった。お客さんの都合に合わせて夜中まで原稿を待ったこともあるし、朝まで仕